レイモン・アロンの立場
2014.10.25
フランスの賢者アロン
最もすぐれたレイモン・アロン論は、すでにこの世に存在する。それはアロン自身の手により完成され、死の年(1983年)に出版された『回想録』である。彼はこの大著をもって自分の生涯を総括した。その記憶力と分析力が死ぬまで衰えていなかったことは、これを読めば分かる。
レイモン・アロンの名前は、ジャン=ポール・サルトルとポール・ニザンの高等師範学校時代の同級生として、『歴史哲学入門』『知識人の阿片』の著者として、『ル・フィガロ』紙の名物論説委員として、20世紀のフランスを代表する知識人として、記憶されている。その生涯を通じて彼は賢者のごとく振る舞った。賢者の呼び名はいかにもアロンにふさわしい。思想家、哲学者、社会学者というよりもしっくりくる。
1905年3月14日、パリ生まれ。『回想録』によると、少年時代は「典型的な優等生だった」という。1922年、コンドルセ校の受験準備学級に入学し、高等師範学校に進む。1928年、アグレガシオンに1位で合格(サルトルは落第し、翌年1位で合格した)。その鋭い情勢分析力を発揮しはじめたのは、1930年にドイツで教鞭を執っていた頃である。ナチズムに関心を抱き、示唆に富んだコラムを『リーブル・プロポ』誌や『ヨーロッパ』誌に書き始める。そして、1932年の時点で、「ドイツを民主的に治めることがほとんど不可能になった」ことを看破し、権威的体制の到来が不可避であることを予想した。果たして事態はその通りに進行した。
ユダヤ人だったアロンは戦中をロンドンで過ごし、ド・ゴール将軍と接触、1945年まで『自由フランス』誌で筆を執った。戦後、盟友アンドレ・マルローの斡旋により、短期間、情報相の大臣官房長を務めたこともある。1946年からは『コンバ』紙に寄稿し、1947年にル・フィガロ社に入社。1977年まで署名記事を書き続けた。1955年からはソルボンヌの教授職に就き、社会学の地位向上に貢献した。着任1年目の講義のテーマは「産業社会」。この名高い講義の内容は、『産業社会に関する18講』というタイトルで一冊の本にまとめられている。1968年にソルボンヌを去り、1970年からコレージュ・ド・フランスへ。1977年、『ル・フィガロ』紙から『レクスプレス』誌に移籍。1983年10月17日に亡くなった。
アロンとサルトル
ジャーナリストとしてのアロンは、いくつかの記事で議論を巻き起こした。北大西洋条約の有効性を説いたこと。西ドイツの再軍備を避けられないものとしたこと。核による抑止力に注目したこと。イデオロギーの終焉を予見したこと。アルジェリアの独立支援を唱えたこと。ーーこれらは彼の仕事の中でも比較的大きな反響を呼んだものである。「アロンならどう考えるのか」は多くの識者の関心の的だった。ド・ゴール将軍もアロンの発言を重視していた。第四共和政の大臣モーリス・ペッチュからは、「私が知る限りでは、ペンのみで、政治的な影響力を持つようになったのは貴方だけだ」と言われていた。とはいえ、アロンがその時々に下した判断は、決して普遍的なものではない。刻々と移り変わる政治情勢、世界情勢に応じたものなので、明日になれば価値を失うこともある。今読んでも信じ難いほど的確だと思える記事が多いことは確かだが、1940年代後半に彼が核の抑止力やNATOの意義について述べたことが、今も変わらぬ真理として通用するわけではない。
「こうした著述家が同時代人にあたえる影響は少なからぬものがあるが、その作品は、刹那的な状況に密着しているから、創作家の作品にくらべて持続時間が短い。創作家は、あえて誤る危険を冒しても、想像力を駆使して概念の大伽藍を構築する」
一方で、アロンは『歴史哲学入門』の著者でもある。おそらくこれは、「どの程度まで客観的に過去をとらえ得るか」という問題に対する興味が人間から失われない限り、読まれ続けるだろう。その着眼点に啓発されたサルトルは、自身の著作『存在と無』をアロンに渡すとき、「歴史哲学入門への存在論的入門を、同級生に捧ぐ」と書き添えた。若き日のサルトルの被影響圏を知る上で重要なエピソードである。
サルトルに現象学を教え、エマニュエル・レヴィナスの『フッサールの現象学における直観理論』を読むようにすすめたのもアロンである。そのときの様子を、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは次のように記している。
「私たちは、一緒にモンパルナス通りの〈ベック・ド・ガズ〉で一夕を過ごした。私たちはこの店のおすすめである杏のカクテルを注文した。アロンは彼のグラスを指さしながら、『ねえ君、君が現象学者ならば、このカクテルについて語ることができ、しかもそれは哲学なのだ』と言った。サルトルは、それを聞いて感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、と言って良い。それこそまさに、彼が何年も前から望んでいたことだったのだ。事物について触れるがままに語り、しかもそれが哲学である、ということは」
サルトルとは親友と呼べる間柄だったが、女性との付き合いを好むようになったサルトルは、アロンと哲学の話をするより、女性と話すことの方を選び、徐々に疎遠になった。決定的な亀裂が生じたのは、1947年のラジオ番組でのこと。反ド・ゴールのサルトルが、ド・ゴール主義者たちに攻撃されている間、アロンが自分を助けてくれなかったことに腹を立てたのだ。2人は絶交した。
『歴史哲学入門』について
『歴史哲学入門』は1938年に出版された。レイモン・アロンの思想的立場はほとんどここに集約されている。彼は歴史家たちの認識の限界を明らかにし、その立場の普遍妥当性に疑問を投げかける。歴史は日々更新される。それに伴い、過去の歴史的な出来事が持つ意義も更新される。ある時代には重要視されていた出来事が、後世でも同じように重要視されるとは限らない。それ以前に、ひとつの歴史的な出来事を正確に把握すること自体、無理がある。その出来事に立ち会った当事者たちでさえ、事態の全容を把握しているとは言えない。いくら歴史家が証言者の遺した資料を検証し、心理学を駆使しながら、過去に起こったことを頭の中で再現しようとしても、限界がある。
「歴史家は、情報の批判や事実の確定に当たって、公平であろうとし、公平であることに成功する。けれども、全体の組み立てにおいては公平であろうとしても、自らが部分的である限り、不公平にならざるを得ない」
歴史とは選択されたものである。例えば、私たちが教科書や参考書で目にしたことのある歴史年表には、地球上で起こった出来事の全てが記されているわけではない。その年表が作られる裏側では、必ず歴史家によって意図的な取捨選択が行われる。アロンはそのように他者から押しつけられる歴史、あらかじめもっともらしくカテゴライズされ、権威性を付与された合理的解釈を、そのまま受け入れることを拒否する。
歴史が更新され続ける以上、哲学においても、科学においても、その思想ないし研究成果が持つ意義を完全に規定する、絶対的に正しい認識は存在しない。そのように考えるアロンには、「自らを哲学ではなく科学として規定するマルクス主義」「他人の哲学を非難し、自らの決断に真理の威光をまとわせようとする狂信者と実証主義者」が我慢ならない。
だからといって、この書物は真理が存在しないことの説明に終始しているわけではない。むしろ逆である。アロンは相対論に向かわず、「われわれにとって大切なのは、個別性を越える普遍性を目指す緊張である」とする。「すべての事物は無関心の中に埋もれ去り、人間は堕落して、自然と化してしまう」という事態を避けるために、「行き着くところは価値の無政府状態」で真理の蓄積も進歩も認めないような相対論はむしろ退ける必要があった。
「人間が無に戦いを挑むことによって、いかに自己と自己の使命を定めるかを想起することは、激情的な哲学方法に与することでも、動乱の時代の苦悩を不動の条件と混同することでも、またニヒリズムに沈み込むことでもない。それどころか、それは、自らの環境を裁き、自己を選びつつ自己を作り上げて行く人間の力を宣揚することである。このようにして、初めて人間は、歴史の相対性を決断の絶対性によって克服し、そして、彼のうちに含まれ、彼のものと化す歴史を、彼の本質的自我に組み入れる」
『歴史哲学入門』は認識論として読んでも得るものがあるし、実存主義的な歴史哲学書としても有益である。ここには、体制側で培われた真理の追求方法にも、価値の無政府状態にも、抱き込まれない立場が示されている。しかし結論として、彼は真理の追求を重視し、その追求方法の見直しを説く。既成の学問を全否定するのではなく、修正し、改善を図ろうとしているのだ。その点で、アロンはアナーキストではない。むしろ「体制側にある改善者、忠告者」とみなすことが可能である。これは『ル・フィガロ』紙に書くようになってからのアロンの立場と類似している。彼はド・ゴール将軍の周辺にいながら、その体制に抱き込まれることなく、権力の監視を行い、提言し続けた。むろん、彼がそういう立場で活動できたのは、中道右派の『ル・フィガロ』にいたからである。ル・フィガロ社に入ったのはマルローの勧めによるものだが、反共主義者でもある自身の思想的立場に適した職場だったと言えるだろう。
最もすぐれたレイモン・アロン論は、すでにこの世に存在する。それはアロン自身の手により完成され、死の年(1983年)に出版された『回想録』である。彼はこの大著をもって自分の生涯を総括した。その記憶力と分析力が死ぬまで衰えていなかったことは、これを読めば分かる。
レイモン・アロンの名前は、ジャン=ポール・サルトルとポール・ニザンの高等師範学校時代の同級生として、『歴史哲学入門』『知識人の阿片』の著者として、『ル・フィガロ』紙の名物論説委員として、20世紀のフランスを代表する知識人として、記憶されている。その生涯を通じて彼は賢者のごとく振る舞った。賢者の呼び名はいかにもアロンにふさわしい。思想家、哲学者、社会学者というよりもしっくりくる。
1905年3月14日、パリ生まれ。『回想録』によると、少年時代は「典型的な優等生だった」という。1922年、コンドルセ校の受験準備学級に入学し、高等師範学校に進む。1928年、アグレガシオンに1位で合格(サルトルは落第し、翌年1位で合格した)。その鋭い情勢分析力を発揮しはじめたのは、1930年にドイツで教鞭を執っていた頃である。ナチズムに関心を抱き、示唆に富んだコラムを『リーブル・プロポ』誌や『ヨーロッパ』誌に書き始める。そして、1932年の時点で、「ドイツを民主的に治めることがほとんど不可能になった」ことを看破し、権威的体制の到来が不可避であることを予想した。果たして事態はその通りに進行した。
ユダヤ人だったアロンは戦中をロンドンで過ごし、ド・ゴール将軍と接触、1945年まで『自由フランス』誌で筆を執った。戦後、盟友アンドレ・マルローの斡旋により、短期間、情報相の大臣官房長を務めたこともある。1946年からは『コンバ』紙に寄稿し、1947年にル・フィガロ社に入社。1977年まで署名記事を書き続けた。1955年からはソルボンヌの教授職に就き、社会学の地位向上に貢献した。着任1年目の講義のテーマは「産業社会」。この名高い講義の内容は、『産業社会に関する18講』というタイトルで一冊の本にまとめられている。1968年にソルボンヌを去り、1970年からコレージュ・ド・フランスへ。1977年、『ル・フィガロ』紙から『レクスプレス』誌に移籍。1983年10月17日に亡くなった。
アロンとサルトル
ジャーナリストとしてのアロンは、いくつかの記事で議論を巻き起こした。北大西洋条約の有効性を説いたこと。西ドイツの再軍備を避けられないものとしたこと。核による抑止力に注目したこと。イデオロギーの終焉を予見したこと。アルジェリアの独立支援を唱えたこと。ーーこれらは彼の仕事の中でも比較的大きな反響を呼んだものである。「アロンならどう考えるのか」は多くの識者の関心の的だった。ド・ゴール将軍もアロンの発言を重視していた。第四共和政の大臣モーリス・ペッチュからは、「私が知る限りでは、ペンのみで、政治的な影響力を持つようになったのは貴方だけだ」と言われていた。とはいえ、アロンがその時々に下した判断は、決して普遍的なものではない。刻々と移り変わる政治情勢、世界情勢に応じたものなので、明日になれば価値を失うこともある。今読んでも信じ難いほど的確だと思える記事が多いことは確かだが、1940年代後半に彼が核の抑止力やNATOの意義について述べたことが、今も変わらぬ真理として通用するわけではない。
「こうした著述家が同時代人にあたえる影響は少なからぬものがあるが、その作品は、刹那的な状況に密着しているから、創作家の作品にくらべて持続時間が短い。創作家は、あえて誤る危険を冒しても、想像力を駆使して概念の大伽藍を構築する」
(レイモン・アロン『回想録』)
一方で、アロンは『歴史哲学入門』の著者でもある。おそらくこれは、「どの程度まで客観的に過去をとらえ得るか」という問題に対する興味が人間から失われない限り、読まれ続けるだろう。その着眼点に啓発されたサルトルは、自身の著作『存在と無』をアロンに渡すとき、「歴史哲学入門への存在論的入門を、同級生に捧ぐ」と書き添えた。若き日のサルトルの被影響圏を知る上で重要なエピソードである。
サルトルに現象学を教え、エマニュエル・レヴィナスの『フッサールの現象学における直観理論』を読むようにすすめたのもアロンである。そのときの様子を、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは次のように記している。
「私たちは、一緒にモンパルナス通りの〈ベック・ド・ガズ〉で一夕を過ごした。私たちはこの店のおすすめである杏のカクテルを注文した。アロンは彼のグラスを指さしながら、『ねえ君、君が現象学者ならば、このカクテルについて語ることができ、しかもそれは哲学なのだ』と言った。サルトルは、それを聞いて感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、と言って良い。それこそまさに、彼が何年も前から望んでいたことだったのだ。事物について触れるがままに語り、しかもそれが哲学である、ということは」
(シモーヌ・ド・ボーヴォワール『女ざかり』第三部)
サルトルとは親友と呼べる間柄だったが、女性との付き合いを好むようになったサルトルは、アロンと哲学の話をするより、女性と話すことの方を選び、徐々に疎遠になった。決定的な亀裂が生じたのは、1947年のラジオ番組でのこと。反ド・ゴールのサルトルが、ド・ゴール主義者たちに攻撃されている間、アロンが自分を助けてくれなかったことに腹を立てたのだ。2人は絶交した。
『歴史哲学入門』について
『歴史哲学入門』は1938年に出版された。レイモン・アロンの思想的立場はほとんどここに集約されている。彼は歴史家たちの認識の限界を明らかにし、その立場の普遍妥当性に疑問を投げかける。歴史は日々更新される。それに伴い、過去の歴史的な出来事が持つ意義も更新される。ある時代には重要視されていた出来事が、後世でも同じように重要視されるとは限らない。それ以前に、ひとつの歴史的な出来事を正確に把握すること自体、無理がある。その出来事に立ち会った当事者たちでさえ、事態の全容を把握しているとは言えない。いくら歴史家が証言者の遺した資料を検証し、心理学を駆使しながら、過去に起こったことを頭の中で再現しようとしても、限界がある。
「歴史家は、情報の批判や事実の確定に当たって、公平であろうとし、公平であることに成功する。けれども、全体の組み立てにおいては公平であろうとしても、自らが部分的である限り、不公平にならざるを得ない」
(レイモン・アロン『歴史哲学入門』)
歴史とは選択されたものである。例えば、私たちが教科書や参考書で目にしたことのある歴史年表には、地球上で起こった出来事の全てが記されているわけではない。その年表が作られる裏側では、必ず歴史家によって意図的な取捨選択が行われる。アロンはそのように他者から押しつけられる歴史、あらかじめもっともらしくカテゴライズされ、権威性を付与された合理的解釈を、そのまま受け入れることを拒否する。
歴史が更新され続ける以上、哲学においても、科学においても、その思想ないし研究成果が持つ意義を完全に規定する、絶対的に正しい認識は存在しない。そのように考えるアロンには、「自らを哲学ではなく科学として規定するマルクス主義」「他人の哲学を非難し、自らの決断に真理の威光をまとわせようとする狂信者と実証主義者」が我慢ならない。
だからといって、この書物は真理が存在しないことの説明に終始しているわけではない。むしろ逆である。アロンは相対論に向かわず、「われわれにとって大切なのは、個別性を越える普遍性を目指す緊張である」とする。「すべての事物は無関心の中に埋もれ去り、人間は堕落して、自然と化してしまう」という事態を避けるために、「行き着くところは価値の無政府状態」で真理の蓄積も進歩も認めないような相対論はむしろ退ける必要があった。
「人間が無に戦いを挑むことによって、いかに自己と自己の使命を定めるかを想起することは、激情的な哲学方法に与することでも、動乱の時代の苦悩を不動の条件と混同することでも、またニヒリズムに沈み込むことでもない。それどころか、それは、自らの環境を裁き、自己を選びつつ自己を作り上げて行く人間の力を宣揚することである。このようにして、初めて人間は、歴史の相対性を決断の絶対性によって克服し、そして、彼のうちに含まれ、彼のものと化す歴史を、彼の本質的自我に組み入れる」
(レイモン・アロン『歴史哲学入門』)
『歴史哲学入門』は認識論として読んでも得るものがあるし、実存主義的な歴史哲学書としても有益である。ここには、体制側で培われた真理の追求方法にも、価値の無政府状態にも、抱き込まれない立場が示されている。しかし結論として、彼は真理の追求を重視し、その追求方法の見直しを説く。既成の学問を全否定するのではなく、修正し、改善を図ろうとしているのだ。その点で、アロンはアナーキストではない。むしろ「体制側にある改善者、忠告者」とみなすことが可能である。これは『ル・フィガロ』紙に書くようになってからのアロンの立場と類似している。彼はド・ゴール将軍の周辺にいながら、その体制に抱き込まれることなく、権力の監視を行い、提言し続けた。むろん、彼がそういう立場で活動できたのは、中道右派の『ル・フィガロ』にいたからである。ル・フィガロ社に入ったのはマルローの勧めによるものだが、反共主義者でもある自身の思想的立場に適した職場だったと言えるだろう。
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