テオフィル・ゴーティエ 今この世にあらざるもの
2016.04.02
オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の中に、テオフィル・ゴーティエの『七宝螺鈿集』の詩を引用している箇所がある。「もりあがる調べにのりて/胸より滴るは真珠の雫」ーーこれを読んだ私はゴーティエに興味を抱き、近所の市立図書館で岩波文庫の『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』を見つけると、時間を忘れて読みふけった。その間、立ち読みの状態で、時代をさかのぼり、かつてふれたことのないような美の世界に耽溺していた。高校1年の頃の話である。
ちなみに、『ドリアン・グレイの肖像』を訳したのは福田恆存。『七宝螺鈿集』の引用箇所は、フランス語の原文では「Sur une gamme chromatique, Le sein de perles ruisselant」なので、福田の訳だと少しおかしい。ゴーティエの巧緻な詩を日本語にするのは至難のわざだが、『七寶とカメオ』という邦題で収録作品の翻訳に取り組んだ齋藤磯雄は、「半音階の旋律(しらべ)に乗つて/胸に眞珠の雫を散らし」と訳している。
もともと画家志望だったゴーティエは、外形の美しさに執着し、韻にも凝り、「造形美術の手法で文学を成そうとした」(田辺貞之助)と言われている。芸術のための芸術という芸術至上主義の立場をとり、思想がないと批判されることもあったようだ。しかし、彼の作品は時流に乗った思想を盛り込んだりモラルを押しつけたりしないだけで、別に造型美や感覚美のみを追い求めていたわけではない。思想的に空っぽの芸術家に、次のような文章は書けないだろう。
「誰にも未来について臆断を下すことはできない。しかしぼくには過去がぼくらに遺してくれたのに、まるで代わりにそこに置くものを何か持ってでもいるかのように人々が破壊しているものを、未来がぼくらに返してくれるとは思えない」
これはスペインの修道院を訪れたときの感慨である。ゴーティエという芸術家には、すでに失われて今そこにないものを見る幻視の力、そして、それを復元する力があった。その力がどれくらい凄いものだったかは、シャルル・ボードレールが「十全無瑕の詩人にして完璧なるフランス文学の魔術師」とたたえ、『悪の華』を献呈したことからも想像できるだろう。
驚嘆すべき紀行文『スペイン紀行』で、ゴーティエは古い絵画、古い教会などを前にして、異常なまでの空想力と博識ぶりを発揮し、さまざまなドラマを再現させる。むろん、文化や風俗への無理解は攻撃の対象となる。コルドバの古い寺院が改築されたことについては、「悪はなされてしまった」とまで書いている。
後期の代表作『キャピテン・フラカス』は十字軍の時代から続く貴族の話である。没落してぼろ屋敷に住んでいるシゴニャック男爵は孤独で無気力な生活を送っている。そんなある日、宿を求めに来た旅回りの女優イザベルに恋したことで一念発起し、旅芸人一座に加わり、パリでシゴニャック家の再興をはかろうと考える。その旅の途中、邪悪なヴァロンブルーズ公爵がイザベルに恋したことから、命がけの恋の鞘当てが繰り広げられる。細密すぎて冗漫にすら思える長々しい描写が多いし、マルキ・ド・サド的なキャラクターとして登場するヴァロンブルーズ公爵の終盤での変貌ぶりにも首を傾げざるを得ないが、あくまでもテーマは、由緒ある家柄の人間が過去に消え去った栄光を取り戻すというものだ。ここには現実の世界で失われたものへの復元志向がみられる。
初期の長編『モーパン嬢』はもう少し複雑で、男装の麗人をめぐる恋がストーリーの軸となっており、理想の恋愛がいわば得難いイデアのようなものとして提示されている。幻想的・神秘的な傾向を帯びた後期の『スピリット』は、ラディカルな態度で愛の美しさを追求した作品である。これらは、この世にあらざる美を愛に置き換えて、イデアの幻視を行ったものと言えなくもない。
私が最初に魅了された短編「死霊の恋」も同系統の内容で、この上なく美しい吸血鬼クラリモンドのために、若い司祭ロミュアルト(ロミュオー)が生気を奪われていく。こういった作品を読んでも、ゴーティエがモラルを意に介さず、真に「美」と呼ぶに足る愛を描くことに執心していたことが分かる。クラリモンドは厳格な老師セラピオンによって退治されるが、ロミュアルトはそのことを老年になってからも後悔し続け、若い衆に向かって、「神の愛も、あの人の愛にかわるには足りません」と吐露するのだ。あの日、あの図書館でこの本を読んでいるとき、私はロミュアルトになり、まるで自分がクラリモンドを失ったような気持ちになっていた。
上田秋成の『雨月物語』にも似たような話がある。この中に収められた「蛇性の婬」では、豊雄が蛇性の真女児の虜になる。溝口健二監督の映画の方は、「蛇性の婬」のみを描いたものではないが、ここで真女児にあたる若狭を京マチ子が演じていたのは、いかにも適役であった。私ならば魔除けの呪文を体に書くような真似はしない。
目の前にないもの、この世にないものを美しく鮮やかに出現させるゴーティエの魔術。それは懐古趣味なんかではなく、容赦なく押し寄せる時代の波、普遍性を欠く思想やモラルや文明の波にのみこまれまいとする強靭な意思の賜物であったように思われる。ゴーティエは美と芸術の守護者たらんとして、失われたものを記録したり創造したりする。たとえ過去の遺物と言われようと、その代わりとなるものが未来から提供されることはない。彼には思想がないどころか、確固たる信念があったのである。
2000年2月、ゴーティエのお墓参りをした。彼はスタンダールやベルリオーズと同じくモンマルトル墓地に眠っている。その日、少し雨が降っていて、私は風邪気味で熱っぽく具合が悪かった。それでもゴーティエのお墓の前を去り難く、呆れる友人を待たせたまま長い時間を過ごした。そして墓地を出たとき、自分の体が軽くなっていることに気付いた。旅行で気分が高揚していたせいかもしれないが、あの頃常に体調を崩していたにもかかわらずパリで楽しく過ごせたのは、ゴーティエのおかげだろうと私自身は思っている。
【関連サイト】
Théophile Gautier
ちなみに、『ドリアン・グレイの肖像』を訳したのは福田恆存。『七宝螺鈿集』の引用箇所は、フランス語の原文では「Sur une gamme chromatique, Le sein de perles ruisselant」なので、福田の訳だと少しおかしい。ゴーティエの巧緻な詩を日本語にするのは至難のわざだが、『七寶とカメオ』という邦題で収録作品の翻訳に取り組んだ齋藤磯雄は、「半音階の旋律(しらべ)に乗つて/胸に眞珠の雫を散らし」と訳している。
もともと画家志望だったゴーティエは、外形の美しさに執着し、韻にも凝り、「造形美術の手法で文学を成そうとした」(田辺貞之助)と言われている。芸術のための芸術という芸術至上主義の立場をとり、思想がないと批判されることもあったようだ。しかし、彼の作品は時流に乗った思想を盛り込んだりモラルを押しつけたりしないだけで、別に造型美や感覚美のみを追い求めていたわけではない。思想的に空っぽの芸術家に、次のような文章は書けないだろう。
「誰にも未来について臆断を下すことはできない。しかしぼくには過去がぼくらに遺してくれたのに、まるで代わりにそこに置くものを何か持ってでもいるかのように人々が破壊しているものを、未来がぼくらに返してくれるとは思えない」
(『スペイン紀行』桑原隆行訳)
これはスペインの修道院を訪れたときの感慨である。ゴーティエという芸術家には、すでに失われて今そこにないものを見る幻視の力、そして、それを復元する力があった。その力がどれくらい凄いものだったかは、シャルル・ボードレールが「十全無瑕の詩人にして完璧なるフランス文学の魔術師」とたたえ、『悪の華』を献呈したことからも想像できるだろう。
驚嘆すべき紀行文『スペイン紀行』で、ゴーティエは古い絵画、古い教会などを前にして、異常なまでの空想力と博識ぶりを発揮し、さまざまなドラマを再現させる。むろん、文化や風俗への無理解は攻撃の対象となる。コルドバの古い寺院が改築されたことについては、「悪はなされてしまった」とまで書いている。
後期の代表作『キャピテン・フラカス』は十字軍の時代から続く貴族の話である。没落してぼろ屋敷に住んでいるシゴニャック男爵は孤独で無気力な生活を送っている。そんなある日、宿を求めに来た旅回りの女優イザベルに恋したことで一念発起し、旅芸人一座に加わり、パリでシゴニャック家の再興をはかろうと考える。その旅の途中、邪悪なヴァロンブルーズ公爵がイザベルに恋したことから、命がけの恋の鞘当てが繰り広げられる。細密すぎて冗漫にすら思える長々しい描写が多いし、マルキ・ド・サド的なキャラクターとして登場するヴァロンブルーズ公爵の終盤での変貌ぶりにも首を傾げざるを得ないが、あくまでもテーマは、由緒ある家柄の人間が過去に消え去った栄光を取り戻すというものだ。ここには現実の世界で失われたものへの復元志向がみられる。
初期の長編『モーパン嬢』はもう少し複雑で、男装の麗人をめぐる恋がストーリーの軸となっており、理想の恋愛がいわば得難いイデアのようなものとして提示されている。幻想的・神秘的な傾向を帯びた後期の『スピリット』は、ラディカルな態度で愛の美しさを追求した作品である。これらは、この世にあらざる美を愛に置き換えて、イデアの幻視を行ったものと言えなくもない。
私が最初に魅了された短編「死霊の恋」も同系統の内容で、この上なく美しい吸血鬼クラリモンドのために、若い司祭ロミュアルト(ロミュオー)が生気を奪われていく。こういった作品を読んでも、ゴーティエがモラルを意に介さず、真に「美」と呼ぶに足る愛を描くことに執心していたことが分かる。クラリモンドは厳格な老師セラピオンによって退治されるが、ロミュアルトはそのことを老年になってからも後悔し続け、若い衆に向かって、「神の愛も、あの人の愛にかわるには足りません」と吐露するのだ。あの日、あの図書館でこの本を読んでいるとき、私はロミュアルトになり、まるで自分がクラリモンドを失ったような気持ちになっていた。
上田秋成の『雨月物語』にも似たような話がある。この中に収められた「蛇性の婬」では、豊雄が蛇性の真女児の虜になる。溝口健二監督の映画の方は、「蛇性の婬」のみを描いたものではないが、ここで真女児にあたる若狭を京マチ子が演じていたのは、いかにも適役であった。私ならば魔除けの呪文を体に書くような真似はしない。
目の前にないもの、この世にないものを美しく鮮やかに出現させるゴーティエの魔術。それは懐古趣味なんかではなく、容赦なく押し寄せる時代の波、普遍性を欠く思想やモラルや文明の波にのみこまれまいとする強靭な意思の賜物であったように思われる。ゴーティエは美と芸術の守護者たらんとして、失われたものを記録したり創造したりする。たとえ過去の遺物と言われようと、その代わりとなるものが未来から提供されることはない。彼には思想がないどころか、確固たる信念があったのである。
2000年2月、ゴーティエのお墓参りをした。彼はスタンダールやベルリオーズと同じくモンマルトル墓地に眠っている。その日、少し雨が降っていて、私は風邪気味で熱っぽく具合が悪かった。それでもゴーティエのお墓の前を去り難く、呆れる友人を待たせたまま長い時間を過ごした。そして墓地を出たとき、自分の体が軽くなっていることに気付いた。旅行で気分が高揚していたせいかもしれないが、あの頃常に体調を崩していたにもかかわらずパリで楽しく過ごせたのは、ゴーティエのおかげだろうと私自身は思っている。
(阿部十三)
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