セバスチアン・ジャプリゾについての二、三の事柄
2015.10.10
1962年に『シンデレラの罠』を発表し、推理小説界の寵児となったセバスチアン・ジャプリゾの人気は今なお衰えることを知らない。2003年に亡くなった後も、その作品は読まれ続け、映画化され続け、ミステリ史の総合ランキングの常連であり続けている。
ミステリ・ファンにはよく知られているように、『シンデレラの罠』が出版された当時、その宣伝文は次のようなものだった。
私がこれから物語る事件は巧妙にしくまれた殺人事件です。
私はその事件で探偵です。
また証人です。
また被害者です。
そのうえ犯人なのです。
私は四人全部なのです。
いったい私は何者でしょう。
(望月芳郎訳)
ジャプリゾはこの両立し得ない条件を完璧に満たすアイディアを隙のない技術を以て見せつけた。しかし、一度読んでストーリーを把握しているミステリを二度も三度も読み、それでも面白いと思えるのは、設定が斬新だからとか、話術が巧妙だからというだけでなく、人間ドラマとしても心理劇としても読み応えがあるからだ。「『いかにおもしろく書くか?』よりも『いかにカッコよく書くか?』というひとりよがりな技巧偏重主義」(瀬戸川猛資)と批判した人もいるが、再読すれば印象も変わったに違いない。その技巧がひとりよがりなものでなく、また、技巧以上のものを宿していることは、出版後半世紀以上経っても読者を楽しませている事実が証明している。どんなに凄い技術を持っていようと、それだけでジャプリゾのようなキャリアを築くことはできない。
彼の本名はジャン=バティスト・ロッシ(Sébastien Japrisotはアナグラム)。マルセイユ生まれということもあって、その作品には必ずと言っていいほど南仏が出てくる。純文学の『不幸な出発』でデビューしたのは19歳のときのこと(1950年)。J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を仏語に訳した後、広告業界に進んで頭角を現し、いくつかの短編映画を撮った。推理小説に手を染めたのはお金のためであり(本人がそう言っている)、1962年の1月から2月にかけて一気に2冊書き上げた。それが『寝台車の殺人者』と『シンデレラの罠』(フランス推理小説大賞受賞)だ。いずれも映画のカメラを思わせるような場面転換、鮮やかに錯綜する視点と時間軸が特徴的な作品で、殺人事件の顛末を追うことに力点が置かれている。心理描写も非常にうまく、とくに『シンデレラの罠』の場合はそれが肝になっていることもあり、「何を書かないか」ということに注意を払いつつ、引き算の要領でヒロインの心の動きを表現している。この心理描写を徹底して緻密に行ったのが1966年の『新車の中の女』で、ヒロインの心理の細部にメスを入れ、人物像に厚みをもたせることに成功した。なので、謎解きの部分は帳尻合わせに感じられるところもあるが、邪悪な網の張り巡らされた不条理な世界に迷い込んだ26歳のOLの物語として十分楽しめる。
かくいう私はイザベル・アジャーニ主演の映画『殺意の夏』(1983年)を観てこの作家のことを知り、原作本を読んでのめり込み、読後しばらくの間、感動で震えが止まらなかったものである。これは恐ろしい復讐計画を胸に秘め、それを実行に移すヒロインのエルと、彼女の狂気に巻き込まれる消防夫ピーポーおよびその家族の物語。アリバイやトリックがどうこうという話ではないが、残酷なまでの愛に貫かれた人間ドラマとして面白く、まさかの結末に圧倒される。
この作家の魅力はプロットの組み方と結末の付け方の鮮やかさにある。だからこそ紹介の仕方にも注意が必要である。オチが分かってはいけない。それを念頭に置いた上で、私が言及しておきたいのは、作中にみられる二、三の特徴だ。とはいえ、ミステリを読む際、何の予備知識も頭に入れたくないという人もいると思うので、そういう人はここから先は読まない方がいいだろう。
『不幸な出発』もそうだが、ジャプリゾは登場人物たちの背景に戦争の暗い影響をしのばせる傾向がある。『新車の中の女』の主人公ダニーは孤児である。父親はイタリア移民で、ナチス・ドイツに輸送される安全ピンの詰まった荷を盗もうとして貨車に轢かれた。一方、母親はフランスが解放された後、ナチスの女として頭を丸刈りにされ、身投げして死んだ。『殺意の夏』のエルの母親は1945年4月にベルリンから逃れてきたドイツ人であり、周囲から「エヴァ・ブラウン」と呼ばれている。そして円熟期に書かれた『長い日曜日』になると、戦争そのものが大きく取り上げられる。これは第一次世界大戦と戦後の物語。戦場から一刻も早く逃れるためにわざと怪我をした5人の兵士が軍の裁判で死刑の宣告を受ける。5人は死んだのか。だとすれば、どこでどのように死んだのか。5人のうち最も若い青年マネクの婚約者であるマチルドは、戦場で何が起こったのか執念の調査を開始する。
これらの作品に登場する人物は、いわば戦争によって大きく運命を変えられた人々であり、戦争がなければ全く別の人生を歩んでいた人々である。幼少期、ジャプリゾは第一次世界大戦にイタリア兵として従軍した祖父から体験談を繰り返し聞かされており、「自分たちはその生き残り、もしくは生き残りの子孫でしかない」という意識を強く持っていた。
『長い日曜日』には主役以上に強烈なインパクトを残す人物が出てくる。「ごまんといる前線野郎の中で最低の欠陥兵だったかもしれない」アンジュと、アンジュのみを愛して復讐の天使となるティナ・ロンバルディだ。アンジュは牢獄から戦場に駆り出されたワルだが、ただのろくでなしではない。彼は兵隊同士が戦ったところで戦争の勝敗は決まらないと看破しており、次のようなことを将校たちに向かって言い放つ。「両軍とも、もう二年以上も前線じゅうに渡って地面に潜り込んでますが、こんなことになるくらいなら、いっそ各自塹壕から出て家に帰ってしまえばよかったんだ。俺の言う意味がわかりますか? わかってないんだな。参謀本部の作戦地図を見てみなさい。あれだけ殺し合いをやっときながら、何の変化もないじゃないですか!」
もうひとつ、ジャプリゾの作品にみられる特徴として、男女の微妙な関係性が挙げられる。彼はその危うさを強調するために、セックスの対象となり得る魅力的な脇役を登場させる。つまり、読者は殺人事件の顛末を追うサスペンスの緊張感を味わうだけでなく、「この男女の関係はどうなるのか」という別の興味も抱くことになる。『寝台車の殺人者』では金髪の若いダニエル。『シンデレラの罠』では「お星さまみたいにきれいな男」であるセルジュ。『新車の中の女』では不良青年のフィリップ。『殺意の夏』では「まさかと思うほどハンサム」な金髪のブブ。『長い日曜日』では「軍隊じゅうの恐怖の的」と呼ばれた金髪のセレスタン・プー。ルネ・クレマン監督作『狼は天使の匂い』(1972年)のノベライズ本『ウサギは野を駆ける』では、主役のトニーがその役割を担う。
こういった二枚目(中には悪党もいるが)とヒロインとの間に特別な関係が結ばれる。それがセックスになることもあればプラトニックで終わることもある。いずれにしても、ジャプリゾはくっつけてはいけない男女をくっつけてクライマックスの感動に水をさすようなことはしない。作品によっては同性愛も出てくるし、暴行が描かれることもある。ただし、過剰さは排除されている。かつてローガン・ピアソール・スミスやヴァレリー・ラルボーが謳ったような「罰せられざる悪徳」を読者に堪能させつつも、節度が決壊する瞬間を濫用しないのだ。
ジャプリゾは『狼は天使の匂い』だけでなく、『さらば友よ』(1968年)や『雨の訪問者』(1970年)や『O嬢の物語』(1975年)などの脚本も書いた。デビュー作『不幸な出発』に関しては、自ら映画化を手がけている(邦題は『続・個人教授』)。翻訳者の望月芳郎がジャプリゾ宅を訪ねた際、「映画の仕事に時間をさかれている」と漏らしていたそうだが、彼の小説が少ない理由もこの辺にあるのだろう。ただ、映画的な技法が小説に活かされているのも事実なので、一概に「映画と距離を置けばよかったのに」とも言えない。それでもあえて言わせてもらうなら、彼がシナリオで関わった映画も、彼の作品を映画化したものも、小説以上の感動はもたらさない。
【関連サイト】
Sébastien Japrisot
ミステリ・ファンにはよく知られているように、『シンデレラの罠』が出版された当時、その宣伝文は次のようなものだった。
私がこれから物語る事件は巧妙にしくまれた殺人事件です。
私はその事件で探偵です。
また証人です。
また被害者です。
そのうえ犯人なのです。
私は四人全部なのです。
いったい私は何者でしょう。
(望月芳郎訳)
ジャプリゾはこの両立し得ない条件を完璧に満たすアイディアを隙のない技術を以て見せつけた。しかし、一度読んでストーリーを把握しているミステリを二度も三度も読み、それでも面白いと思えるのは、設定が斬新だからとか、話術が巧妙だからというだけでなく、人間ドラマとしても心理劇としても読み応えがあるからだ。「『いかにおもしろく書くか?』よりも『いかにカッコよく書くか?』というひとりよがりな技巧偏重主義」(瀬戸川猛資)と批判した人もいるが、再読すれば印象も変わったに違いない。その技巧がひとりよがりなものでなく、また、技巧以上のものを宿していることは、出版後半世紀以上経っても読者を楽しませている事実が証明している。どんなに凄い技術を持っていようと、それだけでジャプリゾのようなキャリアを築くことはできない。
彼の本名はジャン=バティスト・ロッシ(Sébastien Japrisotはアナグラム)。マルセイユ生まれということもあって、その作品には必ずと言っていいほど南仏が出てくる。純文学の『不幸な出発』でデビューしたのは19歳のときのこと(1950年)。J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を仏語に訳した後、広告業界に進んで頭角を現し、いくつかの短編映画を撮った。推理小説に手を染めたのはお金のためであり(本人がそう言っている)、1962年の1月から2月にかけて一気に2冊書き上げた。それが『寝台車の殺人者』と『シンデレラの罠』(フランス推理小説大賞受賞)だ。いずれも映画のカメラを思わせるような場面転換、鮮やかに錯綜する視点と時間軸が特徴的な作品で、殺人事件の顛末を追うことに力点が置かれている。心理描写も非常にうまく、とくに『シンデレラの罠』の場合はそれが肝になっていることもあり、「何を書かないか」ということに注意を払いつつ、引き算の要領でヒロインの心の動きを表現している。この心理描写を徹底して緻密に行ったのが1966年の『新車の中の女』で、ヒロインの心理の細部にメスを入れ、人物像に厚みをもたせることに成功した。なので、謎解きの部分は帳尻合わせに感じられるところもあるが、邪悪な網の張り巡らされた不条理な世界に迷い込んだ26歳のOLの物語として十分楽しめる。
かくいう私はイザベル・アジャーニ主演の映画『殺意の夏』(1983年)を観てこの作家のことを知り、原作本を読んでのめり込み、読後しばらくの間、感動で震えが止まらなかったものである。これは恐ろしい復讐計画を胸に秘め、それを実行に移すヒロインのエルと、彼女の狂気に巻き込まれる消防夫ピーポーおよびその家族の物語。アリバイやトリックがどうこうという話ではないが、残酷なまでの愛に貫かれた人間ドラマとして面白く、まさかの結末に圧倒される。
この作家の魅力はプロットの組み方と結末の付け方の鮮やかさにある。だからこそ紹介の仕方にも注意が必要である。オチが分かってはいけない。それを念頭に置いた上で、私が言及しておきたいのは、作中にみられる二、三の特徴だ。とはいえ、ミステリを読む際、何の予備知識も頭に入れたくないという人もいると思うので、そういう人はここから先は読まない方がいいだろう。
『不幸な出発』もそうだが、ジャプリゾは登場人物たちの背景に戦争の暗い影響をしのばせる傾向がある。『新車の中の女』の主人公ダニーは孤児である。父親はイタリア移民で、ナチス・ドイツに輸送される安全ピンの詰まった荷を盗もうとして貨車に轢かれた。一方、母親はフランスが解放された後、ナチスの女として頭を丸刈りにされ、身投げして死んだ。『殺意の夏』のエルの母親は1945年4月にベルリンから逃れてきたドイツ人であり、周囲から「エヴァ・ブラウン」と呼ばれている。そして円熟期に書かれた『長い日曜日』になると、戦争そのものが大きく取り上げられる。これは第一次世界大戦と戦後の物語。戦場から一刻も早く逃れるためにわざと怪我をした5人の兵士が軍の裁判で死刑の宣告を受ける。5人は死んだのか。だとすれば、どこでどのように死んだのか。5人のうち最も若い青年マネクの婚約者であるマチルドは、戦場で何が起こったのか執念の調査を開始する。
これらの作品に登場する人物は、いわば戦争によって大きく運命を変えられた人々であり、戦争がなければ全く別の人生を歩んでいた人々である。幼少期、ジャプリゾは第一次世界大戦にイタリア兵として従軍した祖父から体験談を繰り返し聞かされており、「自分たちはその生き残り、もしくは生き残りの子孫でしかない」という意識を強く持っていた。
『長い日曜日』には主役以上に強烈なインパクトを残す人物が出てくる。「ごまんといる前線野郎の中で最低の欠陥兵だったかもしれない」アンジュと、アンジュのみを愛して復讐の天使となるティナ・ロンバルディだ。アンジュは牢獄から戦場に駆り出されたワルだが、ただのろくでなしではない。彼は兵隊同士が戦ったところで戦争の勝敗は決まらないと看破しており、次のようなことを将校たちに向かって言い放つ。「両軍とも、もう二年以上も前線じゅうに渡って地面に潜り込んでますが、こんなことになるくらいなら、いっそ各自塹壕から出て家に帰ってしまえばよかったんだ。俺の言う意味がわかりますか? わかってないんだな。参謀本部の作戦地図を見てみなさい。あれだけ殺し合いをやっときながら、何の変化もないじゃないですか!」
もうひとつ、ジャプリゾの作品にみられる特徴として、男女の微妙な関係性が挙げられる。彼はその危うさを強調するために、セックスの対象となり得る魅力的な脇役を登場させる。つまり、読者は殺人事件の顛末を追うサスペンスの緊張感を味わうだけでなく、「この男女の関係はどうなるのか」という別の興味も抱くことになる。『寝台車の殺人者』では金髪の若いダニエル。『シンデレラの罠』では「お星さまみたいにきれいな男」であるセルジュ。『新車の中の女』では不良青年のフィリップ。『殺意の夏』では「まさかと思うほどハンサム」な金髪のブブ。『長い日曜日』では「軍隊じゅうの恐怖の的」と呼ばれた金髪のセレスタン・プー。ルネ・クレマン監督作『狼は天使の匂い』(1972年)のノベライズ本『ウサギは野を駆ける』では、主役のトニーがその役割を担う。
こういった二枚目(中には悪党もいるが)とヒロインとの間に特別な関係が結ばれる。それがセックスになることもあればプラトニックで終わることもある。いずれにしても、ジャプリゾはくっつけてはいけない男女をくっつけてクライマックスの感動に水をさすようなことはしない。作品によっては同性愛も出てくるし、暴行が描かれることもある。ただし、過剰さは排除されている。かつてローガン・ピアソール・スミスやヴァレリー・ラルボーが謳ったような「罰せられざる悪徳」を読者に堪能させつつも、節度が決壊する瞬間を濫用しないのだ。
ジャプリゾは『狼は天使の匂い』だけでなく、『さらば友よ』(1968年)や『雨の訪問者』(1970年)や『O嬢の物語』(1975年)などの脚本も書いた。デビュー作『不幸な出発』に関しては、自ら映画化を手がけている(邦題は『続・個人教授』)。翻訳者の望月芳郎がジャプリゾ宅を訪ねた際、「映画の仕事に時間をさかれている」と漏らしていたそうだが、彼の小説が少ない理由もこの辺にあるのだろう。ただ、映画的な技法が小説に活かされているのも事実なので、一概に「映画と距離を置けばよかったのに」とも言えない。それでもあえて言わせてもらうなら、彼がシナリオで関わった映画も、彼の作品を映画化したものも、小説以上の感動はもたらさない。
(阿部十三)
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Sébastien Japrisot
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