文化 CULTURE

織田作之助の文学 [続き]

2015.05.23
流転のリアリティ

 端折った作品といえば、ロシアに漂着した元禄商人・伝兵衛を描いた長編『異郷』(1943年9月)も同様である。これは織田作之助が想像力を自在にめぐらせた二部構成の大河ロマンで、第一部では伝兵衛がイギリス人との決闘で勇者になり、ペテルブルク一番の美女ナターシャが伝兵衛への恋に懊悩する。この展開はいかにも大衆好みだ。彼が日本人として常に恥ずかしくない行動をとろうとしたり、ナターシャとの恋に溺れないのは時局を考慮してのことだろう。内向的かつ自尊心のかたまりのような人物像は、毛利豹一やジュリアン・ソレルともつながり、作者の愛着の度合いが文章から伝わる。幸大夫(大黒屋光太夫)を主人公にした第二部には勢いが感じられないので、いっそ伝兵衛の話のみで構成すればよかったのにと思わなくもない。

 織田の作品には運命の流転に身をもまれた人々を描いたものが多い。海の波に流された伝兵衛のように時代の波や感情の波に流されてゆく庶民の人生が、次々と小説の題材になる。流転もまた織田にとっての「リアリティ」だったのである。彼自身、三高を退学して放浪じみた生活を送っていたことがあるが、もっと前、まだ10歳の時に、8歳上の姉・千代が化粧品問屋の若旦那・山市乕次と駆け落ちしている。流転というものを強く意識したのは、それが最初ではないか。この出来事が「夫婦善哉」の原型になっていることから推しても、忘れられない出来事として心の中に引っかかっていたのは間違いない。

軽佻派のジュリアン

 話を戻すと、資料のほとんど存在しない伝兵衛を主人公に据えた『異郷』は野心的な時代小説だが、成功作とは言えない。時代小説では「猿飛佐助」(火遁ノ巻『新潮』1945年2月、水遁ノ巻『新文学』1945年3月)の方が有名で、森雅之主演によりラジオで放送され、放送賞を授与された。この作品には作者の主張が打ち出された箇所がある。

「既に生真面目が看板の教授連や物々しさが売物の驥尾の蠅や深刻癖の架空嫌いや、おのれの無力卑屈を無力卑屈としてさらけ出すのを悦ぶ人生主義家連中が、常日頃佐助の行状、就中この山塞におけるややもすれば軽々しい言動を見て、まず眉をひそめ、やがておもむろに嫌味たっぷりな唇から吐き出すのは、何たる軽佻浮薄、まるで索頭(たいこ)持だ、いや樗蒲(ばくち)打だ、げすの戯作者気質だなどという評語であったろうが、しかしわが猿飛佐助のために一言弁解すれば、彼自身いちはやくも自己嫌悪を嘔吐のように催していた。荘重を欠いたが、莫迦ではなかった証拠である......」
(「猿飛佐助・水遁ノ巻」)

 オダサクの小説には思想がない。これは決まり文句のような批評だが、戦時中にこのような文章を書いた人を無思想と一蹴することができるだろうか。何も高邁な観念をふりかざすことだけが思想ではない。彼は「世相」(『人間』1946年4月)の中で、自分に思想がない理由について「消極的な不信」と嘯いているが、要は既成の思想に身を委ねられなかったのである。誰かと肩を組んで大言壮語せずにいられなくなるような思想に熱狂できなかっただけである。1945年6月、吉川民宛の手紙に「精神だけは情勢にひきずられてしまってはだめですね」と書き、戦後間もない頃、「終戦前夜」(『新生日本』1945年11月)に「さかんに御用論説の筆を取っていた新聞の論説委員がにわかに自由主義の看板をかついで、恥としない現象も、不愉快であった」と書いた彼は、誇張でも何でもなく、文士の立場からジャーナリズムの精神を体現していた。当時こういうことを書けた文士は決して多くない。

 映画監督の川島雄三と共に「日本軽佻派」を標榜するのは、水遁ノ巻が発表された1945年3月のこと。戦時下において、あえて軽佻、あえて戯作者であろうとしたのだ。川島とは1944年から親交を結んでいた。初監督作『還って来た男』の原作・脚本を手がけた縁である。1944年から1945年の間は、日本全体もそうだが、織田の人生にも多くの変化があり、『還って来た男』が公開される前、三高時代の親友だった白崎礼三が亡くなり(1944年1月20日)、公開された後、妻の一枝が世を去っている(1944年8月6日)。女優の輪島昭子と同棲を始め、刑事のすすめでヒロポンにはまるのは1944年の暮れで、良家の令嬢・笹田和子と出会い、婿入りを決意するのは1945年のことである。

 上流社会に入ることはジュリアン・ソレルを愛する織田の念願であり、知人たちに自慢していたらしい。しかし、二度目の結婚は1ヶ月ほどで破綻した。さらに志賀直哉に否定されたことで傷ついた。こうした挫折も、言ってみればジュリアン・ソレルそのままである。この苦々しい体験が、戦後の彼の上流への反発心や「二流文楽論」(『改造』1946年10月)で明確化されているような二流意識を補強したことは想像に難くない。自国の作家を「彼等は社会的には一流かも知れないが、文学的には全部二流なのである。そして絶対に一流たり得ないのだ」(「二流文楽論」)と一刀両断したのも、戦前と変わらぬ古い権威が戦後日本にのさばっていると感じ、不満を爆発させた33歳の作家の言葉として切実に響くものがある。また、そう書きたくなるほど、読者が新しい風潮を求めているように思えたのだろう。実際、オダサクの舌鋒の鋭さや大胆な放言は若い世代に支持されていた。しかし、小説に向かう態度は誠実そのものだった。人間の生活の根底を見つめる彼の目は、戦前、戦中、戦後を通して曇ることなく、ぶれることもなかった。

作家としての評価

 無頼派のオピニオン・リーダーになった織田作之助よりも、あくまでも作家としての織田作之助を評価することが肝要である。彼は劇作家を志し、傑作と言える戯曲を書いているだけに、演出的な采配に隙がない。クラシックや浄瑠璃の取り入れ方もうまい。この趣向は、初の評論「シング劇に関する雑稿」から見られる。彼がシングの『悲しみのデヤドラ』を読むのは、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」がかかっている喫茶店である。戯曲を書いていた頃も、「饒舌」で人妻とのプラトニックなロマンスのバックにショパンの「雨だれ」を流している。「夫婦善哉」や「蛍」(『文藝春秋』1944年9月)などで浄瑠璃が効果を上げていることは言うまでもない。例を挙げるときりがないが、処女小説「ひとりすまう」(『海風』1938年6月)ではフランクとベートーヴェン、『青春の逆説』では浄瑠璃とベートーヴェン、「姉妹」(『令女界』1943年11月)と「木の都」(『新潮』1944年3月)ではデュパルクが印象的に使われている。これらがただの気障な演出ではなく文章の血肉になっている。

 「俗臭」に代表される人物造型の特異さは、金と出世に憑かれた人間が、最後に逡巡したり改心したりするパターンをとらないところにある。「子守唄」(『文芸』1940年10月)の進平のように、どこから見ても好感の持てないやり方でエゴイズムとバイタリティを貫くのだ。表面的には、それが成功するか失敗するかの違いがあるにすぎない。これらの主人公は、元禄の町人倫理よりもむしろ明治以降の立身出世思想をデフォルメしたものと解するのが妥当であり、同時に、高度経済成長期のステレオタイプ化した日本人像を先取りしたものとも言える。

 一方で、すでに述べたように、きめ細やかに心理を描く術も心得ており、その確かな腕は「木の都」のような短編でも遺憾なく発揮されている。「木の都」は随想的手法と私小説的手法を取り込み、虚実ないまぜにした作風で、「世相」の原型と言えなくもないが、「世相」ほどの気負いもなく、激動の時代の波に流されて名曲喫茶を営む庶民の姿をやさしく包むように書いている。しみじみとした味わいが出た傑作だ。こういうのを読むと、近代日本の小説を打倒するどころか、自分のやり方でしっかりと継承し得る器であったことが分かる。

 かつて学生時代に「放浪」を読んでオダサクに惹かれた私は、そのまま文泉堂出版から出ている全集を読んだ。彼の文学も、彼の生き方も、私には他人事のように思えなかった。日本文学の研修で京都に行った時は、前日に大阪入りし、お墓参りをした。そして「夫婦善哉」に出てくる自由軒で玉子入りのライスカレーを食べ、たこ梅で関東煮を食べた。法善寺横町で夫婦善哉も食べた。ちょうど「競馬」を読んだ後で、同級生と人生初の馬券を買いに行き、枠連を当てたことが懐かしく思い出される。今でも、大阪に行く時は必ず自由軒に寄る。そこで食べるたびに「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」と言う柳吉の声が聞こえるような思いがする。私にとっては文学名所であり、そのカレーは青春の味なのである。
(阿部十三)


[参考文献]
織田作之助『定本織田作之助全集 第一巻〜第八巻』(1978年11月 文泉堂出版)
織田作之助『夫婦善哉 正続 他十二編』(2013年7月 岩波書店)
大谷晃一『生き愛し書いた 織田作之助伝』(1973年10月 講談社)
無頼文学研究会『無頼派の文学 研究と事典』(1974年8月 教育出版センター)
オダサク倶楽部『織田作之助 昭和を駆け抜けた伝説の文士"オダサク"』(2013年8月 河出書房新社)



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