レイモン・アロンの立場 [続き]
2014.11.01
「冷徹な思想家」のイメージ
ド・ゴール将軍とは「いろいろあっても知的な交流は続いていた」ようである。将軍の手紙を読むと、いかにアロンの知性に敬服していたかが分かる。アロンも条件付きの擁護者として、将軍の評価すべきところは評価し、批判すべきところは批判するという公正さから逸脱することはなかった。左翼の敵、ド・ゴール主義者、体制のシンボルとみなされてはいたものの、実際のところは、体制にとっても煩わしい監視人であった。
感情的にならないアロンの冷静さが、同業者たちの不興を買うこともあったが、実際の彼は「生来、感情的で激情に走りやすい」ところがあり、「勝ち負けにこだわる性分」で、議論では相手を追いつめる癖があった。文章ではそういう面を見せないようにしていたにすぎない。
アロンはその人生の中で、何度か集中的に注目を浴びている。最も騒がれたのは、アルジェリア戦争のときだろう。1957年、彼は『アルジェリアの悲劇』の中で有名な言葉(「放棄という英雄的行為」)を用いて、フランスがアルジェリア人の独立を認めない交渉はあり得ないと主張した。体制側とは異なる見解である。これによりアロンは、批判の矢面に立たされた。おかげで、「順応主義者というまったく理屈に合わない非難」は払拭されたが、「冷徹な思想家」のイメージはより強固なものとなった。
しかし、『アルジェリアの悲劇』はあくまでもアロンなりの愛国心から生まれたものである。アルジェリアの独立は避けがたいものであり、決意もなく成功の見込みもない戦争をいやいやながら続けても、フランスの国益を損なうだけである。フランスがこのまま血を流し、金を費やし続けても、それだけの犠牲に見合うものを、アルジェリアを制圧したところで、手に入れることはできないだろう。無駄な血は流すべきではない、というわけだ。彼は誰もが情緒的反応を示しそうな道徳話や、全体主義的な形での意見の融合を促進させるイデオロギーは、努めて持ち出さない。ヴェトナム戦争の成り行きを見守るときも、「戦争の経費が、擁護しようとしているものの価値を上回ってしまう可能性」のことを考える。「経費」にはもちろん兵士の犠牲も含まれる。
失敗しないということ
1968年5月、パリで大規模な反体制運動が起こったとき、アロンは再び矢面に立たされた。攻撃を仕掛けてきたのはサルトルである。同年6月19日付の『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌に掲載された「レイモン・アロンの城塞」が火種となった。「賭けてもいい、レイモン・アロンが自己批判をしたことはないはずだ。だからこそ私はアロンには教授の資格がないと思う」「全フランスが裸のド・ゴールを見たいま、学生も裸のレイモン・アロンを見ることができて然るべきだ」ーー若者たちを味方につけていたサルトルは挑発的言辞を弄して、アロンを渦中に引きずり込もうとしていた。アロンは反論しなかった。
『回想録』では、サルトルのやり口について、「別に腹立たしくはなかった」と振り返っている。これを額面通り受け取ることはできない。「サルトルが自分から落ちていった低俗で卑劣な水準に身を落とす気もなかった」と書いているのは本心だろうが、皆から裸になることを期待されている雰囲気の中、相手の挑発に乗ったらどういう状況に引きずり込まれるか、アロンには結末が見えていたはずである。この場合、理性的に振る舞っても、感情を爆発させても、サルトルより有利になることはないのだ。
不利な戦いを回避したアロンは、同年8月、『みつからない革命』を出版し、5月革命に対する意見を述べた。アロンの言葉は若者たちに理解されただろうか。残念ながら、それはないだろう。
「大学というものは、どんな大学であっても、明白な根拠と強制されざる規律に敬意を払うという自発的な合意を必要とする。こうした社会集団を、何によって置き換えるかの見通しもないまま解体したり、社会そのものを破壊するために解体するなどというのは、美的ニヒリズムである。というよりも、自らの野蛮さを自覚していない野蛮人の暴挙である」
結局のところ、アロンの見解は秩序の側に属するものである。だからこそ、その冷徹さ、公正さは左翼的ヒロイズムに酔っている若者たちにとって鼻持ちならないものとなる。それがいかに厳格な思考を経た言葉であっても、賛同してくれないのなら、いっそ明らかな敵になってもらった方がましだ、というのが当時の若者たちの本音だったのではないか。
サルトルはアロンに対して、ヘマをすることを極度に恐れると批判したそうだが、たしかに『回想録』を読むと、いかに自分の情勢判断力が鋭く、後から振り返ってみて、その都度正しかったと言える立場をとってきたか、実際の記事を引用しながら細かく書き連ねてある。「誤る権利を存分に利用した」サルトルとは異なるタイプなのだ。1977年、塞栓症を患い、まともに喋ったり物を書いたりすることができなくなったときの描写など、自分ではない自分になってしまったことに屈辱を感じている節すらある。
『回想録』によると、「アロンに従って正しくあるよりは、サルトルと共に誤る方がよい」という「不思議な命題」が左翼人の間で共有されたことがあるという。当然ながら、アロンはそれに対して不快感を示し、「済んでしまったことではあっても、サルトルの錯誤に追従した人々になんらの功績も私には認められない」と一蹴している。
ただ、かつて知力で張り合っていた同級生への感情は複雑である。晩年のサルトルが、ベニー・レヴィとの対談で弱々しい態度をとり、自分がしてきた仕事を失敗だと認めたときには、「このテクストの調子は、私の同級生の語調を思い出させるものではない」と違和感を示し、「知力よりも抵抗力が弱っている老人に、意識的にせよ、無意識にせよ、ベニー・レヴィが圧力をかけている」と批判した。
政治ジャーナリストの資質
レイモン・アロンは政治志向の人だった。すでにふれたように、一時はド・ゴール体制下で働いていたし、1948年から1952年まではフランス人民連合に籍を置いていた。彼が政治家になっていたら、フランスのキッシンジャーになれただろうか(ヘンリー・キッシンジャーはアロンのことを敬愛していた)。やはり『ル・フィガロ』紙のジャーナリストが適任だったのだろうか。
アロンに対して「政治ジャーナリストの資質がある」と言ったのはロジェ・マルタン・デュ・ガールである。若い頃から交流のあったマルタン・デュ・ガールは、統治者になるにはアロンは知性がありすぎる、とみていた。たしかにそうかもしれない。経済学にも生物学にも通暁するアロンは、さまざまな現実問題に知的関心を向けた。自分が取り扱うテーマ全てにおいて失敗したくない、優秀な成績をおさめたいという意識が極めて強く、神経を削った。その結果、30年間にわたる『ル・フィガロ』紙でのジャーナリスト活動は、彼をフランスの賢者として世に知らしめたが、しっかり腰を据えてひとつの大きな仕事に取り組む時間を奪った。とはいえ、彼がそのことを悔やんでいたかどうかは分からない。ル・フィガロ社を退社した後も、彼は世の中の動きの周辺に身を置くことにこだわり、『レクスプレス』誌の論説委員長になった。政治家でも大思想家でもなく、周辺的な存在にとどまった彼は、自らのことを「分析者」「批評家」と規定している。
アロンの知性を検証する際、気になるのは、彼が過去に影響を受けた思想家たちである。当然、イマヌエル・カント、アレクシ・ド・トクヴィル、カール・マルクス、マックス・ヴェーバー、アラン、レオン・ブランシュヴィックは外せない。プラグマティズムの思想家も然りである。モンテスキューやクラウゼヴィッツについては、思想的影響を受けたというより、再評価を行った対象と言った方がよいだろう。この中で、若きアロンを最も刺激したのは、おそらくマルクスである。彼は自身の著作で何度もマルクス主義にふれているし、マルクス主義について書くとき、彼のペンはメスのように鋭くなる。(皮肉なことだが)マルクス主義を通じて、反共の理論家として覚醒したかのような印象を受ける。少なくとも私は、『知識人の阿片』を初めて読んだとき、それまで漠然と感じていたマルクス主義への違和感が鮮やかに言語化されているのを目の当たりにし、我が意を得たりと思ったものだ。
レイモン・アロンの復権
アロンのモットーは、無責任な批判は行わないということだった。「50年来、私はつねに、私だったらどうするかと自問して、勝手な批判を規制している」ーーこのことを彼は外務大臣エドゥアール・エリオとの会話から学んだらしい。ナチス・ドイツがもたらすであろう災いについて、演説的な調子で話した後、エリオから「あなたが首相や外務大臣であれば何をしますか」と質問され、何も答えられなかったのである。この時アロンは27歳だった。
マスコミは時に己の力を誇示するかのように大衆の感情を煽りたがるが、アロンはそういうやり方とは距離を置いた。間違っても、権力や反権力に媚びるような記事を賛意が得られることを前提に書くような真似はしなかった。その立場は、己の分析力と知力を優先させることを旨とし、デマゴーグも道徳感情も利用しないことで維持された。与えられた情報に過剰反応して一喜一憂したり、裏で誰が仕掛けているかも分からないような集団行動の熱狂にのみ込まれたり、単なる多数決的道徳でしかないまやかしの正義感の要請に与したりすることもなかった。彼の分析力と知力が鮮やかに言語化されたいくつかの文章は、理性を失わずに物事を見つめ、誠実に判断することの大切さを教えるものである。
ネット上で慢性的な集団ヒステリー状態にある現代人にとって、アロンの必要性はますます強く感じられる。この知識人に対する評価のアップデートを願っているのは、私だけではないはずだ。かつては日本にも村松剛のようなアロン支持者がいたが、今は話題になることがほとんどない。『レイモン・アロン選集』(荒地出版社)も絶版になって久しい。巷に出回っているプロフィール紹介を読んでも、いい加減なものが多い。
レイモン・アロンの復権を望む。
【関連サイト】
レイモン・アロンの立場
ド・ゴール将軍とは「いろいろあっても知的な交流は続いていた」ようである。将軍の手紙を読むと、いかにアロンの知性に敬服していたかが分かる。アロンも条件付きの擁護者として、将軍の評価すべきところは評価し、批判すべきところは批判するという公正さから逸脱することはなかった。左翼の敵、ド・ゴール主義者、体制のシンボルとみなされてはいたものの、実際のところは、体制にとっても煩わしい監視人であった。
感情的にならないアロンの冷静さが、同業者たちの不興を買うこともあったが、実際の彼は「生来、感情的で激情に走りやすい」ところがあり、「勝ち負けにこだわる性分」で、議論では相手を追いつめる癖があった。文章ではそういう面を見せないようにしていたにすぎない。
アロンはその人生の中で、何度か集中的に注目を浴びている。最も騒がれたのは、アルジェリア戦争のときだろう。1957年、彼は『アルジェリアの悲劇』の中で有名な言葉(「放棄という英雄的行為」)を用いて、フランスがアルジェリア人の独立を認めない交渉はあり得ないと主張した。体制側とは異なる見解である。これによりアロンは、批判の矢面に立たされた。おかげで、「順応主義者というまったく理屈に合わない非難」は払拭されたが、「冷徹な思想家」のイメージはより強固なものとなった。
しかし、『アルジェリアの悲劇』はあくまでもアロンなりの愛国心から生まれたものである。アルジェリアの独立は避けがたいものであり、決意もなく成功の見込みもない戦争をいやいやながら続けても、フランスの国益を損なうだけである。フランスがこのまま血を流し、金を費やし続けても、それだけの犠牲に見合うものを、アルジェリアを制圧したところで、手に入れることはできないだろう。無駄な血は流すべきではない、というわけだ。彼は誰もが情緒的反応を示しそうな道徳話や、全体主義的な形での意見の融合を促進させるイデオロギーは、努めて持ち出さない。ヴェトナム戦争の成り行きを見守るときも、「戦争の経費が、擁護しようとしているものの価値を上回ってしまう可能性」のことを考える。「経費」にはもちろん兵士の犠牲も含まれる。
失敗しないということ
1968年5月、パリで大規模な反体制運動が起こったとき、アロンは再び矢面に立たされた。攻撃を仕掛けてきたのはサルトルである。同年6月19日付の『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌に掲載された「レイモン・アロンの城塞」が火種となった。「賭けてもいい、レイモン・アロンが自己批判をしたことはないはずだ。だからこそ私はアロンには教授の資格がないと思う」「全フランスが裸のド・ゴールを見たいま、学生も裸のレイモン・アロンを見ることができて然るべきだ」ーー若者たちを味方につけていたサルトルは挑発的言辞を弄して、アロンを渦中に引きずり込もうとしていた。アロンは反論しなかった。
『回想録』では、サルトルのやり口について、「別に腹立たしくはなかった」と振り返っている。これを額面通り受け取ることはできない。「サルトルが自分から落ちていった低俗で卑劣な水準に身を落とす気もなかった」と書いているのは本心だろうが、皆から裸になることを期待されている雰囲気の中、相手の挑発に乗ったらどういう状況に引きずり込まれるか、アロンには結末が見えていたはずである。この場合、理性的に振る舞っても、感情を爆発させても、サルトルより有利になることはないのだ。
不利な戦いを回避したアロンは、同年8月、『みつからない革命』を出版し、5月革命に対する意見を述べた。アロンの言葉は若者たちに理解されただろうか。残念ながら、それはないだろう。
「大学というものは、どんな大学であっても、明白な根拠と強制されざる規律に敬意を払うという自発的な合意を必要とする。こうした社会集団を、何によって置き換えるかの見通しもないまま解体したり、社会そのものを破壊するために解体するなどというのは、美的ニヒリズムである。というよりも、自らの野蛮さを自覚していない野蛮人の暴挙である」
(レイモン・アロン『みつからない革命』)
結局のところ、アロンの見解は秩序の側に属するものである。だからこそ、その冷徹さ、公正さは左翼的ヒロイズムに酔っている若者たちにとって鼻持ちならないものとなる。それがいかに厳格な思考を経た言葉であっても、賛同してくれないのなら、いっそ明らかな敵になってもらった方がましだ、というのが当時の若者たちの本音だったのではないか。
サルトルはアロンに対して、ヘマをすることを極度に恐れると批判したそうだが、たしかに『回想録』を読むと、いかに自分の情勢判断力が鋭く、後から振り返ってみて、その都度正しかったと言える立場をとってきたか、実際の記事を引用しながら細かく書き連ねてある。「誤る権利を存分に利用した」サルトルとは異なるタイプなのだ。1977年、塞栓症を患い、まともに喋ったり物を書いたりすることができなくなったときの描写など、自分ではない自分になってしまったことに屈辱を感じている節すらある。
『回想録』によると、「アロンに従って正しくあるよりは、サルトルと共に誤る方がよい」という「不思議な命題」が左翼人の間で共有されたことがあるという。当然ながら、アロンはそれに対して不快感を示し、「済んでしまったことではあっても、サルトルの錯誤に追従した人々になんらの功績も私には認められない」と一蹴している。
ただ、かつて知力で張り合っていた同級生への感情は複雑である。晩年のサルトルが、ベニー・レヴィとの対談で弱々しい態度をとり、自分がしてきた仕事を失敗だと認めたときには、「このテクストの調子は、私の同級生の語調を思い出させるものではない」と違和感を示し、「知力よりも抵抗力が弱っている老人に、意識的にせよ、無意識にせよ、ベニー・レヴィが圧力をかけている」と批判した。
政治ジャーナリストの資質
レイモン・アロンは政治志向の人だった。すでにふれたように、一時はド・ゴール体制下で働いていたし、1948年から1952年まではフランス人民連合に籍を置いていた。彼が政治家になっていたら、フランスのキッシンジャーになれただろうか(ヘンリー・キッシンジャーはアロンのことを敬愛していた)。やはり『ル・フィガロ』紙のジャーナリストが適任だったのだろうか。
アロンに対して「政治ジャーナリストの資質がある」と言ったのはロジェ・マルタン・デュ・ガールである。若い頃から交流のあったマルタン・デュ・ガールは、統治者になるにはアロンは知性がありすぎる、とみていた。たしかにそうかもしれない。経済学にも生物学にも通暁するアロンは、さまざまな現実問題に知的関心を向けた。自分が取り扱うテーマ全てにおいて失敗したくない、優秀な成績をおさめたいという意識が極めて強く、神経を削った。その結果、30年間にわたる『ル・フィガロ』紙でのジャーナリスト活動は、彼をフランスの賢者として世に知らしめたが、しっかり腰を据えてひとつの大きな仕事に取り組む時間を奪った。とはいえ、彼がそのことを悔やんでいたかどうかは分からない。ル・フィガロ社を退社した後も、彼は世の中の動きの周辺に身を置くことにこだわり、『レクスプレス』誌の論説委員長になった。政治家でも大思想家でもなく、周辺的な存在にとどまった彼は、自らのことを「分析者」「批評家」と規定している。
アロンの知性を検証する際、気になるのは、彼が過去に影響を受けた思想家たちである。当然、イマヌエル・カント、アレクシ・ド・トクヴィル、カール・マルクス、マックス・ヴェーバー、アラン、レオン・ブランシュヴィックは外せない。プラグマティズムの思想家も然りである。モンテスキューやクラウゼヴィッツについては、思想的影響を受けたというより、再評価を行った対象と言った方がよいだろう。この中で、若きアロンを最も刺激したのは、おそらくマルクスである。彼は自身の著作で何度もマルクス主義にふれているし、マルクス主義について書くとき、彼のペンはメスのように鋭くなる。(皮肉なことだが)マルクス主義を通じて、反共の理論家として覚醒したかのような印象を受ける。少なくとも私は、『知識人の阿片』を初めて読んだとき、それまで漠然と感じていたマルクス主義への違和感が鮮やかに言語化されているのを目の当たりにし、我が意を得たりと思ったものだ。
レイモン・アロンの復権
アロンのモットーは、無責任な批判は行わないということだった。「50年来、私はつねに、私だったらどうするかと自問して、勝手な批判を規制している」ーーこのことを彼は外務大臣エドゥアール・エリオとの会話から学んだらしい。ナチス・ドイツがもたらすであろう災いについて、演説的な調子で話した後、エリオから「あなたが首相や外務大臣であれば何をしますか」と質問され、何も答えられなかったのである。この時アロンは27歳だった。
マスコミは時に己の力を誇示するかのように大衆の感情を煽りたがるが、アロンはそういうやり方とは距離を置いた。間違っても、権力や反権力に媚びるような記事を賛意が得られることを前提に書くような真似はしなかった。その立場は、己の分析力と知力を優先させることを旨とし、デマゴーグも道徳感情も利用しないことで維持された。与えられた情報に過剰反応して一喜一憂したり、裏で誰が仕掛けているかも分からないような集団行動の熱狂にのみ込まれたり、単なる多数決的道徳でしかないまやかしの正義感の要請に与したりすることもなかった。彼の分析力と知力が鮮やかに言語化されたいくつかの文章は、理性を失わずに物事を見つめ、誠実に判断することの大切さを教えるものである。
ネット上で慢性的な集団ヒステリー状態にある現代人にとって、アロンの必要性はますます強く感じられる。この知識人に対する評価のアップデートを願っているのは、私だけではないはずだ。かつては日本にも村松剛のようなアロン支持者がいたが、今は話題になることがほとんどない。『レイモン・アロン選集』(荒地出版社)も絶版になって久しい。巷に出回っているプロフィール紹介を読んでも、いい加減なものが多い。
レイモン・アロンの復権を望む。
(阿部十三)
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