蝉丸 歌と伝説
2015.04.04
子供の時分、坊主めくりで遊んでいた人にとって、蝉丸はなじみのある「坊主」だろう。その歌も覚えやすく、簡単に諳んじることができる。私自身、最初に覚えた短歌は蝉丸のものである。
これやこの行くも帰るもわかれては知るも知らぬも逢坂の関
蝉丸は平安時代の人だが、生没年は不明。謡曲『蝉丸』の中では、醍醐天皇の第四皇子とされている。一方、『今昔物語集』の巻第二十四に収録されている説話には、宇多天皇の第八子、敦実親王に仕えた雑色と記されている。共通するのは、宮と関わりがあり、目が見えず、逢坂の関(現在の滋賀県大津市)に隠棲し、琵琶を弾いて暮らしていたことである。何が事実かは分からない。これらよりも前に存在する『後撰集』を繙くと、「知るも知らぬも逢坂の関」の歌の詞書に「相坂の関に庵室を作りて住み侍けるに、行き交ふ人を見て」とあり、目が見えることになっている。心の目で見て会者定離を歌ったと解釈しても不自然ではないが、何とも断じ難い。
謡曲『蝉丸』は世阿弥の作ではないかとみられている。この能によると、蝉丸は高貴の身でありながら、盲目であるため逢坂山に捨てられ、みすぼらしい藁屋に独居して琵琶を弾く日々を過ごしている。そんなある日、醍醐天皇の第三の御子、逆髪が偶然藁屋の前を通りかかり、聞き覚えのある琵琶の音に足を止める。狂乱状態にあり、髪が逆立っていることを子供たちに笑われているこの姉も、都から離れることを余儀なくされた身だ。邂逅を喜び、互いの境遇を語り合う姉弟。やがて別れのときが来て、姉は涙に濡れつつ立ち去ってゆく。仔細ある悲劇的な人物を皇胤ないし落胤とする見方は日本の文芸における伝統だが、ここでは蝉丸もその系譜に連なっている。
『今昔物語集』には、醍醐天皇の孫にあたる源博雅に秘曲「流泉・啄木」を伝授する琵琶の達人として登場する。源博雅は管弦の道に通暁しているが、就中愛する琵琶を極めるために、どうにかして蝉丸のみが知る秘曲を会得したいと望む。しかし、蝉丸は都へ来ようとしない。博雅は逢坂の関へ行き、3年の間、「今弾くか、今弾くか」と心待ちにして立ち聞きするものの、その機会はやってこない。ある夜、蝉丸が「今夜心得たらむ人の来(きたれ)かし。物語せむ」と独りごつのを耳にして、ようやく名乗り、「流泉・啄木」を弾いてほしいと言い、蝉丸はそれに応じる。結びの言葉は、「其より後、盲琵琶は世に始る也、となむ語り伝へたるとや」ーーこのように伝えられるほど蝉丸は琵琶の世界では大きな存在だった。もっとも、この説話は『江談抄』に由来するもので、そこには蝉丸の名は出てこない。
『新古今和歌集』には蝉丸の歌が二首あり、いずれも無常の世を歌ったもので、胸にしみる。
世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ
世の中はどうあれこうあれ同じことだ。宮殿も陋屋もいずれは失われるものであり、永久にそこに住むことはできないのだから。これは宮と藁屋の両方で過ごした人の心境だろう。単に無常を歌うだけでなく、どこもかしこもかりそめの宿にすぎず、人はどのようにしてでも生きていけるのだという気持ちの有り様を示している。ちなみにこの歌は、表現に若干の違いはあるが、『江談抄』『今昔物語集』『蝉丸』などにも出てくる。広く知られた歌である。
ただ、蝉丸と言えばやはりこれが最上だろう。
秋風になびく浅茅(あさぢ)の末ごとに置く白露のあはれ世の中
歌意は、秋風になびく浅茅の葉末にのっている白露のようにはかない世の中よ。「あはれ世の中」が理屈や技巧を超えてぐっと胸に迫る。徳大寺実定、源実朝が歌った「あはれ世の中」は、ここから派生したものとみてよい。塚本邦雄が『珠玉百歌仙』で「澄み切つた、虚無的なまでに儚いこの心象風景」と評しているように、暗く重い哀しみを超え、澄んだ境地に至った上での深い感慨である。
もう一首、蝉丸の歌で今に伝わるものがある。
逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよを過ぎむとて
読んで字のごとく、嵐の激しい日、一夜を過ごそうとして、藁屋でじっとしていたことを歌っているが、これも自身の人生観を吐露したものである。「しひて」は強ひてと目しひて、「よ」は夜と世にかかっている。どうにもならない時は、じたばたせず静かに過ごそうとする。その心構えを誰に説くでもなく念じているのだ。
蝉丸の「知るも知らぬも逢坂の関」が頭から離れなくなった私は、その後、彼のすぐれた歌や謎に満ちた伝説にふれ、「坊主」に対する印象を変えた。坊主めくりという遊びはよくできたもので、坊主をめくって持ち札を捨てるのは、虚栄や所有欲を断つ意味で、確かに筋が通っている。世の中には「花の種」や「月の影」など逆さまなことがいくつもあり、自らも「狂女なれども心は清滝川」と語った『蝉丸』の逆髪の理論に従い、むしろ札をためるより捨てた方が勝ちという風に変えても面白い。
【関連サイト】
関蝉丸神社
これやこの行くも帰るもわかれては知るも知らぬも逢坂の関
蝉丸は平安時代の人だが、生没年は不明。謡曲『蝉丸』の中では、醍醐天皇の第四皇子とされている。一方、『今昔物語集』の巻第二十四に収録されている説話には、宇多天皇の第八子、敦実親王に仕えた雑色と記されている。共通するのは、宮と関わりがあり、目が見えず、逢坂の関(現在の滋賀県大津市)に隠棲し、琵琶を弾いて暮らしていたことである。何が事実かは分からない。これらよりも前に存在する『後撰集』を繙くと、「知るも知らぬも逢坂の関」の歌の詞書に「相坂の関に庵室を作りて住み侍けるに、行き交ふ人を見て」とあり、目が見えることになっている。心の目で見て会者定離を歌ったと解釈しても不自然ではないが、何とも断じ難い。
謡曲『蝉丸』は世阿弥の作ではないかとみられている。この能によると、蝉丸は高貴の身でありながら、盲目であるため逢坂山に捨てられ、みすぼらしい藁屋に独居して琵琶を弾く日々を過ごしている。そんなある日、醍醐天皇の第三の御子、逆髪が偶然藁屋の前を通りかかり、聞き覚えのある琵琶の音に足を止める。狂乱状態にあり、髪が逆立っていることを子供たちに笑われているこの姉も、都から離れることを余儀なくされた身だ。邂逅を喜び、互いの境遇を語り合う姉弟。やがて別れのときが来て、姉は涙に濡れつつ立ち去ってゆく。仔細ある悲劇的な人物を皇胤ないし落胤とする見方は日本の文芸における伝統だが、ここでは蝉丸もその系譜に連なっている。
『今昔物語集』には、醍醐天皇の孫にあたる源博雅に秘曲「流泉・啄木」を伝授する琵琶の達人として登場する。源博雅は管弦の道に通暁しているが、就中愛する琵琶を極めるために、どうにかして蝉丸のみが知る秘曲を会得したいと望む。しかし、蝉丸は都へ来ようとしない。博雅は逢坂の関へ行き、3年の間、「今弾くか、今弾くか」と心待ちにして立ち聞きするものの、その機会はやってこない。ある夜、蝉丸が「今夜心得たらむ人の来(きたれ)かし。物語せむ」と独りごつのを耳にして、ようやく名乗り、「流泉・啄木」を弾いてほしいと言い、蝉丸はそれに応じる。結びの言葉は、「其より後、盲琵琶は世に始る也、となむ語り伝へたるとや」ーーこのように伝えられるほど蝉丸は琵琶の世界では大きな存在だった。もっとも、この説話は『江談抄』に由来するもので、そこには蝉丸の名は出てこない。
『新古今和歌集』には蝉丸の歌が二首あり、いずれも無常の世を歌ったもので、胸にしみる。
世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ
世の中はどうあれこうあれ同じことだ。宮殿も陋屋もいずれは失われるものであり、永久にそこに住むことはできないのだから。これは宮と藁屋の両方で過ごした人の心境だろう。単に無常を歌うだけでなく、どこもかしこもかりそめの宿にすぎず、人はどのようにしてでも生きていけるのだという気持ちの有り様を示している。ちなみにこの歌は、表現に若干の違いはあるが、『江談抄』『今昔物語集』『蝉丸』などにも出てくる。広く知られた歌である。
ただ、蝉丸と言えばやはりこれが最上だろう。
秋風になびく浅茅(あさぢ)の末ごとに置く白露のあはれ世の中
歌意は、秋風になびく浅茅の葉末にのっている白露のようにはかない世の中よ。「あはれ世の中」が理屈や技巧を超えてぐっと胸に迫る。徳大寺実定、源実朝が歌った「あはれ世の中」は、ここから派生したものとみてよい。塚本邦雄が『珠玉百歌仙』で「澄み切つた、虚無的なまでに儚いこの心象風景」と評しているように、暗く重い哀しみを超え、澄んだ境地に至った上での深い感慨である。
もう一首、蝉丸の歌で今に伝わるものがある。
逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよを過ぎむとて
読んで字のごとく、嵐の激しい日、一夜を過ごそうとして、藁屋でじっとしていたことを歌っているが、これも自身の人生観を吐露したものである。「しひて」は強ひてと目しひて、「よ」は夜と世にかかっている。どうにもならない時は、じたばたせず静かに過ごそうとする。その心構えを誰に説くでもなく念じているのだ。
蝉丸の「知るも知らぬも逢坂の関」が頭から離れなくなった私は、その後、彼のすぐれた歌や謎に満ちた伝説にふれ、「坊主」に対する印象を変えた。坊主めくりという遊びはよくできたもので、坊主をめくって持ち札を捨てるのは、虚栄や所有欲を断つ意味で、確かに筋が通っている。世の中には「花の種」や「月の影」など逆さまなことがいくつもあり、自らも「狂女なれども心は清滝川」と語った『蝉丸』の逆髪の理論に従い、むしろ札をためるより捨てた方が勝ちという風に変えても面白い。
(阿部十三)
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