文化 CULTURE

「高砂」の世界

2014.11.29
 祖父が謡の先生をしていた関係で、子供の頃、能の世界は私の身近にあった。身近にありながら、積極的に観に行こうとしなかったのは、ひとえに能面が苦手だったからである。その能面に魅力があることを説いたのが母親で、物の見方が少し変わり、長じて日本文学を専攻するようになってから、謡のひとつも嗜んでおこうという気持ちになり、祖父に教わった。現在の私は、能とはほとんど無縁の生活を送っているが、厳格な祖父と交流することができたことを含め、本物の謡にふれておいてよかったと思う。ちなみに祖父が師事していたのは、宝生流の三川泉先生である。

 「高砂」は世阿弥作の脇能(初番目物)で、古くは「相生」「相生の松」と呼ばれていた。有名な演目なので、能を知らない人でも作品名は聞いたことがあるだろう。その中で最も広く知られているのが、「高砂や〜」ではじまる待謡である。今日、結婚式の披露宴で謡われることはあまりないようだが、かつては定番であった。

高砂や 此浦船に帆をあげて 此浦船に帆をあげて 月諸共に出で汐の 波の淡路の嶋陰や 遠く鳴尾の沖すぎて はや住の江に着きにけり 早住の江に着きにけり
(『宝生流新撰小謡本』より)

 翳し文句があるために、結婚式では「出で汐」を「入り汐」に、「遠く」を「近く」に替えるようだが、私自身はめでたい席で謡ったことはなく、謡われる場に居合わせたこともない。落語の「高砂や」では、仲人を頼まれた八五郎に、隠居が「仲人をやるならご祝儀に『高砂』くらい謡わなければならない」と言って、あれこれ手ほどきをするコミカルな場面があるが、そういう風習自体、知る人が減っているとすれば寂しいことである。

 「高砂」は、阿蘇の宮の神主友成(ワキ)が、初めて都へ上る途中、播州高砂の浦に立ち寄るところから始まる。そこで松の木陰を掃き清める老夫婦と出会う。老人(シテ)は住吉の者で、姥(ツレ)は当所の者だという。「夫婦一所にありながら 遠き住の江高砂の 浦山国を隔てて住むと いふは如何なることやらん」と問うと、「山川万里を隔つれども 互ひに通ふ心づかひの 妹背の道は遠からず」と姥が答える。高砂と住吉の松が相生であるように、遠く離れて住む自分たちも相生の夫婦であるというのだ。
 さらに、二つの松は万葉集(高砂)と古今集(住吉)にたとえられ、「松とは尽きぬ言の葉の 栄へは古今相同じと 御代を崇むる譬へなり」と説かれる。加えて、長寿で常緑の松は天下泰平の象徴であるとされる。やがて老夫婦は自分たちこそが高砂と住吉の松の精であると明かし、老人は住吉での再会を約して小舟に乗り、沖へ去る。ここで中入り。待謡を挿み、神主たちも住吉に着くと、月の澄んだ光に照らされる中、住吉の神が舞い、悪魔を払い、寿福を抱き、泰平の世を祝福する。

 めでたい演目である。和歌が重んじられていることに唐突さを感じる人もいるかもしれないが、野村豊一郎編『解註謡曲全集』によると、「和歌の徳は人の心を支配し、社会の秩序を維持するものだと伝統的に信じられていた」のであり、「和歌の典型的な様式を完備した『古今集』を、更に古典的な『万葉集』と併せ用いることに依って、一層強固な統制が保たれねばならぬ、と主張されている」のだという。世阿弥の中では、夫婦の和合も、草木の相生も、和歌の道も、世の泰平も、すべてがつながっていたのである。「松の葉の散りうせずして」という『古今集』の序の言葉をはじめ、随所に先人の歌や詩を踏まえた言葉が嵌め込まれているので、出典を知っておけば、作品の読みも深まるはずだ。

 「高砂」は夢幻能に分類されている。夢幻能はだいたい次のような流れを持つ。旅人が名所を訪れる。里人から物語を聞く。里人が「実は自分こそ物語に出てくる人物である」と明かして姿を消す。中入り後、旅人の夢の中に里人が真の姿で登場する。夜が明けるとともに姿を消す。山本健吉は『いのちとかたち』の中で、「この(夢幻能という)名称自身が、やや情緒的、抒情的に過ぎて、対立を描き出すきびしい緊張関係、真の劇的関係を言い取るには、あまりに微温的だと思われる」と批判し、「むしろ往還能とでも呼びたい」と書いている。人によって異論はあるだろうが、「高砂」に限って言えば、夢幻能に寄せることに私も抵抗を覚える。ワキが神主であることを踏まえても、松そのものが存在することを踏まえても、「高砂」に登場する神は夢幻のものではなく、現に存するものとして捉えたい。

 待謡は、翳し文句があるとはいえ、「月諸共に入り汐の」や「近く鳴る尾の沖過ぎて」にすると、だいぶ調子が狂う。月が入るということは真っ暗になるわけだし、遠く離れていても夫婦の心は通い合うものだと言いたいのに近いのでは意味がおかしくなる。言葉を替えても、めでたくなりはしない。それに、「遠く鳴尾の〜」の節は大きな起伏を有するところでもあるし、「近く」では音が硬くなる。とはいえ、忌み詞を難ずる人は多いので、無視することもできない。まあ、謡う機会もないのだろうが、これはちょっとした悩みの種である。
(阿部十三)


【関連サイト】
宝生会
能 狂言

月別インデックス