法的な快感、善意の免罪符
2015.01.03
アレクサンドル・コジェーヴの『法の現象学』の第三章に、「法的な快感」という言葉が出てくる。例えば頑強な人間が弱々しい病人を襲うのを見たとき、人は病人を守ろうとする。スポーツの試合で選手同士の争いが起きたとき、大勢の人が自らすすんで無償で仲裁者になろうとする。そこで得られる快感を「法的な快感」と言っているのである。
「......この快感は真に『没利害的(無私的)』なものである。これは独自の(sui generis)快感である。そして、この快感は、例えば性的快感や美的快感にも匹敵する特殊性をもつ。ところで、『公平無私』、つまり『正義』でありうることで得られるのは、一種の快感である。したがってそれは、特殊に法的な快感である。この快感は、正義の理念を基礎とする自律的な法的態度が現実存在することを否定する限り、理解不可能である」
これによると、何か事件が起こったとき、実害が及んでいないにもかかわらず、各々が自分なりの正義を示すのは、一種の快楽原則のあらわれとみなすことができる。たしかに、メディアが次々と発信するニュースに敏感に反応し意見を公にする人を見ると、そういう側面もあるのかと思わないでもない。しかし、人間は必ずしも快楽原則のみにしたがって行動するわけではない。不正に対して、生理反応的に自身の考える正義を示す人は多いが、メディアに煽られているだけの人もいるし、あえて反対意見を出してバランスをとろうとする人も多いし、何もしない人も大勢いる。
不正は何によって正当に裁かれるのか。本来ならば国家が定めた法以外にないはずである。各人の考える正義、コジェーヴの言う「法的な快感」によって裁かれるのであれば、それは私刑ないし社会的制裁である。言うまでもなく法の解釈はさまざまであり、似たような罪を犯しても同じ罰が与えられるとは限らない。例えば誰の目にも明らかな詐欺行為、隠蔽行為であるように思えても、法治国家においては、法に抵触しなければ罰則は科せられない。法律が判断基準の全てではないが、罪に問われないのであれば、いくら世評は低くなっても、犯罪者ではないということになる。
それはすなわち、法の裁きを受けない性質の不正が絶えないであろう可能性を暗に示している。とはいえ、法律を厳しくすればよいというものでもないので、結局、その不正が裁かれないものであると知った第三者の遣り場のない感情は、軽蔑や罵倒といった私的制裁の形であらわれ続けることになる。法によって裁かれない不正者に対するわだかまりが、裁かれる人間に対するそれを上回ることは珍しくない。
先に、「反対意見を出してバランスをとろうとする人」と書いたが、不正者に対し、「実は善意でやったことかもしれない。実は善良な人かもしれない」というイメージが付与されると、いわゆるバランサーの数は驚くほど増加する。だからこそ、「善意」や「善良」という言葉が、不正者やそれにつき従った者に向かって引き寄せられるとき、私は警戒心を抱く。人は善意という言葉に弱い。いつまでも追及したって仕方ないではないか、という気分に誘い込む免罪符のような言葉である。不正を犯した者、知っていて手を貸した者、そうとは知らず手を貸した者、巻き込まれた者では責任の重さは異なるはずなのに、それを均質化しかねない力が善意という言葉にはある。このような詭弁がまかり通ることに、私は危うさを感じる。法律が介入しない場合、ここからは「法的な快感」と「免罪符としての善意」との泥仕合にならざるを得ない。
むろん、善意を認めない態度にも問題はある。このことについて考えるとき、思い起こされる人物は保田與重郎である。保田は『祖国』(1950年4月号)の「善意を認める勇氣を興せ」という短い文章の中で、「清醇な善意を認めることは、社會國家の理想を正常に發展せしめる上で第一に必要である。近時の風として、ことごとに他人の行為に對し、その裏面の欲望を妄想し、他の行為を見ては、必ずその背後に邪悪心を虚構することは、その殆どが、本人の邪念とひがみのあらはれである」と書いている。彼はありもしない善意をねつ造せよと説いているのではない。善意の中に悪意を読み取る邪念を批判しているのだ。
とはいえ、その気になれば、相手の中にある(かどうかも分からない)善意をはるかに超えるような善意を発動させ、裁きをあやふやにしてしまうのが、私たちの人情というものだ。また、善意に付け入る狡猾な人間がいるのも事実である。不正を黙殺してもらっているのをよいことに、増長する人間もいる。保田自身、そういう手合いには厳しい態度で接した。例えば、戦時中、軍に取り入り、保身のためにスパイを使って同僚を圧迫していたと言われる中島健蔵が、戦後いち早く左翼同調者になったのを批判し、同誌(1950年11月号)の「虎の威を借る狐」でこのように書いている。
「要するに同僚や同胞を害するために、虎の威を借る狐といふわけである。彼は同僚の文士から憎まれたが、敵として遇するには餘りに大人氣ない人物だから、無視してもらつてゐた。しかしかういふ輕佻浮薄の人物は、それをよいことにして、低級な便乗的言動で、大衆を謬り、友人に害を及すのである」
私自身は、「善意」や「善良」をきちんと定義せずに濫用する正義論は、論理として成立しないものと考える。その手の正義論は、加害者と被害者の線引きを曖昧にして、喧嘩両成敗的な決着に持っていく類の人情論に向かいがちだ。だからといって、法律が常に白黒をつけてくれるとは限らない。では、どのような決着の仕方が、「法的な快感」と「免罪符としての善意」の間にある不協和音を鎮めるのか。おそらく、それは不正者による誠実な謝罪ということになるのだろう。実害を及ぼした者への直接謝罪とは異なり、これは儀式的意味合いを持つ。仮に、狡猾な言い訳をせず、マニュアル的でもなく、自ら逃げ道を遮断するような謝罪が迅速になされた場合、第三者の「法的な快感」はある程度飽和する。しかし、そういう謝罪はほとんど見たことがない。
「......この快感は真に『没利害的(無私的)』なものである。これは独自の(sui generis)快感である。そして、この快感は、例えば性的快感や美的快感にも匹敵する特殊性をもつ。ところで、『公平無私』、つまり『正義』でありうることで得られるのは、一種の快感である。したがってそれは、特殊に法的な快感である。この快感は、正義の理念を基礎とする自律的な法的態度が現実存在することを否定する限り、理解不可能である」
(アレクサンドル・コジェーヴ『法の現象学』/今村仁司、堅田研一訳)
これによると、何か事件が起こったとき、実害が及んでいないにもかかわらず、各々が自分なりの正義を示すのは、一種の快楽原則のあらわれとみなすことができる。たしかに、メディアが次々と発信するニュースに敏感に反応し意見を公にする人を見ると、そういう側面もあるのかと思わないでもない。しかし、人間は必ずしも快楽原則のみにしたがって行動するわけではない。不正に対して、生理反応的に自身の考える正義を示す人は多いが、メディアに煽られているだけの人もいるし、あえて反対意見を出してバランスをとろうとする人も多いし、何もしない人も大勢いる。
不正は何によって正当に裁かれるのか。本来ならば国家が定めた法以外にないはずである。各人の考える正義、コジェーヴの言う「法的な快感」によって裁かれるのであれば、それは私刑ないし社会的制裁である。言うまでもなく法の解釈はさまざまであり、似たような罪を犯しても同じ罰が与えられるとは限らない。例えば誰の目にも明らかな詐欺行為、隠蔽行為であるように思えても、法治国家においては、法に抵触しなければ罰則は科せられない。法律が判断基準の全てではないが、罪に問われないのであれば、いくら世評は低くなっても、犯罪者ではないということになる。
それはすなわち、法の裁きを受けない性質の不正が絶えないであろう可能性を暗に示している。とはいえ、法律を厳しくすればよいというものでもないので、結局、その不正が裁かれないものであると知った第三者の遣り場のない感情は、軽蔑や罵倒といった私的制裁の形であらわれ続けることになる。法によって裁かれない不正者に対するわだかまりが、裁かれる人間に対するそれを上回ることは珍しくない。
先に、「反対意見を出してバランスをとろうとする人」と書いたが、不正者に対し、「実は善意でやったことかもしれない。実は善良な人かもしれない」というイメージが付与されると、いわゆるバランサーの数は驚くほど増加する。だからこそ、「善意」や「善良」という言葉が、不正者やそれにつき従った者に向かって引き寄せられるとき、私は警戒心を抱く。人は善意という言葉に弱い。いつまでも追及したって仕方ないではないか、という気分に誘い込む免罪符のような言葉である。不正を犯した者、知っていて手を貸した者、そうとは知らず手を貸した者、巻き込まれた者では責任の重さは異なるはずなのに、それを均質化しかねない力が善意という言葉にはある。このような詭弁がまかり通ることに、私は危うさを感じる。法律が介入しない場合、ここからは「法的な快感」と「免罪符としての善意」との泥仕合にならざるを得ない。
むろん、善意を認めない態度にも問題はある。このことについて考えるとき、思い起こされる人物は保田與重郎である。保田は『祖国』(1950年4月号)の「善意を認める勇氣を興せ」という短い文章の中で、「清醇な善意を認めることは、社會國家の理想を正常に發展せしめる上で第一に必要である。近時の風として、ことごとに他人の行為に對し、その裏面の欲望を妄想し、他の行為を見ては、必ずその背後に邪悪心を虚構することは、その殆どが、本人の邪念とひがみのあらはれである」と書いている。彼はありもしない善意をねつ造せよと説いているのではない。善意の中に悪意を読み取る邪念を批判しているのだ。
とはいえ、その気になれば、相手の中にある(かどうかも分からない)善意をはるかに超えるような善意を発動させ、裁きをあやふやにしてしまうのが、私たちの人情というものだ。また、善意に付け入る狡猾な人間がいるのも事実である。不正を黙殺してもらっているのをよいことに、増長する人間もいる。保田自身、そういう手合いには厳しい態度で接した。例えば、戦時中、軍に取り入り、保身のためにスパイを使って同僚を圧迫していたと言われる中島健蔵が、戦後いち早く左翼同調者になったのを批判し、同誌(1950年11月号)の「虎の威を借る狐」でこのように書いている。
「要するに同僚や同胞を害するために、虎の威を借る狐といふわけである。彼は同僚の文士から憎まれたが、敵として遇するには餘りに大人氣ない人物だから、無視してもらつてゐた。しかしかういふ輕佻浮薄の人物は、それをよいことにして、低級な便乗的言動で、大衆を謬り、友人に害を及すのである」
(保田與重郎「虎の威を借る狐」)
私自身は、「善意」や「善良」をきちんと定義せずに濫用する正義論は、論理として成立しないものと考える。その手の正義論は、加害者と被害者の線引きを曖昧にして、喧嘩両成敗的な決着に持っていく類の人情論に向かいがちだ。だからといって、法律が常に白黒をつけてくれるとは限らない。では、どのような決着の仕方が、「法的な快感」と「免罪符としての善意」の間にある不協和音を鎮めるのか。おそらく、それは不正者による誠実な謝罪ということになるのだろう。実害を及ぼした者への直接謝罪とは異なり、これは儀式的意味合いを持つ。仮に、狡猾な言い訳をせず、マニュアル的でもなく、自ら逃げ道を遮断するような謝罪が迅速になされた場合、第三者の「法的な快感」はある程度飽和する。しかし、そういう謝罪はほとんど見たことがない。
(阿部十三)
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