文化 CULTURE

ロベール・ブラジヤック論 [続き]

2015.09.12
進むべき道の選択

 ブラジヤックは隣国ドイツの動向に注意を払いつつ、1939年3月10日の『ジュ・スイ・パルトゥ』に「たとえドイツがヒトラーを望んでいなかったとしても、たとえドイツが誠実でいようとしたとしても、そのポジションゆえに、いつの時代においてもフランスの敵になり得る存在だ」と書いた。しかし心理的な面では、ブラジヤックの距離の置き方は厳格なものではなかった。反ユダヤ・反共であり、ナチズムの「神秘主義的な輸血の思想」に強い磁力を感じていた彼が、占領下で対独協力を選択するのはむしろ必然だったと言える。そもそもドイツに対して抱いていた警戒心にしても、アクション・フランセーズの師シャルル・モーラスの反ゲルマン主義の影響によるところが大きく、そこまで自発的なものだったとは思えない。

 ブラジヤックの姿勢は、モーラスの「完全ナショナリズム」に従うわけでもなく、かといってクストーのように盲目的な対独追従を行うわけでもなく、折衷的であった。平たく言えば、彼が望んだのは新しいフランスを築くことであり、そのためにドイツに協力し、ドイツからも協力を得ることだった。それが1942年11月、フランス全土が占領されたとき、実現の可能性を失った。以後、彼は徐々に行き過ぎた対独協力に疑念を抱くようになり、1943年8月、盟友リュシアン・ルバテに「自分が担う役割に自信が持てなくなった」(1943年8月14日付書簡)と書き送る。パリ解放後、獄中で「フランスとドイツの国民が、ともにひとつの詩をうたいあげる」ことが「崇高な理想であったことはたしかだ」と書いてはいるものの、その「崇高な理想」がしょせん占領下でも夢見ることが可能な妥協的幻想にすぎなかったことは十分認識していたはずだ。

 こういった個人的な親和性や理想の問題とは別に、コラボラトゥールになる動機があったのも事実である。かつてモーラスについて論じた文章の中で、ブラジヤックは破壊よりも持続こそ真に英雄的な行為だと書いた。彼にとって、占領下のパリにおいてドイツを挑発することは、フランスの文化の崩壊、秩序の崩壊への直結を意味していた。何より気に留めていたのは、捕虜の存在だった。1941年4月にドイツの捕虜収容所から釈放されたとき、収容所にはまだ多くの同胞が残されていたのだ。彼らをフランスに帰還させたいと願うブラジヤックには、ドイツと争い、人質となっている同胞を危険にさらす選択肢は存在しないも同然だった。むろん、その動機のみを美化し、「義侠心からコラボラトゥールのポジションに身を置いた」とみなすことはできない。彼の中では、神聖と純粋を求める個人的志向の方向性と、政治的信条を猛々しく打ち出す方向性と、フランスおよびフランス人を守る愛国者としての成果をあげる方向性は一致していた。その上で、師モーラスに背き、自分の進むべき道を定めたのだ。

 戦中、過激な反ユダヤ発言を繰り返したブラジヤックだが、皮肉なことに、彼がパリで初めて得た友人はシリア生まれのユダヤ人だった。その友人と共にピトエフ夫妻の演劇やドイツ映画(彼はE・A・デュポンの『ヴァリエテ』を観て映画の魅力に開眼して以来、ドイツ映画に惹かれていた)を観て、感動を分かち合ったのだ。敬愛する作家コレットの夫(ユダヤ人)が逮捕されたときには、ドイツ側に働きかけ釈放させた。ここで留意すべきは、彼が反ユダヤ主義を標榜しながらも、ドレフュス事件の際にドレフュス派だった詩人シャルル・ペギーを崇拝し、その存在を心の拠り所にしていたことである。「すべては神秘にはじまり政治に終わる」の言葉で知られるこの戦死した詩人は、神秘と政治をつなぐものを看破していた。ペギーの鋭敏な感性に魅了されたブラジヤックは、先にもふれたように、その足跡を辿るべく、パリからシャルトルまでの徒歩旅行を二度敢行している。『われらの戦前』もペギーの『われらの青春』を意識して書かれたものだ。ーーしかし、ブラジヤックはペギーではない。

 少なくとも『ジュ・スイ・パルトゥ』に復帰するまでは、表現の野蛮さからは免れていた。反ユダヤ感情の処理においても、「本能的反ユダヤ主義」の暴発を抑制する「理性的反ユダヤ主義」という折衷的な立場をとることを推奨し、ユダヤ人虐殺に反対していた。にもかかわらず、編集長に復帰後、周囲の期待に応えるかのように「本能的反ユダヤ主義」へと傾斜した。その文章には概念化されたユダヤ人像をむやみに排撃している印象があり、論理性のかけらも感じられない。彼の「理性」は見せかけのものだったのだろうか。極端な二面性を持っていたのだろうか。私の耳には、自分の存在を求める友愛や連帯に巻き込まれやすく、その最中に自ら旗を持って先頭を切ってしまう本質的に孤独な人間の怒号が聞こえるだけである。いずれにしても、書かれた言葉は永久に残る。それは言論人である彼自身にとって命取りになるだけの無意味な武装、いわばブーメランだった。

ブラジヤックの獄中記

 この文人は傑作のほとんどを、生と青春をおびやかす危険と隣り合わせの状況で書いたと言っても過言ではない。戦争が迫っていることを感じながら、前線の兵舎で砲撃の予感に包まれながら、パリでレジスタンスに狙われながら、獄中で死刑の不安を抱きながら、彼は才能を爆発させた。緊張状態を必要としたのは、彼自身の詩人としての特異な資質である。生命の緊張と共に高揚するその感性の発露は、あくまでも文学的に昇華されるべきものだった。

 彼の小説は、実験的な作風でありながらも、古典的なストーリーテリングの体裁を保っている。女性に理解されない男性像、女性を安心させない男性像は、この作家が抱えていた宿命的テーマだが(ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルはその日記の中で「ブラジヤックの筆力はバルセロナの男娼ゆずり」と揶揄している)、どこか平静を装っており、天才と狂気で読者を圧倒するものではない。むしろブラジヤックの天稟は、文芸評論や記録文学に遺憾なく発揮されている。古典に親しむことによって培われた類稀なる審美眼を持つ評論家、誠実かつ愛情溢れる記録者としての彼の筆力は、他の追随を許さない。その文章を読むと、あたかも眼前に彼が愛した芸術が復元され、彼が愛した時代の息吹きがよみがえってくるかのような感覚に包まれる。

 そんなブラジヤックが晩年に遺したのが『フレーヌ獄中の手記』だ。これは作者の指示に基づいてモーリス・バルデッシュが遺稿を編集したもので、処刑されるまでの半年間の動静を追うことができる。中でも、1944年8月25日、制裁を免れ得ないコラボラトゥールとして隠れ家に潜む彼が、解放の喜びに沸く人々と交わることのできない我が身を顧みて、次のように自問するところは、愛国者としての苦悩を通り越したむなしさを感じさせる。

「......かれらはわたしの同胞なのだ。どうしてわたしは、ひとびととともに街に出て歓喜の声をあげないのだろうか。どうしてわたしも国旗を掲げて首都パリの解放を祝おうとしないのだろうか。アメリカ軍の軍服を身につけているルクレール将軍麾下の兵士を抱きしめたり、やっと到着した戦車部隊を歓呼して迎えるひとびとのように、わたしもまた幸福感を味わうことはできないのだろうか」
(ロベール・ブラジヤック「屋根裏部屋から見たパリ解放」 高井道夫訳)

才能と責任

 戦時中、若者の戦意を高揚し、差別的なことを書いた新聞や雑誌の責任者は、世界中にどれくらいいただろう。ナチスに協力したのだから殺されて当然だと考えるのであれば、該当者は数えきれないほどいたし、ブラジヤック以上の大物もたくさんいた。臨時政府による裁判で、彼に対して死刑を求刑した検事マルセル・ルブールも、かつてはペタン元帥に忠誠を誓った人物であった。ブラジヤックに対する恩赦をド・ゴール将軍が拒否した本当の理由は定かでないが、表向きは「万事においてそうであるように文芸においても、才能は責任にとっての一つの資格だから」(『ド・ゴール大戦回顧録』)とされている。しかし、その後、『ジュ・スイ・パルトゥ』の過激な元同僚たちの運命をみても分かるように、才能が責任=死と引き換えにされ続けることはなかった。

 ブラジヤックとは良好な関係になかったコラボラトゥールの作家ドリュ・ラ・ロシェルは、「わたしが対独協力の誇りに忠実であるように、あなたがたもレジスタンスの誇りに忠実であっていただきたい。私はごまかさないから、あなたがたもごまかさないでほしい。わたしに死刑を宣告してください」と書いて、逮捕される前に自殺した。このような白黒のつけ方は、当然ながら、正義の名の下に行われる裁判では是とされず、言葉の応酬により複雑さを帯びる。結果、なぜこの人は処刑され、なぜこの人は減刑されたのか、境界線がはっきりしないまま、ただ名前と罪と罰のみが歴史に記録されることになる。

 粛清を疑問視する知識人は少なからずいた。後年ド・ゴール将軍に一目置かれることになるレイモン・アロンは、ペタン裁判を例にとり、「臨時政府は、人民投票によらず反乱の結果生まれた」ものであることを踏まえた上で、これは革命的正義の論理による粛清であり、通常の意味での正義ではないとみなし、「国土が占領されている状態で国家元首が敵と内通していたというのは、法的にはまったくの虚構である」と書いた。ちなみに、アロンはユダヤ人である。

 この議論は今でも平行線をたどっている。明らかにされていないことが多すぎるのだ。アロンでもそれを知ることはできなかった。彼は『回想録』の注意書きにこう記している。「粛清関係の公文書を閲覧しようとしたが、できなかった。いまだに公開されてない」

 死刑を宣告されたブラジヤックは「名誉なことだ」と言い、獄中ではフランス革命の恐怖政治下で処刑された詩人アンドレ・シェニエに自分の境遇を重ね合わせ、詩を紡ぎながら心を慰めていた。この処刑が波紋を呼んだことは、死刑判決を受けたリュシアン・ルバテの文章からもうかがえる。筋金入りの反ユダヤ主義者だったルバテは、自分のために多くの著名人が助命嘆願書に署名したことを知ったとき、「悲しいかな! 私にはロベール・ブラジヤックが私たちの命を救ってくれたように思えてならなかった」と同胞を追悼した。『ジュ・スイ・パルトゥ』の対独協力のスタンスを見直すよう訴えたブラジヤックを「君はもうファシストの道を歩んでいない」(1943年9月3日付書簡)と非難したクストーも、恩赦により死刑を免れた。

 1945年以降、ブラジヤックのイメージは変わったのか。1964年には全集が刊行されているし、熱心な読者もいるし、研究書も沢山出ているようだが、暗い時代の汚点(コラボラトゥールであったことと、いわば見せしめのように処刑されたことのふたつの意味で)というイメージは変わっていない。それゆえにカリスマとみなす人がいるとしてもだ。2000年の話だが、パリの書店でブラジヤックの本を探していると言ったところ、露骨にいやな顔をされたことがある。おそらく今も彼は、『パリの小鳥売り』でイザベルにとってのローランがそうであったように、気詰まりな思いをさせる男、理解されない男であり続けている。その作品の文学的価値を認めることができるのは、彼の島に住める者だけである。
(阿部十三)


[参考文献]
シャルル・ド・ゴール『ドゴール大戦回顧録 I〜VI』(みすず書房 1960年12月〜1966年4月)
ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル『1945:もうひとつのフランス2 秘められた物語/ローマ風幕間劇』(図書刊行会 1988年5月)
福田和也『奇妙な廃墟』(図書刊行会 1989年12月)
野村二郎『ナチス裁判』(講談社 1993年1月)
ピエール・ドリュウ・ラ・ロシェル『ドリュウ・ラ・ロシェル 日記1939-1945』(メタローグ 1994年10月)
レーモン・アロン『レーモン・アロン回想録 1 政治の誘惑』(みすず書房 1999年2月)
モーリス・ブランショ『問われる知識人 ある省察の覚書』(月曜社 2002年11月)
高井道夫「ロベール・ブラジヤック小論 モーラスからペギーへ」(『友情の微笑み 山崎庸一郎古稀記念』 山崎庸一郎古稀記念論文集刊行会 2004年4月)
ミシェル・ヴィノック『知識人の時代 バレス/ジッド/サルトル』(紀伊国屋書店 2007年2月)
南 祐三『ナチス・ドイツとフランス右翼』(彩流社 2015年6月)



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