文化 CULTURE

ロベール・ブラジヤック論

2015.09.05
コラボラトゥールの死

 1944年8月のパリ解放後、コラボラトゥール(対独協力者)に対する制裁が行われたことはよく知られている。私的制裁を含めると処刑されたのは約1万人とみられているが、10万人前後とする説もあり、正確な人数は分かっていない。逮捕され、裁判で死刑判決を受けた者は2071人(欠席裁判を除く)。そのうち768人が処刑され、残りは恩赦により減刑あるいは釈放された。『ド・ゴール大戦回顧録』には「私は良心のとがめをおぼえることなく証言できるが、約百件を別にすれば、これらの死刑囚はすべて、処刑されるに値することをしたのであった」と記されている。しかし生死を分かつ判決・恩赦の境界は実質的には不明瞭なものだった。死刑を宣告され、そのまま処刑されたからといって、それは必ずしもコラボラトゥールの中でひときわ重い罪を犯したことを意味するわけではない。

 一部の愛国的コラボラトゥールはドイツ軍に協力的態度を示す一方、国内で窮地に陥っているフランス人やユダヤ人を援助すべくドイツ側に働きかけていた。ドイツ兵と恋に落ちたフランス人女性もいた。裁判を引き受けたがらない裁判官がいたのも当然である。

「ドイツ軍の占領下では、女中の恋人だったドイツ兵にたのんでバターを手に入れておきながら、ひとたびパリが解放されるや、こんどは警察にいって女中を告発したブルジョワを、わたしはなん人も知っている。フランスの歴史上、これほど下劣な時代はかつてなかったにちがいない」
(ロベール・ブラジヤック「ノワジー・ル・セック収容所」 高井道夫訳)

 詩人、小説家、ジャーナリストのロベール・ブラジヤックは、対敵通牒の罪を犯したコラボラトゥールとして銃殺され、汚名を残したが、少なくとも密告者ではなかった。「われわれフランス・ファシストは、フランスの秩序を維持しようとするすべての者を尊重する」と書き、市民を戦争へと引きずり込む政治家を憎悪していた彼には、祖国を裏切っているという自覚など微塵もなかったに違いない。戦前の名画『格子なき牢獄』の女優コリンヌ・リュシェールの父ジャン・リュシェールも、やはりパリ解放後に処刑された悪名高きジャーナリストだが、当時その秘書をしていた(後の名女優)シモーヌ・シニョレの証言によると、リュシェールはドイツ軍に悩まされているフランス人のために奔走していたという。

 ただし、このような一面をいくら取り上げてみたところで、彼らの協力主義それ自体が肯定されることはない。不当な戦犯裁判であったにせよ、ヒステリックな粛清熱が高まっていたにせよ、ナチス・ドイツから強要されたわけでもなく自らの意思でコラボラシオン(対独協力)の道を選択した彼らは、ド・ゴール将軍が言うところの「思想と文体のありったけの力をひっさげて敵対陣営にくみした」有力な言論人として、また、敗者として、その責任を取るほかなかったのである。

35年の生涯

 1909年3月31日、ロベール・ブラジヤックは南仏のペルピニャンで生まれた。パリのルイ・ル・グラン高校を出た後、エコール・ノルマルに入学。学生時代から複数の新聞や雑誌に寄稿し、卒業の前年(1931年)に『ウェルギリウスの存在』で注目を浴びた。この年から『アクション・フランセーズ』紙の文芸欄を担当、それと並行して『映画の歴史』『パリの小鳥売り』『時のすぎゆくごとく』『七彩』などのすぐれた評論・小説を発表している。1936年から右翼系の『ジュ・スイ・パルトゥ』紙に関わり、翌年6月、ピエール・ガクソットが同紙の編集長を退任した後、新編集長に就任。1939年に召集され、アルザス地方へ。翌年休戦協定が締結されると、ドイツ軍の捕虜となった。1941年3月、休戦前に書き上げていた『われらの戦前』がパリで出版されたが、その際、ナチスやアドルフ・ヒトラーに対する懐疑的文言は削除された。

 1941年4月、釈放されてフランスに帰国。妹シュザンヌの夫で高校時代からの親友モーリス・バルデッシュたちが反対するのを押し切って『ジュ・スイ・パルトゥ』の編集長のポストに復帰し、ドイツに協力的な記事を書いた。しかし1943年からナチズム、ファシズムと距離を置くようになり、同紙の路線変更を提案、シャルル・レスカ、ピエール=アントワーヌ・クストーたちと対立し、同年8月に『ジュ・スイ・パルトゥ』を去った。

 パリ解放時は、コラボラトゥールへの粛清から逃れるために亡命するよう勧められたが拒否し、「状況がわるくなると部下を犠牲にして逃げ出し、自分たちの身の安泰をはかろうとする高級将校」(「ドイツ軍占領下のパリ・最後の日々」)を例にとって、亡命者を批判した。1944年8月25日、自分の身代わりとして実母と義父が逮捕されると、9月14日に出頭。ブラジヤックの裁判は1945年1月19日に行われ、一回だけの公判で死刑判決を受け、2月6日、モンルージュ刑務所で銃殺された。

1930年代の青春を再現する名著

 1920年代後半から1930年代のフランスの文化、政治、青春がどんなものだったのかを今に伝える書物として、『われらの戦前』以上に興味深いものを私は知らない。ブラジヤックがこれを書き始めたのは1939年のこと。その時点で、すでに1930年代の出来事が遠い過去の青春物語、古き良き時代のように綴られている。ここで試みられているのは、同世代の人々との青春時代の共有による連帯(「わたしたち」を多用していることからも、その意図は明らかだ)、そして多くの友人、著名人との交流によって豊かな実りを得た己の青春の足跡をこの世に残すことである(これが前線の兵舎の一室で書かれたことを忘れてはならない)。

 登場する人物の言葉は、ブラジヤックが実際に接したもので、ほかの資料では目にすることができない。ルイ・ル・グラン高校を訪れたサッシャ・ギトリーが生徒の前で行ったスピーチ(「人生で最も大切なことは、自分の職業と妻になる女性の選択を誤らないことです」)や、コレットがブラジヤック宛の手紙に書いた文章(「登場人物の台詞を考えだすというのは奇妙な作業です。窓ガラスを一度こなごなに割った後、全ての破片を拾い集めてもとの形に戻しているようなものです」)など、心に響くフレーズがちりばめられている。

 ほかにも、1934年2月6日に行われた大規模かつ自発的なデモの熱気、「リーヴ・ゴーシュ」のアニー・ジャメの行動力、シャルル・ペギーゆかりのシャルトルを訪れた際の幸福感、ジョルジュ&リュドミラ・ピトエフ夫妻による舞台の素晴らしさ、ナチス政権下のドイツやヒトラーの印象、イタリア、スペイン、モロッコ(ブラジヤックはこの国で幼年時代を過ごした)を巡ったときのことが、みずみずしい筆致で再現されている。その長々しいファシズム談義には度を越した執拗さを感じざるを得ないが、人物の記録としても友情の記録としても異彩を放つドキュメント、否、モニュメントであることに異論を唱える者はいないだろう。

ファシズムの誘惑

 ブラジヤックがドイツを訪問したのは1937年のこと。このとき見聞したことや感じたことは、「物語」「手紙」「日記」「省察」「対話」「資料」「独白」という7種類の形式をつなぎ合わせた小説『七彩』の中にも綴られている。

「ヒトラーやドイツ人の思考のなかには、聖体秘蹟の思想にとまでは言わないが、司祭が執りおこなう聖水による祝福の思想に類似した、一種の神秘主義的な輸血の思想があるのだ。パンの聖別の同類たる旗の聖別のなかに、一種のドイツ的秘蹟を見ない者はヒトラー主義をまったく理解できないおそれが大いにある」
(ロベール・ブラジヤック『七彩』 池部雅英訳)

 ブラジヤックはフランス人がフランス独自のファシズムに目覚めることを願っていた。フランスのファシズムとは何か。彼は『われらの戦前』に「(フランス・ファシズムの精神とは)非順応主義、反ブルジョワジーの精神であり、あらゆる権威を否定する精神だ。この精神は、階級的偏見をはじめ、あらゆる偏見を排除する。これは友愛の精神だ」と書いた。しかし、彼自身はその明晰さを保っていたとは言えない。ナチスの党大会に「ドイツ的秘蹟」を見た時点で、さらに別の箇所で、「あの崇高なスペクタクルは世界の表象、生と死の価値に関する、この上なく厳しい思想と結ばれている」と評した時点で、すでに彼の理性は心理的な落とし穴にはまっていたとみるべきだろう。ブラジヤックの2歳上で、早い段階で右翼思想と距離を置いたモーリス・ブランショはこう記している。

「ファシズムのいったい何がひとを惹きつけるのだろうか。答えは簡単なものだ。つまり、非合理なもの、スペクタクルの力、そして、何らかの形をした聖なるものの雑多な復活である。言いかえれば、あらためて神話に開かれんとする社会への欲求である」
(モーリス・ブランショ『問われる知識人』 安原伸一朗訳)

神聖なつながりを求めて

 明晰な頭脳を持っているように見えるブラジヤックだが、その土台には非合理なもの、神聖なものに対する強い執着がある。『七彩』ではセックスを超越した純粋状態での男女の結合が描かれるが、それは年下の女性カトリーヌを自分の閉鎖的な世界に招じ入れた男性パトリスの純然たる同一化ないし同質化への志向を表している。パトリスはその体験を重んじ続けるが、カトリーヌの方は別の男性フランソワと結婚し、パトリスとの神秘的結合は「奥深い現実の官能的な結合に比べれば取るに足らない」と考えるようになる。『パリの小鳥売り』にも、ローランという医学部の学生が登場し、その声や言葉でヒロインのイザベルの感性を刺激し、ひきつける。しかしイザベルもまた『七彩』のカトリーヌのように、ローランの影響圏から脱し、現実の結婚相手として別の男性ダニエルを選び、それまで親しんできた幻想の世界を捨てる。もう一人の主要人物、食料品店を切り盛りするマリー・ルプティコールという孤独で偏屈な女主人も、浮浪児を自分の排他的空間に招じ入れ、共に暮らそうとして悲惨な形で裏切られる。

 限られた者しか立ち入ることのできない聖化された空間で、その世界の美しさを共に分かち合うソウルメイトを求めるこれら登場人物たちの傾向と、現実において神聖なつながりを全うすることの困難さに対する悲観的認識は、ブラジヤック自身が抱えていたものにほかならない。

「こどものころ、妹とわたしは、自分たちの乗っていた船が難破して漂流し、孤島に打上げられたという物語をつくり、その島で暮らしながら、ふたりだけにわかる言葉を考え出して遊んでいた。ふたりで遊んでいるときに近所のこどもがやってくると、『ぼくたちのしゃべる言葉はきみにはわからないから仲間にはできないよ。そのかわり、この絵本を貸してあげるからね』といって帰ってもらったものだった」
(ロベール・ブラジヤック『われらの戦前』 高井道夫訳)

 ブラジヤックの中の孤島は、友情や連帯感や親和力なしには交流し得ない密室的空間として、大人になっても保持されていた。彼の考える平和はその島の平和であり、フランスの平和だった。『時のすぎゆくごとく』で「幸福とは外界との断絶だ」と書いた青年がファシズムに惹かれたのは、そこに閉ざされた世界で密度を増す青春のエネルギーと友情の喜びを認め、外界の空気にさらされても瓦解しない強靭かつシンプルな絆の力を感じたからである。「おのれの民族と同胞にささえられ、みずからの頑健な肉体と明晰な精神をたのみとして、この世の富を侮蔑する若きファシスト。平和のときも戦いのときも、つねにかわらぬ友情をもつ仲間たちと生活をともにしながら、歌い、行進し、労働し、夢みる若きファシスト。かれはなによりもよろこびの人間だ」(『われらの戦前』)という文章を目にするとき、すでにファシズムが青春と友情を破壊することを知る現代の私たちが輝かしい未来へのヴィジョンを読み取ることは不可能だが、当時ファシズムによって開かれるであろう神話を信じていた人は大勢いたのだ。ブラジヤックのような文人は「政治の誘惑」に屈するべきではなかった、と後から言うのは簡単である。
続く
(阿部十三)


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