高山樗牛の評論
2016.04.30
高山樗牛は美文で鳴らした明治の評論家で、生前大いに注目を集めたが、若くして健康を害し、1902年に31歳で亡くなった。現在では、坪内逍遥、森鴎外、内村鑑三に噛みついていた論争家、匿名で『瀧口入道』を書いた小説家、圧倒的な美文家として、文学史に名をとどめている。
樗牛を美文家と評するとき、そこには「文章は美しいけど思想は浅い」という皮肉もしばしば含まれる。没後の評価は高いとは言えず、若い頃は樗牛を愛読したが後には何も残らなかったと片付ける人は少なくない。しかし、一部には擁護者も存在した。例えば保田與重郎は「明治の精神」の中で、「この人(樗牛)の肉身で歌つた青春は、明治の青春を最も溌剌とあらはしてゐた」と評し、「かういふ詩人の業を不服とするものは第三流の學者の常である」と切り捨てている。
戦後、樗牛を讃える者が減る一方だったのは、主に彼の日本主義によるものだろう。橋川文三は「太平洋戦争の戦前と戦中、樗牛はファシスト的文學論の好題目として回顧され、たとえば『樗牛の大東亞戦豫言と米英撃滅』(高須芳次郎『高山樗牛』)という形で『皇國文學』史観の先驅者あつかいされたことが、ますます樗牛の名にいかがわしい印象を與えることになった」と書いている。やはり独特の美文で読者を魅了した保田與重郎が、「あの悩ましく怪しげな美文で若者を戦争へかり立てた」(杉浦明平)と糾弾されたのは皮肉である。
樗牛の日本主義は、日本人に己の国民的特性、国民的性情を見直せと促す。それ自体はいかがわしいものではない。が、「希くは最も健全なる國民的道徳の確立を望むもの、建國の精神を發揮して大和民族の偉大なる抱負を實現せむと欲するもの、及び人道の最も忠誠なる伴侶とならむと欲するものは、吾等と共に來れ」(「日本主義」)と呼びかける高らかな調子は、プロパガンダ的で、きな臭い。「外国ではこうだ」とか「キリスト教ではこうだ」ということを正論にしたがる日本人には、生ぬるい言葉では対抗できないと考えたのだろうか。
樗牛は美を論じ、美術を論じた。日本人、道徳、幸福も彼の主要なテーマである。端的に言えば、日本人は己の生をいかに美しく生くべきか、その追求が彼の大仕事の一つだった。それに伴い、「美感」や「美的」といったものの定義がなされた。
1900年に発表された「美感に就いての觀察」で、樗牛は「生活上の實際の利害とはかけ離れ、美その物を樂むが美意識の特徴」という「美感の無關心性」を援用し、「功利の念を和らげ若しくはそを斷滅する力あるは、美感の性質として最も明なるもの」と説いている。そして、「美感」の特徴として「一局部に偏よらずして、その全躰に齊しく響き渡る趣あること」を挙げ、「美感」は「美感ならぬ快感(一般快感)」に比べて刺激が弱く、それゆえ永続性を持つとする。両者の区別の仕方は曖昧で、樗牛自身、「一般快感と美感との間には量の上の差こそあれ、質の上の別ち無しと見ざるべからず」と書いているが、あくまでも「美を求むるの心は無窮を追ふの心」であり、これが樗牛の説きたい「美感」なのだろうということは読み取れる。
翌年書かれた「美的生活を論ず」では、かつて日本主義の立場で唱えていた「幸福以外に人生の目的あるべき謂れ無し」(「國家至上主義に對する吾人の見解」)という主張を、個人主義の立場で検討し、幸福とは「本能の滿足即ち是のみ」とした。いかめしい「道學先生」がどんな言辞を弄したところで、彼らに本音を言う勇気があるならば、「必ずや人生の至樂は畢竟性慾の滿足に存することを認むるならむ」とまで書いている。
この部分を以て美的=性的の意に曲解されたのは、多くの論敵の悪意によるものだ。樗牛の論旨はその先にあり、「本能以外の事物と雖も、其の價値の絶對と認めらるるものは亦美的たるを妨げず」とことわっている。これに従えば、「眞理其物の考察」も美的であり、金銭本来の性質を閑却してひたすら貯金する守銭奴の態度も美的。むろん、芸術のために殉じるのも美的である。「實際的に非ずして翫賞的」であることが美的なのだ。この態度を貫く者はいわば心の王国の主であり、決して周囲の評判に左右されることはない。
「金銭のみ人を富ますものに非ず、權勢のみ人を貴くするものに非ず、爾の胸に王國を認むるものにして初めて與に美的生活を語るべけむ」
樗牛は美的な小説も書いている。帝大哲学科在籍中、20日余りで脱稿した『瀧口入道』だ。これは読売新聞の懸賞で第二席(一席は該当者なし)に当選し、新聞に連載され、出版もされ、多くの読者を得たが、樗牛は死ぬまで自分が作者であることを公言しなかった。
内容は『平家物語』の「横笛」を大幅に改編したもので、『平家物語』や『源平盛衰記』では恋仲にあったはずの横笛と斎藤滝口時頼の関係を、決して結ばれることのない悲恋に変えている。時頼と足助二郎重景の間で迷っていた美女・横笛の心が一気に時頼に傾くのは、彼が恋の懊悩と周囲の冷笑に背を向け、出家したことを伝え聞いてからである。これではタイミングが遅すぎ、恋が成就するはずもない。そのため、横笛が「瀧口入道」になった時頼を訪ねて拒まれ、尼になって病死する展開は、男に世を捨てさせた罪の償いという意味すら帯びてくる。「おそろしい道徳小説」(杉本秀太郎)という感想を持つ人がいても仕方ない。しかし、後年の樗牛の論を持ち出すなら、この小説には本能の満足はなく、登場人物は人生の目的(幸福)を達してもいないが、成就することを度外視した実際的ならざる恋のための恋、という美的状態が示されていると言える。
樗牛の評論は、早い段階で要点を断定的に提示した後、いくつか例外を出し、ニュアンスを変えた形で要点を何度か提示する。分かりやすい例えを用いて持論を展開しようとしているが、読み手をひきつける複数の要点が強力な「つかみ」として機能するわりに、それらを結びつける論理は葛藤的であることを免れず、結果的に、論理性よりも「つかみ」の言葉が一行の詩句のように残る。
それはレトリックの魔術などではなく、功名心が強く不遜にすら見える思想家と、論理で割り切れない文人が同居する人間の煩悶の爪痕とみるべきだろう。そんな樗牛が詠嘆的、感傷的な文人の資質を「わが袖の記」や「清見潟日記」でさらし、涙を見せつけたのも不思議はない。彼にはそういう自分を吐き出す場所が必要だった。「予は矛盾の人也、煩悶の人也」(「姉崎嘲風に與ふる書」)とは偽りなき真情である。
登張竹風が書いた「美的生活論とニーチエ」の影響もあり、樗牛はニーチェ主義者として知られたが、ニーチェの哲学をどの程度消化していたのかは分からない。度合いの比較で言うなら、日蓮に対する讃美の方が熱がこもっている。ニーチェに対する場合、感性の次元で自分と似たものを見て取っていたという方が適当かもしれない。樗牛にとってのニーチェは、彼自身の資質がそうだったように、詩人であり、文明批評家であった。
「蓋し彼れ(ニーチェ)は哲學者と謂はむよりは寧ろ大なる詩人也、而して詩人として大いなる所以は、實に彼れが大いなる文明批評家たる所に存す」
樗牛は「姉崎嘲風に與ふる書」で、「本邦の學界」が日本美術史をおろそかにしていることを嘆き、日本人より日本美術に精通する外国人がいることに「憮然として長太息」した。晩年、帝大講師として「日本美術の特質に就いて」の講義を行い、「奈良朝の美術」を書いたのは、文明批評家の自覚に基づくものだ。さらに言えば、樗牛の文章自体がすでにその自覚のあらわれである。矛盾煩悶する彼の思想と詩情の表現に、繊細で豊かな含みを持つ日本語ほどふさわしいものはない。日本人としてその機能を十全に活かした美文には、それだけ深い陰翳が宿っているのだ。
樗牛を美文家と評するとき、そこには「文章は美しいけど思想は浅い」という皮肉もしばしば含まれる。没後の評価は高いとは言えず、若い頃は樗牛を愛読したが後には何も残らなかったと片付ける人は少なくない。しかし、一部には擁護者も存在した。例えば保田與重郎は「明治の精神」の中で、「この人(樗牛)の肉身で歌つた青春は、明治の青春を最も溌剌とあらはしてゐた」と評し、「かういふ詩人の業を不服とするものは第三流の學者の常である」と切り捨てている。
戦後、樗牛を讃える者が減る一方だったのは、主に彼の日本主義によるものだろう。橋川文三は「太平洋戦争の戦前と戦中、樗牛はファシスト的文學論の好題目として回顧され、たとえば『樗牛の大東亞戦豫言と米英撃滅』(高須芳次郎『高山樗牛』)という形で『皇國文學』史観の先驅者あつかいされたことが、ますます樗牛の名にいかがわしい印象を與えることになった」と書いている。やはり独特の美文で読者を魅了した保田與重郎が、「あの悩ましく怪しげな美文で若者を戦争へかり立てた」(杉浦明平)と糾弾されたのは皮肉である。
樗牛の日本主義は、日本人に己の国民的特性、国民的性情を見直せと促す。それ自体はいかがわしいものではない。が、「希くは最も健全なる國民的道徳の確立を望むもの、建國の精神を發揮して大和民族の偉大なる抱負を實現せむと欲するもの、及び人道の最も忠誠なる伴侶とならむと欲するものは、吾等と共に來れ」(「日本主義」)と呼びかける高らかな調子は、プロパガンダ的で、きな臭い。「外国ではこうだ」とか「キリスト教ではこうだ」ということを正論にしたがる日本人には、生ぬるい言葉では対抗できないと考えたのだろうか。
樗牛は美を論じ、美術を論じた。日本人、道徳、幸福も彼の主要なテーマである。端的に言えば、日本人は己の生をいかに美しく生くべきか、その追求が彼の大仕事の一つだった。それに伴い、「美感」や「美的」といったものの定義がなされた。
1900年に発表された「美感に就いての觀察」で、樗牛は「生活上の實際の利害とはかけ離れ、美その物を樂むが美意識の特徴」という「美感の無關心性」を援用し、「功利の念を和らげ若しくはそを斷滅する力あるは、美感の性質として最も明なるもの」と説いている。そして、「美感」の特徴として「一局部に偏よらずして、その全躰に齊しく響き渡る趣あること」を挙げ、「美感」は「美感ならぬ快感(一般快感)」に比べて刺激が弱く、それゆえ永続性を持つとする。両者の区別の仕方は曖昧で、樗牛自身、「一般快感と美感との間には量の上の差こそあれ、質の上の別ち無しと見ざるべからず」と書いているが、あくまでも「美を求むるの心は無窮を追ふの心」であり、これが樗牛の説きたい「美感」なのだろうということは読み取れる。
翌年書かれた「美的生活を論ず」では、かつて日本主義の立場で唱えていた「幸福以外に人生の目的あるべき謂れ無し」(「國家至上主義に對する吾人の見解」)という主張を、個人主義の立場で検討し、幸福とは「本能の滿足即ち是のみ」とした。いかめしい「道學先生」がどんな言辞を弄したところで、彼らに本音を言う勇気があるならば、「必ずや人生の至樂は畢竟性慾の滿足に存することを認むるならむ」とまで書いている。
この部分を以て美的=性的の意に曲解されたのは、多くの論敵の悪意によるものだ。樗牛の論旨はその先にあり、「本能以外の事物と雖も、其の價値の絶對と認めらるるものは亦美的たるを妨げず」とことわっている。これに従えば、「眞理其物の考察」も美的であり、金銭本来の性質を閑却してひたすら貯金する守銭奴の態度も美的。むろん、芸術のために殉じるのも美的である。「實際的に非ずして翫賞的」であることが美的なのだ。この態度を貫く者はいわば心の王国の主であり、決して周囲の評判に左右されることはない。
「金銭のみ人を富ますものに非ず、權勢のみ人を貴くするものに非ず、爾の胸に王國を認むるものにして初めて與に美的生活を語るべけむ」
(「美的生活を論ず」)
樗牛は美的な小説も書いている。帝大哲学科在籍中、20日余りで脱稿した『瀧口入道』だ。これは読売新聞の懸賞で第二席(一席は該当者なし)に当選し、新聞に連載され、出版もされ、多くの読者を得たが、樗牛は死ぬまで自分が作者であることを公言しなかった。
内容は『平家物語』の「横笛」を大幅に改編したもので、『平家物語』や『源平盛衰記』では恋仲にあったはずの横笛と斎藤滝口時頼の関係を、決して結ばれることのない悲恋に変えている。時頼と足助二郎重景の間で迷っていた美女・横笛の心が一気に時頼に傾くのは、彼が恋の懊悩と周囲の冷笑に背を向け、出家したことを伝え聞いてからである。これではタイミングが遅すぎ、恋が成就するはずもない。そのため、横笛が「瀧口入道」になった時頼を訪ねて拒まれ、尼になって病死する展開は、男に世を捨てさせた罪の償いという意味すら帯びてくる。「おそろしい道徳小説」(杉本秀太郎)という感想を持つ人がいても仕方ない。しかし、後年の樗牛の論を持ち出すなら、この小説には本能の満足はなく、登場人物は人生の目的(幸福)を達してもいないが、成就することを度外視した実際的ならざる恋のための恋、という美的状態が示されていると言える。
樗牛の評論は、早い段階で要点を断定的に提示した後、いくつか例外を出し、ニュアンスを変えた形で要点を何度か提示する。分かりやすい例えを用いて持論を展開しようとしているが、読み手をひきつける複数の要点が強力な「つかみ」として機能するわりに、それらを結びつける論理は葛藤的であることを免れず、結果的に、論理性よりも「つかみ」の言葉が一行の詩句のように残る。
それはレトリックの魔術などではなく、功名心が強く不遜にすら見える思想家と、論理で割り切れない文人が同居する人間の煩悶の爪痕とみるべきだろう。そんな樗牛が詠嘆的、感傷的な文人の資質を「わが袖の記」や「清見潟日記」でさらし、涙を見せつけたのも不思議はない。彼にはそういう自分を吐き出す場所が必要だった。「予は矛盾の人也、煩悶の人也」(「姉崎嘲風に與ふる書」)とは偽りなき真情である。
登張竹風が書いた「美的生活論とニーチエ」の影響もあり、樗牛はニーチェ主義者として知られたが、ニーチェの哲学をどの程度消化していたのかは分からない。度合いの比較で言うなら、日蓮に対する讃美の方が熱がこもっている。ニーチェに対する場合、感性の次元で自分と似たものを見て取っていたという方が適当かもしれない。樗牛にとってのニーチェは、彼自身の資質がそうだったように、詩人であり、文明批評家であった。
「蓋し彼れ(ニーチェ)は哲學者と謂はむよりは寧ろ大なる詩人也、而して詩人として大いなる所以は、實に彼れが大いなる文明批評家たる所に存す」
(『文明批評家としての文學者』)
樗牛は「姉崎嘲風に與ふる書」で、「本邦の學界」が日本美術史をおろそかにしていることを嘆き、日本人より日本美術に精通する外国人がいることに「憮然として長太息」した。晩年、帝大講師として「日本美術の特質に就いて」の講義を行い、「奈良朝の美術」を書いたのは、文明批評家の自覚に基づくものだ。さらに言えば、樗牛の文章自体がすでにその自覚のあらわれである。矛盾煩悶する彼の思想と詩情の表現に、繊細で豊かな含みを持つ日本語ほどふさわしいものはない。日本人としてその機能を十全に活かした美文には、それだけ深い陰翳が宿っているのだ。
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