伊東靜雄 それがいかに光耀にみちてゐるものであつても [続き]
2014.06.21
『夏花』の死
1940年3月、詩集『夏花』が出版された。これは『わがひとに與ふる哀歌』から、さらに一歩成熟したことをうかがわせる内容だ。巻頭に置かれているのは、三島由紀夫が「もつとも音楽的な、新古今集以来もつともきらびやかな日本語で書かれた、あの、ほとんど意味のない、空しいほどに明るい」と評した「燕」である。
「夕の海」と「燈臺の光を見つつ」は、灯台に照らされた夜の海をうたった詩である。これらは先に引用した「わがひとに與ふる哀歌」の後半部分と根底で通ずる悲しさを感じさせるが、力のぬけたむなしさの度合いがより強い。「光」や「ひかり」という言葉があるにもかかわらず、いやむしろそれらの言葉があればこそ、読む者を深い闇で包み込むのである。
「八月の石にすがりて」、「水中花」、「自然に、充分自然に」のように、死の印象が唐突に解放される詩も美しい。ここで伊東は人情のわめき声を周到に取り払い、死そのものを掬い上げることにより、もっと根源的な、俳句に近い詠嘆へと私たちを誘う。
八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
ーーやがて子供は見たのであつた、
礫のやうにそれが地上に落ちるのを。
そこに小鳥はらくらくと仰けにね轉んだ。(※)
付言しておくと、このような唐突ともいえる死の解放は『夏花』特有のものではない。1933年に書かれた「川沿ひの公園」に出てくる無数の「死魚」の延長線上にあると指摘することが出来る。ただ、その頃とは言葉の磨かれ方も、想念の深さも、まるで別人のように変わっている。
※原文ではくの字点が用いられている。ここではサイトのシステム上表示されないため、「らくらく」と記した。
『春のいそぎ』へ
戦争を境に、伊東の詩はそれまでと趣を異にする。苛烈なる伊東の自我が、苛烈化した現実との距離感をなくし、「『現実』の側からの『現実の神話化』と、『自我』の側からの緊張の弛緩とによって、しだいに現実の神話をなぞる文学方法へと移行してゆく」(磯田光一)のである。1943年9月に出版された詩集『春のいそぎ』からは、自我の内に起こる閃きや爆発は感じられない。すでに死が日常化し、現実が苛烈な状態になっているため、かつて「切に希はれた太陽」もほとんど出てこない。「百千の」に登場する太陽も、悲しい意味を帯びてはいるものの、それは詩的想念から生まれた太陽ではなく、あくまでも現実に存在し、果実を実らせる「秋の太陽」である。
それでも私は『春のいそぎ』を詩的創造力の急速な退潮と断じたり、戦争詩があるから読むにたえないと片付けたりすることに躊躇を覚えるのである。それは「庭の蝉」や「夏の終」のような詩があるからだ。その詩句から浮かび上がる大きな危機感からは、小野十三郎が指摘したように、当時のファナティックな作家や思想家の精神とは「つながらない、つながらせてはならないもの」が読み取れるのである。
そんなことは皆どうでもよいのだつた
ただある壮大なものが徐かに傾いてゐるのであつた
そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた
戦争中、学生だった三島由紀夫(平岡公威)は、『花ざかりの森』の序文を書いてもらうため、敬愛する伊東のもとを訪ねる。1944年5月17日のことだ。そして5月22日、三島は伊東家で夕食をごちそうになる。その日の日記に、伊東はこのように記している。「學校に三時頃平岡來る。夕食を出す。俗人」ーー「俗人」の一言で片付けられてしまった三島は、これに応じるような形で、22年後に伊東を「小人物」と評した。『新潮』(1966年11月号)に掲載された「伊東靜雄の詩」でのことである。しかし、それでも彼は悔しいほどの愛情を示さなければ気が済まなかった。
「俺にとつてあの人の詩句は、着物の中に縫ひ忘れた針のやうに、どこかわからぬが、突然、過去から針先をつき出して、肌を刺してくる感じがする。どんなに典雅な、たとへば詩集『春のいそぎ』の中の詩句でもさうなのだ。伊東靜雄の詩は、俺の心の中で、ひどくいらいらさせる美しさを保つてゐる。あの人は愚かな人だつた。生きのびた者の特権で言はせてもらふが、あの人は一個の小人物だつた。それでゐて飛切りの詩人だつた」
『春のいそぎ』の題は、自序にもあるように、伴林光平の短歌からとられたものである。そして、『春のいそぎ』の中には「春の雪」と題された詩がある。これが三島の『春の雪』につながっていることはいうまでもない。文人の血脈である。
『反響』と晩年
1947年11月に出版された『反響』には、終戦後の伊東の心境を示す作品が収められている。この詩集は『わがひとに與ふる哀歌』に否定的だった三好達治に認められ、伊東をそれなりに喜ばせたが、「やや疲れたところが見える。あるいは何かががくりと折れたというような感じがある」(江藤淳)のは事実であり、精神の激しい高揚や肉体の力を要する場所から離れたところで書かれた詩が多い。ただ、光を求める伊東の詩心は静かに貫徹されている。「詩作の後」や「夏の終り」のように眩さや輝きとの訣別を匂わせる作品もあるが、これを衰えと結びつけるのは早計である。それよりも「夕映」にこめられた感情の方が支配的であることを私は感じる。
そしてわたしもまた
夕毎にやつと活計からのがれて
この窓べに文字をつづる
ねがはくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
假令それが痛みからのものであつても
また悔いと實りのない憧れからの
たつたひとりのものであつたにしても
終戦で「がくりと折れた」後、それでも己を保っている詩人の魂の光が貴いものにみえる。ほかにも、さまざまな葛藤を経て、まるで伊東自身が小さな光と化し、周囲の事象を照らしているような印象を受ける詩がいくつかある。中でも象徴的なのは、「中心に燃える」だろう。
そして自ら燃えることのほかには不思議な無關心さで
闇とひとの夢幻をはなれて
蠟燭はひとり燃える
『反響』以降、伊東は病気に悩まされ、長い入院生活を送っていた。そして大喀血の後、1953年3月12日に亡くなる。46歳だった。
大喀血の前、1953年1月に書かれた「長い療養生活」という詩がある。ここに出てくる星が、伊東の詩で最後に輝く星である。この星は太陽ではない。月である。病床で月に見つめられているのが、「わがひとに與ふる哀歌」の詩人であったことを思うと、残酷な慰めを感じずにはいられない。
長い療養生活
せんにひどく容態の惡かつたころ。
深夜にふと目がさめた。私はカーテンの左のはづれから
白く輝く月につよく見つめられてゐたのだつた。
まためさめる。矢張りゐた。今度は右の端に。
だいぶ明け方近い黄色味を帯びてやさしくクスンと笑つた。
クスンと私も笑ふと不意に涙がほとばしり出た。
本稿を終える前に、1939年9月19日に書かれた日記を紹介しておきたい。時は詩集『夏花』の頃。この文章は後に彫琢され、「そんなに凝視めるな」という詩になるが、訓諭的な構えを持った詩よりも日記の文面の方が心にしみてくるようで、私は好きである。
「そんなにみつむるな若い友、ふかい瞳に自然が與へる暗示は、それがいかに光耀にみちてゐるものであつても、つまるところ(それは)悲しみだ。自然は、變化だからだ、そして又僕らも變化だ」
脱凝視の訓諭。これを『春のいそぎ』への下降のはじまりとみなす論も少なくないが、結局のところ、「自然が與へる暗示」を凝視せずにいられなかったのは若い友ではなく、伊東自身なのである。光耀を知り、悲しみを知る。光耀を見つめれば見つめるほど、悲しみが増す。その痛みが詩の源泉になる。彼は痛みを捨てたのではなく、肉体の苦痛とは別のところで、常に己の内にあるのを自覚していた。そこから逃れられないことも分かっていた。そうでなければ「長い療養生活」のような詩は生まれ得ない。最後まで、伊東は詩人の業の中に己の魂を抛ったのである。
【参考文献】
『伊東靜雄全集』(人文書院 1961年2月)
保田與重郎「わがひとに與ふる哀歌」(『四季』 1935年11月)
萩原朔太郎「わがひとに與ふる哀歌ーー伊東靜雄君の詩について」(『コギト』 1936年1月)
富士正晴「『詩集夏花』をめぐつて」(『文芸文化』 1940年1〜3月)
桑原武夫「伊東靜雄の詩」(『伊東靜雄詩集』解説 創元社 1953年7月)
富士正晴「伊東靜雄について」(『近代文学』1953年12月)
中西靖忠「同僚としての伊東靜雄ーー洗いざらいの記」(『果樹園』 1965年3月)
磯田光一「伊東靜雄論ーー故郷喪失者の抒情」(『批評』 1965年4月)
小高根二郎『詩人、その生涯と運命』(新潮社 1965年5月)
大岡信「抒情の行方ーー伊東靜雄と三好達治」(『文学』 1965年11月・『蕩児の家系』 思潮社 1969年4月)
江藤淳「文學随想ーー伊東静雄の詩業について」(『現代史手帖』1965年8月・『崩壊からの創造』 月勁草書房 1969年5月)
三島由起夫「伊東靜雄の詩」(『新潮』 1966年11月)
饗庭孝男「伊東靜雄論」(『日本浪漫派研究』第2号 1967年7月)
小野十三郎「伊東の幽霊」(『ユリイカ』 1971年10月)
川副国基『近代文学の風景』(桜楓社 1976年6月)
小川和佑『伊東静雄論考』(叢文社 1983年3月)
【関連サイト】
伊東静雄詩集(書籍)
伊東靜雄 それがいかに光耀にみちてゐるものであつても
1940年3月、詩集『夏花』が出版された。これは『わがひとに與ふる哀歌』から、さらに一歩成熟したことをうかがわせる内容だ。巻頭に置かれているのは、三島由紀夫が「もつとも音楽的な、新古今集以来もつともきらびやかな日本語で書かれた、あの、ほとんど意味のない、空しいほどに明るい」と評した「燕」である。
「夕の海」と「燈臺の光を見つつ」は、灯台に照らされた夜の海をうたった詩である。これらは先に引用した「わがひとに與ふる哀歌」の後半部分と根底で通ずる悲しさを感じさせるが、力のぬけたむなしさの度合いがより強い。「光」や「ひかり」という言葉があるにもかかわらず、いやむしろそれらの言葉があればこそ、読む者を深い闇で包み込むのである。
「八月の石にすがりて」、「水中花」、「自然に、充分自然に」のように、死の印象が唐突に解放される詩も美しい。ここで伊東は人情のわめき声を周到に取り払い、死そのものを掬い上げることにより、もっと根源的な、俳句に近い詠嘆へと私たちを誘う。
八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
(「八月の石にすがりて」)
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
(「水中花」)
ーーやがて子供は見たのであつた、
礫のやうにそれが地上に落ちるのを。
そこに小鳥はらくらくと仰けにね轉んだ。(※)
(「自然に、充分自然に」)
付言しておくと、このような唐突ともいえる死の解放は『夏花』特有のものではない。1933年に書かれた「川沿ひの公園」に出てくる無数の「死魚」の延長線上にあると指摘することが出来る。ただ、その頃とは言葉の磨かれ方も、想念の深さも、まるで別人のように変わっている。
※原文ではくの字点が用いられている。ここではサイトのシステム上表示されないため、「らくらく」と記した。
『春のいそぎ』へ
戦争を境に、伊東の詩はそれまでと趣を異にする。苛烈なる伊東の自我が、苛烈化した現実との距離感をなくし、「『現実』の側からの『現実の神話化』と、『自我』の側からの緊張の弛緩とによって、しだいに現実の神話をなぞる文学方法へと移行してゆく」(磯田光一)のである。1943年9月に出版された詩集『春のいそぎ』からは、自我の内に起こる閃きや爆発は感じられない。すでに死が日常化し、現実が苛烈な状態になっているため、かつて「切に希はれた太陽」もほとんど出てこない。「百千の」に登場する太陽も、悲しい意味を帯びてはいるものの、それは詩的想念から生まれた太陽ではなく、あくまでも現実に存在し、果実を実らせる「秋の太陽」である。
それでも私は『春のいそぎ』を詩的創造力の急速な退潮と断じたり、戦争詩があるから読むにたえないと片付けたりすることに躊躇を覚えるのである。それは「庭の蝉」や「夏の終」のような詩があるからだ。その詩句から浮かび上がる大きな危機感からは、小野十三郎が指摘したように、当時のファナティックな作家や思想家の精神とは「つながらない、つながらせてはならないもの」が読み取れるのである。
そんなことは皆どうでもよいのだつた
ただある壮大なものが徐かに傾いてゐるのであつた
そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた
(「夏の終」)
戦争中、学生だった三島由紀夫(平岡公威)は、『花ざかりの森』の序文を書いてもらうため、敬愛する伊東のもとを訪ねる。1944年5月17日のことだ。そして5月22日、三島は伊東家で夕食をごちそうになる。その日の日記に、伊東はこのように記している。「學校に三時頃平岡來る。夕食を出す。俗人」ーー「俗人」の一言で片付けられてしまった三島は、これに応じるような形で、22年後に伊東を「小人物」と評した。『新潮』(1966年11月号)に掲載された「伊東靜雄の詩」でのことである。しかし、それでも彼は悔しいほどの愛情を示さなければ気が済まなかった。
「俺にとつてあの人の詩句は、着物の中に縫ひ忘れた針のやうに、どこかわからぬが、突然、過去から針先をつき出して、肌を刺してくる感じがする。どんなに典雅な、たとへば詩集『春のいそぎ』の中の詩句でもさうなのだ。伊東靜雄の詩は、俺の心の中で、ひどくいらいらさせる美しさを保つてゐる。あの人は愚かな人だつた。生きのびた者の特権で言はせてもらふが、あの人は一個の小人物だつた。それでゐて飛切りの詩人だつた」
(三島由紀夫「伊東靜雄の詩」)
『春のいそぎ』の題は、自序にもあるように、伴林光平の短歌からとられたものである。そして、『春のいそぎ』の中には「春の雪」と題された詩がある。これが三島の『春の雪』につながっていることはいうまでもない。文人の血脈である。
『反響』と晩年
1947年11月に出版された『反響』には、終戦後の伊東の心境を示す作品が収められている。この詩集は『わがひとに與ふる哀歌』に否定的だった三好達治に認められ、伊東をそれなりに喜ばせたが、「やや疲れたところが見える。あるいは何かががくりと折れたというような感じがある」(江藤淳)のは事実であり、精神の激しい高揚や肉体の力を要する場所から離れたところで書かれた詩が多い。ただ、光を求める伊東の詩心は静かに貫徹されている。「詩作の後」や「夏の終り」のように眩さや輝きとの訣別を匂わせる作品もあるが、これを衰えと結びつけるのは早計である。それよりも「夕映」にこめられた感情の方が支配的であることを私は感じる。
そしてわたしもまた
夕毎にやつと活計からのがれて
この窓べに文字をつづる
ねがはくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
假令それが痛みからのものであつても
また悔いと實りのない憧れからの
たつたひとりのものであつたにしても
(「夕映」)
終戦で「がくりと折れた」後、それでも己を保っている詩人の魂の光が貴いものにみえる。ほかにも、さまざまな葛藤を経て、まるで伊東自身が小さな光と化し、周囲の事象を照らしているような印象を受ける詩がいくつかある。中でも象徴的なのは、「中心に燃える」だろう。
そして自ら燃えることのほかには不思議な無關心さで
闇とひとの夢幻をはなれて
蠟燭はひとり燃える
(「中心に燃える」)
『反響』以降、伊東は病気に悩まされ、長い入院生活を送っていた。そして大喀血の後、1953年3月12日に亡くなる。46歳だった。
大喀血の前、1953年1月に書かれた「長い療養生活」という詩がある。ここに出てくる星が、伊東の詩で最後に輝く星である。この星は太陽ではない。月である。病床で月に見つめられているのが、「わがひとに與ふる哀歌」の詩人であったことを思うと、残酷な慰めを感じずにはいられない。
長い療養生活
せんにひどく容態の惡かつたころ。
深夜にふと目がさめた。私はカーテンの左のはづれから
白く輝く月につよく見つめられてゐたのだつた。
まためさめる。矢張りゐた。今度は右の端に。
だいぶ明け方近い黄色味を帯びてやさしくクスンと笑つた。
クスンと私も笑ふと不意に涙がほとばしり出た。
本稿を終える前に、1939年9月19日に書かれた日記を紹介しておきたい。時は詩集『夏花』の頃。この文章は後に彫琢され、「そんなに凝視めるな」という詩になるが、訓諭的な構えを持った詩よりも日記の文面の方が心にしみてくるようで、私は好きである。
「そんなにみつむるな若い友、ふかい瞳に自然が與へる暗示は、それがいかに光耀にみちてゐるものであつても、つまるところ(それは)悲しみだ。自然は、變化だからだ、そして又僕らも變化だ」
脱凝視の訓諭。これを『春のいそぎ』への下降のはじまりとみなす論も少なくないが、結局のところ、「自然が與へる暗示」を凝視せずにいられなかったのは若い友ではなく、伊東自身なのである。光耀を知り、悲しみを知る。光耀を見つめれば見つめるほど、悲しみが増す。その痛みが詩の源泉になる。彼は痛みを捨てたのではなく、肉体の苦痛とは別のところで、常に己の内にあるのを自覚していた。そこから逃れられないことも分かっていた。そうでなければ「長い療養生活」のような詩は生まれ得ない。最後まで、伊東は詩人の業の中に己の魂を抛ったのである。
(阿部十三)
【参考文献】
『伊東靜雄全集』(人文書院 1961年2月)
保田與重郎「わがひとに與ふる哀歌」(『四季』 1935年11月)
萩原朔太郎「わがひとに與ふる哀歌ーー伊東靜雄君の詩について」(『コギト』 1936年1月)
富士正晴「『詩集夏花』をめぐつて」(『文芸文化』 1940年1〜3月)
桑原武夫「伊東靜雄の詩」(『伊東靜雄詩集』解説 創元社 1953年7月)
富士正晴「伊東靜雄について」(『近代文学』1953年12月)
中西靖忠「同僚としての伊東靜雄ーー洗いざらいの記」(『果樹園』 1965年3月)
磯田光一「伊東靜雄論ーー故郷喪失者の抒情」(『批評』 1965年4月)
小高根二郎『詩人、その生涯と運命』(新潮社 1965年5月)
大岡信「抒情の行方ーー伊東靜雄と三好達治」(『文学』 1965年11月・『蕩児の家系』 思潮社 1969年4月)
江藤淳「文學随想ーー伊東静雄の詩業について」(『現代史手帖』1965年8月・『崩壊からの創造』 月勁草書房 1969年5月)
三島由起夫「伊東靜雄の詩」(『新潮』 1966年11月)
饗庭孝男「伊東靜雄論」(『日本浪漫派研究』第2号 1967年7月)
小野十三郎「伊東の幽霊」(『ユリイカ』 1971年10月)
川副国基『近代文学の風景』(桜楓社 1976年6月)
小川和佑『伊東静雄論考』(叢文社 1983年3月)
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