没後80年 嘉村礒多について
2013.10.12
嘉村礒多の作品を一読した人なら、誰でもその苛烈なまでの自己露呈と練りに練った緊密な文体に対し、感動なり拒絶なりを示さずにはいられないだろう。彼の私小説はいわば己の罪の記録であり、羞恥と妄執の刻印である。ただ、そういう私小説の作者にありがちな甘いヒロイズムはなく、書くことで己を救おうとする計算もない。己の心理の内にある卑しさ、汚さを余すところなく吐露し、後ろ指をさされるのも承知の上で、徹底して正直に書いている。
嘉村は1897年12月15日に生まれた。出生地は山口県吉敷郡仁保村。中学を退学後、村役場の税務係となり、1918年に結婚。しかし妻が処女でなかったことから不和が生じ、長男誕生後もわだかまりが残る。以降、情緒不安定が続き、癇癪を爆発させることもあり、家庭内のいざこざが絶えなかった。この時期のことは「孤独」、「牡丹雪」、「不幸な夫婦」などに書かれている。
理想と異なる人生に悶々とする一方で、文人として身を立てる野心を抱き、夏目漱石門下の安倍能成に手紙を送り、文通を開始。自作を世に問うため安倍を頼りに上京を繰り返すが、雑誌掲載の願いは叶わなかった。1924年、山口県の女学校に就職。同校の裁縫助手だった小川ちとせと深い仲になり、1925年に駆け落ち同然で上京。帝国酒醤油新報社を経て『不同調』の記者となり、葛西善蔵の「酔狂者の独白」の口述筆記を務めた。
転機は1928年。「業苦」と「崖の下」を発表して宇野浩二に認められ、一部で注目されるようになる。ただし生活は貧しく、不安定なままであった。1931年、ちとせを実家に預けることを決意して帰郷するが、中央公論社に持ち込んでいた「途上」の採用通知を受け、共に上京。精力的に執筆を続けるも体を壊し、1933年11月30日に結核性腹膜炎で亡くなった。35歳だった。
嘉村礒多論は少なからず存在する。小林秀雄が「梶井基次郎と嘉村礒多」の中に記した一文、「氏の文体は観察家の文体ではない、飽くまでも倫理家の文体である」はあまりにも有名だし、太田静一の『嘉村礒多 人と作品』もすぐれた研究書として今なおその価値を失っていない。ただ、おそらく最も気魄に満ちているのは福田恆存が書いた批評である。「私小説は嘉村礒多に到つて、自我の尊嚴と、さらに藝術家の矜持をすら放擲することになつた」とし、鋭利な論調で「彼はみごとに私小説の歴史に終止符をうつたのである」と断定するあたりなど鮮やかなこと極まりない。ほかにも河上徹太郎、山本健吉、川村二郎といった高名な評論家が好意的に嘉村のことを評している。
嘉村文学の中心にあるのは、大体が自分の家庭の内幕、不満と羞恥に満ちた心理的内幕である。妻が処女でなかったことに失望して根に持つ、自分への関心を妻から奪った我が子を嫌悪する、家族から大事に扱われたいがために仮病をつかう、愛人のちょっとした言動が気に入らず虐める、愛人と暮らしながらも郷里に捨てた妻子への未練を吐露する、出版社からの原稿採用の知らせに「日本一になった!」と舞い倒れる、帰郷時に父母が祖父を虐待しているのを見て暗い気持ちになるーー余計な想像を必要としないそのリアリズムの描写は、もはや誠実さを通り越している感すらある。書かれた身内にしてみれば、たまったものではないだろう。平野謙はこういう作家の態度を「芸術至上主義」ならぬ「芸術家至上主義」と評したが、いい得て妙である。
幼少時より嘉村は地黒であることに激しい劣等感を抱き、「黒磯」と嘲られた苦しみを延々引きずっていた。そして、あたかもその反動であるかのように、明確な幸福を人並み以上に希求し、出世欲を持ち、死ぬまで現世のことに右往左往していた。一時期傾倒した宗教や哲学からも満足を得ることはなかった。彼は求めて得られるレベルの居心地のよさと折り合いをつけることが出来ずに、公私の充実をまさぐり求め、結局は過去の罪や羞恥の記憶にとらわれ、平穏な状態に違和感を覚えてしまうタイプの人間であった。
「私は四十になり五十になつても、よし気が狂つても、頭の中に生きて刻まれてある恋人の家族の前で火鉢をこはした不体裁な失態、本能の底から湧出る慚愧を葬ることが出来ない。その都度、跳ね上り、わが体を擲き、気狂ひの真似をして恥づかしさの発情を誤魔化さうと焦らずにはゐられないのである。この一小事のみで既に私を終生、かりに一つ二つの幸福が胸に入つた瞬間でも、立所にそれを毀損するに十分であつた」
どんなに自分をへりくだらせても、俗臭にまみれさせても、ぶざまに見せても構わないといわんばかりの創作態度は、嘉村の場合、どのようにして生まれたのか。私は、そこに単なる自虐や反省や誠実とは異なるものを感じずにはいられない。最初にその疑問を生じさせたのは、次の文章である。注意深く読めば、作者の強みのようなものが浮き出てくるはずだ。
「印刷所である蠣殻町の大勢新聞社で、空腹を感じてをる折、主人は一と皿のカツレツを恵んでくれる。そんな時に平蔵は、とんだ校正の間違ひをして居並ぶ社員の面前で主人に低腦呼ばはりされた恨みも忘れて、さもさも嬉しげに耳を垂れ、いかに愛想よく尻尾を振り振り五体を地べたに低くすりつけて、その衷心に溢れる感謝の情を示さねばならないか。それは本物の犬に比ぶべくもない迚も迚も上手の犬である。然も平蔵は、もし仮に矜(ほこ)つて言ふならば、相対的の人間性、殊に卑しい利慾と打算そのものの禿げ頭の主人に狎れ親しむことの危険も、誤謬も、識り尽くしてゐるのだ。と言つてみても通らない」
文人仲間から見ると謹厳実直だったらしい嘉村の素顔の内側には、自戒と劣等感の凝固した刃があった。かつて川村二郎は、嘉村礒多の文学の魅力は徹底して低い声部に執着し続ける旋律の浸潤力にあると評したが、嘉村はその低さをほとんど選択の余地のない状態で選びとり、低位置にあるがゆえに持ち得るひたむきさ、大胆さ、賢明さを己の中に共存させていたのである。
その実像は1920年から1924年にかけて書かれた安倍能成宛の書簡を読むと、より鮮明になる。亡き綱島梁川の遺族の消息を知りたい、と面識のない安倍能成に一通目の手紙を送り、年に数通手紙を書いてよいかと許しを乞い、徐々に手紙の量を増やして、家庭の不和を長々と綴ったり、自作の斡旋をお願いしたりしているのだ。そして上京時には、安倍が教鞭を執っていた法政大学の聴講生になるばかりでなく、安倍に豊島与志雄を紹介してもらい、短期間師事している。これらの手紙にみられるへりくだり方や、丁寧すぎて厚かましいともいえる調子には、小林秀雄が葛西善蔵を評した際の名言、「純粋すぎる謙遜が倨傲の一形式になる」を思わせるものがある。畢竟、安倍宛の書簡自体が嘉村の文章修行の場であり、生々しいリアリズムの作品だといっても過言ではない。
嘉村礒多というと「業苦」と「崖の下」が有名だが、その続編ともいえる「生別離」、半生記の「途上」、葛西善蔵三周忌前夜の複雑な思いを吐露した「七月二十二日の夜」、嘉村文学のエッセンスが詰まった「神前結婚」、その長いプロローグである「父の家」も、嘉村文学を語る上で重要な作品だ。これらを読んだ後、多くの人は、ここまで真っ正直に書くのは常軌を逸しているし、様々な人間関係を壊してしまうと考えるかもしれない。しかし、限度なき自己露呈が読者に対して普遍性を持つこともある。道徳や防衛本能によって、自分が口にしたくとも決して口に出来ないようなこと、思いたくても絶対に思わないようにしていること、それが嘉村礒多という作家を通じて克明に表現されている、と感じる人も少なくないはずだ。厳しい不文律が目を光らせている今の時代に作家が同じことをしたら即炎上だろう。
小林秀雄の証言によると、嘉村は「近頃自分の文章が窮屈で固いものとなり、どうかして改良を加えたいものだ」と語っていたらしい。その努力の成果かどうかは分からないが、死の年に発表された「神前結婚」にはそこまでの窮屈さや固さはない。作家として変化を遂げつつあった矢先の早世がつくづく惜しまれる。
【関連サイト】
嘉村礒多生家(kamura-isota.jp)
嘉村は1897年12月15日に生まれた。出生地は山口県吉敷郡仁保村。中学を退学後、村役場の税務係となり、1918年に結婚。しかし妻が処女でなかったことから不和が生じ、長男誕生後もわだかまりが残る。以降、情緒不安定が続き、癇癪を爆発させることもあり、家庭内のいざこざが絶えなかった。この時期のことは「孤独」、「牡丹雪」、「不幸な夫婦」などに書かれている。
理想と異なる人生に悶々とする一方で、文人として身を立てる野心を抱き、夏目漱石門下の安倍能成に手紙を送り、文通を開始。自作を世に問うため安倍を頼りに上京を繰り返すが、雑誌掲載の願いは叶わなかった。1924年、山口県の女学校に就職。同校の裁縫助手だった小川ちとせと深い仲になり、1925年に駆け落ち同然で上京。帝国酒醤油新報社を経て『不同調』の記者となり、葛西善蔵の「酔狂者の独白」の口述筆記を務めた。
転機は1928年。「業苦」と「崖の下」を発表して宇野浩二に認められ、一部で注目されるようになる。ただし生活は貧しく、不安定なままであった。1931年、ちとせを実家に預けることを決意して帰郷するが、中央公論社に持ち込んでいた「途上」の採用通知を受け、共に上京。精力的に執筆を続けるも体を壊し、1933年11月30日に結核性腹膜炎で亡くなった。35歳だった。
嘉村礒多論は少なからず存在する。小林秀雄が「梶井基次郎と嘉村礒多」の中に記した一文、「氏の文体は観察家の文体ではない、飽くまでも倫理家の文体である」はあまりにも有名だし、太田静一の『嘉村礒多 人と作品』もすぐれた研究書として今なおその価値を失っていない。ただ、おそらく最も気魄に満ちているのは福田恆存が書いた批評である。「私小説は嘉村礒多に到つて、自我の尊嚴と、さらに藝術家の矜持をすら放擲することになつた」とし、鋭利な論調で「彼はみごとに私小説の歴史に終止符をうつたのである」と断定するあたりなど鮮やかなこと極まりない。ほかにも河上徹太郎、山本健吉、川村二郎といった高名な評論家が好意的に嘉村のことを評している。
嘉村文学の中心にあるのは、大体が自分の家庭の内幕、不満と羞恥に満ちた心理的内幕である。妻が処女でなかったことに失望して根に持つ、自分への関心を妻から奪った我が子を嫌悪する、家族から大事に扱われたいがために仮病をつかう、愛人のちょっとした言動が気に入らず虐める、愛人と暮らしながらも郷里に捨てた妻子への未練を吐露する、出版社からの原稿採用の知らせに「日本一になった!」と舞い倒れる、帰郷時に父母が祖父を虐待しているのを見て暗い気持ちになるーー余計な想像を必要としないそのリアリズムの描写は、もはや誠実さを通り越している感すらある。書かれた身内にしてみれば、たまったものではないだろう。平野謙はこういう作家の態度を「芸術至上主義」ならぬ「芸術家至上主義」と評したが、いい得て妙である。
幼少時より嘉村は地黒であることに激しい劣等感を抱き、「黒磯」と嘲られた苦しみを延々引きずっていた。そして、あたかもその反動であるかのように、明確な幸福を人並み以上に希求し、出世欲を持ち、死ぬまで現世のことに右往左往していた。一時期傾倒した宗教や哲学からも満足を得ることはなかった。彼は求めて得られるレベルの居心地のよさと折り合いをつけることが出来ずに、公私の充実をまさぐり求め、結局は過去の罪や羞恥の記憶にとらわれ、平穏な状態に違和感を覚えてしまうタイプの人間であった。
「私は四十になり五十になつても、よし気が狂つても、頭の中に生きて刻まれてある恋人の家族の前で火鉢をこはした不体裁な失態、本能の底から湧出る慚愧を葬ることが出来ない。その都度、跳ね上り、わが体を擲き、気狂ひの真似をして恥づかしさの発情を誤魔化さうと焦らずにはゐられないのである。この一小事のみで既に私を終生、かりに一つ二つの幸福が胸に入つた瞬間でも、立所にそれを毀損するに十分であつた」
(「途上」)
どんなに自分をへりくだらせても、俗臭にまみれさせても、ぶざまに見せても構わないといわんばかりの創作態度は、嘉村の場合、どのようにして生まれたのか。私は、そこに単なる自虐や反省や誠実とは異なるものを感じずにはいられない。最初にその疑問を生じさせたのは、次の文章である。注意深く読めば、作者の強みのようなものが浮き出てくるはずだ。
「印刷所である蠣殻町の大勢新聞社で、空腹を感じてをる折、主人は一と皿のカツレツを恵んでくれる。そんな時に平蔵は、とんだ校正の間違ひをして居並ぶ社員の面前で主人に低腦呼ばはりされた恨みも忘れて、さもさも嬉しげに耳を垂れ、いかに愛想よく尻尾を振り振り五体を地べたに低くすりつけて、その衷心に溢れる感謝の情を示さねばならないか。それは本物の犬に比ぶべくもない迚も迚も上手の犬である。然も平蔵は、もし仮に矜(ほこ)つて言ふならば、相対的の人間性、殊に卑しい利慾と打算そのものの禿げ頭の主人に狎れ親しむことの危険も、誤謬も、識り尽くしてゐるのだ。と言つてみても通らない」
(「生別離」)
文人仲間から見ると謹厳実直だったらしい嘉村の素顔の内側には、自戒と劣等感の凝固した刃があった。かつて川村二郎は、嘉村礒多の文学の魅力は徹底して低い声部に執着し続ける旋律の浸潤力にあると評したが、嘉村はその低さをほとんど選択の余地のない状態で選びとり、低位置にあるがゆえに持ち得るひたむきさ、大胆さ、賢明さを己の中に共存させていたのである。
その実像は1920年から1924年にかけて書かれた安倍能成宛の書簡を読むと、より鮮明になる。亡き綱島梁川の遺族の消息を知りたい、と面識のない安倍能成に一通目の手紙を送り、年に数通手紙を書いてよいかと許しを乞い、徐々に手紙の量を増やして、家庭の不和を長々と綴ったり、自作の斡旋をお願いしたりしているのだ。そして上京時には、安倍が教鞭を執っていた法政大学の聴講生になるばかりでなく、安倍に豊島与志雄を紹介してもらい、短期間師事している。これらの手紙にみられるへりくだり方や、丁寧すぎて厚かましいともいえる調子には、小林秀雄が葛西善蔵を評した際の名言、「純粋すぎる謙遜が倨傲の一形式になる」を思わせるものがある。畢竟、安倍宛の書簡自体が嘉村の文章修行の場であり、生々しいリアリズムの作品だといっても過言ではない。
嘉村礒多というと「業苦」と「崖の下」が有名だが、その続編ともいえる「生別離」、半生記の「途上」、葛西善蔵三周忌前夜の複雑な思いを吐露した「七月二十二日の夜」、嘉村文学のエッセンスが詰まった「神前結婚」、その長いプロローグである「父の家」も、嘉村文学を語る上で重要な作品だ。これらを読んだ後、多くの人は、ここまで真っ正直に書くのは常軌を逸しているし、様々な人間関係を壊してしまうと考えるかもしれない。しかし、限度なき自己露呈が読者に対して普遍性を持つこともある。道徳や防衛本能によって、自分が口にしたくとも決して口に出来ないようなこと、思いたくても絶対に思わないようにしていること、それが嘉村礒多という作家を通じて克明に表現されている、と感じる人も少なくないはずだ。厳しい不文律が目を光らせている今の時代に作家が同じことをしたら即炎上だろう。
小林秀雄の証言によると、嘉村は「近頃自分の文章が窮屈で固いものとなり、どうかして改良を加えたいものだ」と語っていたらしい。その努力の成果かどうかは分からないが、死の年に発表された「神前結婚」にはそこまでの窮屈さや固さはない。作家として変化を遂げつつあった矢先の早世がつくづく惜しまれる。
(阿部十三)
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