文化 CULTURE

横山光輝『マーズ』 絶望と無力を教えるもの

2014.08.09
 誰もが知る横山光輝の代表作は、『鉄人28号』『伊賀の影丸』『魔法使いサリー』『バビル2世』『三国志』になるのだろうが、単に好きとか面白いという感想をこえて私の記憶にしみついているのは、『あばれ天童』と『マーズ』である。とくに『マーズ』は、中学生だった私を震撼させ、数日間絶望させた漫画として忘れられない。

 私が読んだのは秋田書店から出版されたコミックスだが、この漫画はもともと1976年3月29日号(通巻321号)から1977年2月28日号(通巻371号)の『週刊少年チャンピオン』に連載されていた。手塚治虫の『ブラック・ジャック』、水島新司の『ドカベン』、藤子不二雄Aの『ブラック商会変奇郎』、古賀新一の『エコエコアザラク』、山上たつひこの『がきデカ』とも連載時期が重なっている。同誌の黄金期である。

 マーズとは、地球の監視役として宇宙から送り込まれた少年の名前である。遠い昔、「この地球の人類の好戦的な性質に寒気を感じた」宇宙人は、「もしこの人類が残忍さと好戦的な性質を持ったまま宇宙に飛び出してきたらこの人類は宇宙の侵略者になりかねない」と危惧し、マーズと「六神体」を監視役として世界各地にセットした。計画通りにゆけば、マーズは長い眠りから覚めた後、宇宙の脅威となる兵器を地球人が持っているかどうか判断し、地球全体を吹き飛ばす巨大ロボット、ガイアーを起動させるはずだった。暴力を滅ぼすための暴力は正義とされる典型的図式である。

 しかし、海底火山の噴火の影響で予定よりも100年早く目覚めてしまったマーズは、記憶を失っていた。自分に課せられた使命も忘れていた。それどころか、六神体の一人であるラーが、「地球人は場所や環境によって悪鬼に早変わりするのだ」と説くのに対し、「あんたが恐れるほど地球人は残忍で好戦的とは思えない」と応じる。

 マーズが地球人を守ろうとはっきり決意するのは、彼がふれあった医師の娘、春美の影響である。マーズが人類の歴史を調べている間、春美と交わした会話が、彼の心を動かしたといっても過言ではない。

「しかし驚いたな。よくこれだけ戦争をしてますね」
「そうね。昔は戦争ばかりしていたようね。でもそれは昔の話。今は違うわ。戦争というものがどれほどおろかな行為かみんな知ってるわ」
「それに残忍なことも平気でやってる」
「平気でやったのじゃなくその人たちが考えちがいしてたのよ。だからそれがわかった時こうして非難をこめて書き記されているのよ」


 マーズが地球破壊の任務を放棄したことで、六神体は激怒する。ガイアーに命令を下せるのはマーズだけだ。が、マーズが死んでもガイアーは爆発するように設定されている。そこで六神体はマーズ抹殺を企てる。かくして死闘の火蓋が切られるが、激戦の中、理性を失い秩序を乱す人々、それを撃ち殺す体制側の人々を目の当たりにし、マーズの中に迷いが生じる。

 死闘の末、六神体の最後の敵であるラーを葬り、マーズは「これですべてが終わった」と言う。この漫画を初めて読んだとき、私も「これで終わりか」と思ったものだが、ここでは終わらない。地球の危機を信じず、マーズのことを災いの元凶とみなす人間たちが、集団でマーズに襲いかかるのである。そして、傷だらけになったマーズの口から次の台詞が発せられる。

「ナントイウミニクイ姿ダ。コレガ人間カ......ドウシテボクハコノ動物ヲ守ロウトシタノダ」

 結末は寒気がするほど呆気ない。漫画の中にいる人間たちだけでなく、読者までもが突き放されたような気持ちになる。数多ある横山作品の中で最もデスパレートな結末といってよいだろう。

 『マーズ』では、人類はほとんど役に立たない無力な存在として描かれる。彼らはただ死ぬために武器を携えて登場するだけだ。それゆえに、人類がマーズに貢献する場面はかえって強い印象を残す。ひとつは、マーズの第一発見者である新聞記者の岩倉が、命がけでマーズの秘密を究明し、重傷を負ったマーズを「人造細胞液」の中に入れて救う場面であり、もうひとつは、ラーが送り出す探知ロボットを射撃手たちが撃ち落とす場面である。しかし、そうした共闘も無駄に終わる。ラストで絶望し、「ガイアー」と叫ぶマーズは、おそらく春美の存在すら忘れている。

 ガイアーに爆破を起こさせる方法は、マーズが命令すること、マーズが死ぬこと以外にもある。六神体が「外側から」破壊されることである。岩倉が調べたところによると、これらは「地球人の破壊兵器が宇宙人より発達した時を考えて作られ」たものらしい。まさかガイアーによって破壊されることになろうとは、当初、宇宙人も想定していなかったろう。

 この六神体の外観はユニークである。ガイアーやガイアーを目覚めさせるタイタンの外観はいかにもロボットだが、六神体の方はダルマ型だったり、土偶型だったり、球体だったりする。その不気味でシュールなフォルムは(好意的にいえば)どことなく『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒を想起させなくもないが、そこまでの美学は感じないし、かなり感情移入しにくい存在ではある。

 思えば、『バビル2世』で敵役のヨミに2度目の復活を遂げさせたのは「宇宙ビールス」だった。いわば宇宙の明確な意志により、人間生活が危機に陥るのだ。その基調が『マーズ』に継がれている。『週刊少年チャンピオン』(1976年5月24日号)の読者コーナー「チャンピオン・パック」には、「以前連載された『バビル2世』と似たような設定ですが、それよりも、おもしろくなることと期待しています」という横山ファンの「おたより」が掲載されている。まだマーズが六神体と決戦を繰り広げる前段階での感想である。

 その後の展開により、『マーズ』と『バビル2世』は別物になる。『バビル2世』のヨミは六神体のように非情なキャラクターではない。部下思いであり、バビル2世に恐怖心を抱いてもいる。支配欲に満ちているが、地球を滅ぼす気はない。そんなヨミに対し、バビル2世も温情を示す。端的にいえば、ここには人間味がある。

 そもそもバビル2世の祖先は宇宙人であり、地球人と結婚し、子孫を残した。つまり宇宙と地球の融和の象徴なのである。よってバビル2世が地球の平和を守ることには必然性がある。一方、マーズは「人工細胞によって作りだされた人造人間」であり、地球とは無縁の存在である。これは大きな違いといえる。

 人類の欲望、地球の危機、超能力者の戦いは横山好みのテーマであり、『地球ナンバーV7』や『セカンドマン』でも扱われている。前者では超能力者とそうでない者の断絶、後者では連帯が描かれているが、どちらも未来について考えさせる警告型のエンターテイメントSFであり、僅かながらも希望を残す結末が用意されている。ただ、これらの作品の延長線上に『マーズ』があることを考えると、ペシミスティックな人間観が行き着くところまで行き着いたような重さを感じずにはいられない。

 私が『マーズ』の対極にあるものとして思い浮かべるのは、平井和正・石ノ森章太郎共作、りんたろう監督のアニメ映画『幻魔大戦』(1983年)だ。ここでは「あなたがた地球人には希望があり、愛と友情の連帯があり、至高至上の価値を求める心がある」とされ、世界各国のサイオニクス戦士が団結し、地球を滅亡へと追い込む幻魔と戦う。『マーズ』の根底にあるのは、これとは逆の人間観であり歴史観である。

 主人公マーズと一体化した読者は、こんな薄汚れた人類は滅亡した方がマシだと思うかもしれない。が、その容赦のないバッドエンドにより、自分自身が足場のない宇宙に放り出され、絶望と無力のブラックホールへと吸い込まれることになる。『マーズ』は「こんな事態を招いてはならない」という人類への警鐘であるばかりでなく、自分を棚に上げることへの警鐘としても有効だ。子供の頃にこういう漫画を読んでいながら、今、自覚なしにバッドエンドの招来に手を貸すような真似をしている人がいるとしたら、忌むべきことである。
(阿部十三)


【関連サイト】
横山光輝 Official Web

月別インデックス