谷崎潤一郎 「悪魔」と「続悪魔」について [続き]
2016.06.11
「続悪魔」は、神経衰弱が悪化しているところから始まる。「癲癇、頓死、發狂などに對する恐怖が、始終胸に蟠つて、其れでも足らずに、いやが上にも我れから心配の種を撒き散らし、愚にもつかない事にばかり驚き戦きつつ生をつづけて居」る佐伯は、反面、「高橋お傳」「佐竹騒動妲妃のお百」といった毒婦物の講釈本を読み、恐怖に敏感な神経を麻痺させるような血なまぐさい幻想を堪能している。そして、その幻想とうつつの狭間で、ついに照子と関係を結ぶ。
それを知った自称許婚の鈴木は、謝罪状を書くこと、林家から出て行くことを佐伯に要求する。佐伯は鈴木と何の約束もしていないし、第一、林家の母娘は鈴木を嫌っている。照子には鈴木と結婚する気などない。鈴木が彼女と関係を持ったという話も疑わしい。何より、照子の亡父は「将来立派な者にさへなれば」という条件をつけたのに、鈴木は照子に執着するあまり、そのことを忘れている。このようにねちねちして、やたらと証文を書かせたがる病的かつ陰険な男は、おそらく『卍』(改造社、昭和6年)の綿貫の人物造型に繋がっているのだろう。綿貫は美男で不能者だが、両者は気質的に似ている。
ある日、鈴木が家を出たきり帰ってこなくなる。その鈴木から林家に脅迫状が届く。「若し飽く迄も予に反抗するならば、それだけの用心が肝要なり」ーー叔母は気味悪がり、佐伯に出て行ってもらった方がいいのではないかと言い出すが、照子は受け付けない。
柱時計が夜八時を告げる。どうやら便所の壁の向こう側に誰かいるらしい。叔母は佐伯に交番に行ってほしいと頼むが、佐伯は「よく檢(しら)べて見ませう」と言って照子と外に出る。このあたりの展開はホラーさながらだ。案の定、そこには鈴木がいる。照子が奥へ引っ込むと、佐伯は「口惜しければ、僕を殺したらいいだらう」と鈴木を挑発する。鈴木はにやにや笑って刃物を懐から取り出すが、すぐに外套のかげに隠す。佐伯はひるむことなく挑発を続け、相手の胸倉を掴んで追い出そうとした刹那、喉笛をえぐられる。
佐伯は死の想念に苛まれ、恐怖におびえ、神経衰弱に陥っている。彼は照子や鈴木のことを「悪魔」ないし「魔者」とみなすが、まず彼自身の病が悪魔である。講釈本に出てくるお百もお傳も悪魔。要するに悪魔だらけだ。赤門前を通る若い学生ですら、「獣のやうな丈夫さうな骨格」と表現される。そもそも、これは汽車という「怪物」によって主人公が東京に運ばれてくる場面から始まる物語ではないか。
とはいえ佐伯はただの神経衰弱者ではない。恐怖のイメージにひたすら恐怖して苦しむこともあれば、恐怖をいわばマゾ的歓楽、刺激として迎え入れ、そこから生の実感を得ることもある。ねちねちして不気味な鈴木に「私には十分な覺悟があつて、已むを得なければ最後の手段を取る決心です」と言われたときでも、「其の物凄さを、適當な刺戟を持つ興奮劑として、味はふやうな氣分になつて居る」という具合だ。
また、照子に向かって「神経が衰弱すると、却つて或る方面には鋭敏に働くから、普通の人間の判らない事まで感じるんだよ」と言う台詞には、病的神経が彼自身の中で特性として自覚されていることが示されている。「異端者の哀しみ」(『中央公論』大正6年6月)では、間室章三郎が自分のことを「病的な神経を持つ人間」「自分はたしかに気違いであると信ぜざるを得なかつた」「自分の心には確かに犯罪者の素質があつて」などと表現しながらも、むしろその素質ゆえに「芸術上の天才がある」とする。そして、「Masochistの章三郎は、何でも彼の要求を聴いてくれる一人の娼婦を見つけ出し」、「激しい恐怖と激しい歡樂」に囚われた末、「甘美にして芳烈なる芸術」を生み出すのである。
異常性を芸術的特性とする例は珍しくないが、佐伯の場合は、とくに芸術家を志しているわけではなく、恐怖から逃れたい心理と恐怖から離れられない心理が拮抗しており、神経の混乱をうかがわせる。手巾をなめるという一線を越えた快楽も、しょせん一時的な効能を示す劇薬にすぎない。佐伯は自分の中に拡がる神経の混乱を食い止める手段が、肉体を削り痛めつける快楽と苦痛によってしか得られず、完全に止めるには死をもって終わらせるほかないことを自覚している。彼が鈴木に向かって自分を殺すように言うのは、単なる挑発である以上に、恐怖をもたらす死に接近するための自殺行為である。殺されたい、でも殺されたくない、その境界のところで恐怖に挑むのだ。もし鈴木が刃物を捨て、おとなしく立ち去ったら、佐伯は恐怖に克つことで、より大きな恐怖を求めるようになったかもしれない。
劇の一つのパターンとしては、殺せるものなら殺してみろと言われた側が結局殺せずに立ち去るところだが、この小説は倫理を介在させず、わかりました、では殺しましょう、という具合に死に向かって踏み込む。佐伯が殺されるか殺されないかという場面で、「新派の俳優が見えをするやうに、胸を突き出し、両手を背後に組んで空を仰いだ」という一文を添えたのは、新派への皮肉だろう。
「続悪魔」以前に、谷崎が主人公の死によって結末をつける例は、自決で終わる「信西」(『スバル』明治44年1月)や強い快楽による突然死で終わる「ひょう風(ひょうの字は風+三つの犬)」(『三田文学』明治44年10月)にもみられる。しかし、「秘密」(『中央公論』明治44年11月)の最後に、「私の心はだんだん『秘密』などと云ふ手ぬるい淡い快感に満足しなくなつて、もツと色彩の濃い、血だらけな歡樂を求めるやうに傾いて行つた」と書いた後の境地は、随分陰惨である。かつて永井荷風が「谷崎潤一郎氏の作品」(『三田文学』明治44年11月)で谷崎文学の特徴の一つに挙げた「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」の薄膜を突き破り、徹底して凄絶な悪夢、妄想を書き連ねることで、恐怖の実感をむき出しにしている感すらある。その結末としてふさわしいのは、主人公の無残な死以外にない。かくして惨劇の中に主人公の命を散らせた作家は、これ以降しばしば鮮烈なる死のイメージを創出して、作品に取り込むことになるのである。
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谷崎潤一郎 「悪魔」と「続悪魔」について
谷崎潤一郎(書籍)
それを知った自称許婚の鈴木は、謝罪状を書くこと、林家から出て行くことを佐伯に要求する。佐伯は鈴木と何の約束もしていないし、第一、林家の母娘は鈴木を嫌っている。照子には鈴木と結婚する気などない。鈴木が彼女と関係を持ったという話も疑わしい。何より、照子の亡父は「将来立派な者にさへなれば」という条件をつけたのに、鈴木は照子に執着するあまり、そのことを忘れている。このようにねちねちして、やたらと証文を書かせたがる病的かつ陰険な男は、おそらく『卍』(改造社、昭和6年)の綿貫の人物造型に繋がっているのだろう。綿貫は美男で不能者だが、両者は気質的に似ている。
ある日、鈴木が家を出たきり帰ってこなくなる。その鈴木から林家に脅迫状が届く。「若し飽く迄も予に反抗するならば、それだけの用心が肝要なり」ーー叔母は気味悪がり、佐伯に出て行ってもらった方がいいのではないかと言い出すが、照子は受け付けない。
柱時計が夜八時を告げる。どうやら便所の壁の向こう側に誰かいるらしい。叔母は佐伯に交番に行ってほしいと頼むが、佐伯は「よく檢(しら)べて見ませう」と言って照子と外に出る。このあたりの展開はホラーさながらだ。案の定、そこには鈴木がいる。照子が奥へ引っ込むと、佐伯は「口惜しければ、僕を殺したらいいだらう」と鈴木を挑発する。鈴木はにやにや笑って刃物を懐から取り出すが、すぐに外套のかげに隠す。佐伯はひるむことなく挑発を続け、相手の胸倉を掴んで追い出そうとした刹那、喉笛をえぐられる。
佐伯は死の想念に苛まれ、恐怖におびえ、神経衰弱に陥っている。彼は照子や鈴木のことを「悪魔」ないし「魔者」とみなすが、まず彼自身の病が悪魔である。講釈本に出てくるお百もお傳も悪魔。要するに悪魔だらけだ。赤門前を通る若い学生ですら、「獣のやうな丈夫さうな骨格」と表現される。そもそも、これは汽車という「怪物」によって主人公が東京に運ばれてくる場面から始まる物語ではないか。
とはいえ佐伯はただの神経衰弱者ではない。恐怖のイメージにひたすら恐怖して苦しむこともあれば、恐怖をいわばマゾ的歓楽、刺激として迎え入れ、そこから生の実感を得ることもある。ねちねちして不気味な鈴木に「私には十分な覺悟があつて、已むを得なければ最後の手段を取る決心です」と言われたときでも、「其の物凄さを、適當な刺戟を持つ興奮劑として、味はふやうな氣分になつて居る」という具合だ。
また、照子に向かって「神経が衰弱すると、却つて或る方面には鋭敏に働くから、普通の人間の判らない事まで感じるんだよ」と言う台詞には、病的神経が彼自身の中で特性として自覚されていることが示されている。「異端者の哀しみ」(『中央公論』大正6年6月)では、間室章三郎が自分のことを「病的な神経を持つ人間」「自分はたしかに気違いであると信ぜざるを得なかつた」「自分の心には確かに犯罪者の素質があつて」などと表現しながらも、むしろその素質ゆえに「芸術上の天才がある」とする。そして、「Masochistの章三郎は、何でも彼の要求を聴いてくれる一人の娼婦を見つけ出し」、「激しい恐怖と激しい歡樂」に囚われた末、「甘美にして芳烈なる芸術」を生み出すのである。
異常性を芸術的特性とする例は珍しくないが、佐伯の場合は、とくに芸術家を志しているわけではなく、恐怖から逃れたい心理と恐怖から離れられない心理が拮抗しており、神経の混乱をうかがわせる。手巾をなめるという一線を越えた快楽も、しょせん一時的な効能を示す劇薬にすぎない。佐伯は自分の中に拡がる神経の混乱を食い止める手段が、肉体を削り痛めつける快楽と苦痛によってしか得られず、完全に止めるには死をもって終わらせるほかないことを自覚している。彼が鈴木に向かって自分を殺すように言うのは、単なる挑発である以上に、恐怖をもたらす死に接近するための自殺行為である。殺されたい、でも殺されたくない、その境界のところで恐怖に挑むのだ。もし鈴木が刃物を捨て、おとなしく立ち去ったら、佐伯は恐怖に克つことで、より大きな恐怖を求めるようになったかもしれない。
劇の一つのパターンとしては、殺せるものなら殺してみろと言われた側が結局殺せずに立ち去るところだが、この小説は倫理を介在させず、わかりました、では殺しましょう、という具合に死に向かって踏み込む。佐伯が殺されるか殺されないかという場面で、「新派の俳優が見えをするやうに、胸を突き出し、両手を背後に組んで空を仰いだ」という一文を添えたのは、新派への皮肉だろう。
「続悪魔」以前に、谷崎が主人公の死によって結末をつける例は、自決で終わる「信西」(『スバル』明治44年1月)や強い快楽による突然死で終わる「ひょう風(ひょうの字は風+三つの犬)」(『三田文学』明治44年10月)にもみられる。しかし、「秘密」(『中央公論』明治44年11月)の最後に、「私の心はだんだん『秘密』などと云ふ手ぬるい淡い快感に満足しなくなつて、もツと色彩の濃い、血だらけな歡樂を求めるやうに傾いて行つた」と書いた後の境地は、随分陰惨である。かつて永井荷風が「谷崎潤一郎氏の作品」(『三田文学』明治44年11月)で谷崎文学の特徴の一つに挙げた「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」の薄膜を突き破り、徹底して凄絶な悪夢、妄想を書き連ねることで、恐怖の実感をむき出しにしている感すらある。その結末としてふさわしいのは、主人公の無残な死以外にない。かくして惨劇の中に主人公の命を散らせた作家は、これ以降しばしば鮮烈なる死のイメージを創出して、作品に取り込むことになるのである。
(阿部十三)
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