寄せ書きの言葉
2016.10.29
今月会社を辞めた。私が担当していたフリーペーパーでは、ハロー!プロジェクトの連載やKEYTALKの連載のページを作ったり、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で巻頭記事を組んだりと、個人的にやりたかったこともいくつかできた。急遽企画したハロプロの新しい連載を最後まで見届けられないのは心残りだが、自分がしてきた仕事そのものには何の悔いもない。
いろいろあって転職を決めた後、大学卒業時にいただいた寄せ書きの言葉を思い出した。寄せ書きは押し入れの中にあり、10年以上取り出していないが、何か新しいことをするとき、その文章はいつも私の脳裏をよぎる。
「生の中心から遠ざかれば遠ざかるほどその動きが無駄に大きくなる」
生の中心とは何か。世間でしばしばもてはやされる「ぶれない人」のような状態を指すのか。もっと別のことを言うのか。あるいは、元々そんなものは存在しないのか。
私の場合だと、回転する車輪の外側から内側へ向かって中心に達する感覚を覚えることはある。例えば、好きな音楽を聴くときは心身共に「動きが無駄に大きくなる」ことはない。魅力的な書籍や映画に接するときも同じである。(これはポリシーというよりも趣味なのだが)流行に左右されることはない。
こういうのは「生の中心」と言っていいのだろうか。おそらく私の人生ではそう言っていいはずだし、今週から勤めはじめた職場でもそこを見失うことはないと思う。
ちなみに、寄せ書きの言葉の出典は、堀辰雄の「刺青した蝶」である。色紙に書いてくださったのは、志賀直哉、堀辰雄などの研究で知られる池内輝雄先生。在学中、本当にお世話になった恩師である。ここでは堀辰雄が言うところの「生の中心」について、恩師の手をお借りしながら、もう少し考えてみたい。
寄せ書きの言葉は「刺青した蝶」の最後に出てくる。
「僕たち以外のすべてのものは何とはげしく動き、變化してゐることか? が、それと同時に僕の頭の中には、一つの言葉が『廻轉する車輪の中心に運動それ自身は眠つてゐるのである。』といふ言葉が浮んできたのである。そしてそれが生の中心から遠ざかれば遠ざかるほどその動きが無駄に大きくなるのではないかとそんな風に僕に考へさせたのであつた」
昭和4年に発表された「刺青した蝶」は、軽井沢を舞台に、交流はないが何かと気になる奔放な子爵令嬢と、進展しない恋の対象である女性と、自分の心像のことを書いた短編だ。話の内容は同時期に書かれた『ルウベンスの偽画』に似ている。この点について、池内先生は「『ルウベンスの偽画』初稿において書かれていたであろう原後半部ともいうべきものから、主語だけ変えてひき移された」のが「刺青した蝶」ではないかとの見解を示されている。
先生によると、先の引用部に集約される短編の主題は、「『蝶のやうなお嬢さん』に象徴される時代の軽佻浮薄な享楽的な風潮に対する批判」であり、さらにそこから広げて、「次から次へと左傾した『驢馬』の仲間を含めた多くの知識人、文学者に対する彼独特の批評でもあったのではないか」という。とすると、「生の中心」は自分の周囲に動きがあることによって、克明に自覚されるものなのか。
「堀辰雄は彼をとりまく『すべてのもの』が『はげしく動き、變化してゐること』に対して、それらは『生の中心から遠ざか』った『無駄』な『動き』と考え、そのような運動の中に身を投げかけることのできない自身を、『生の中心』に最も近い確かな存在として確認することによって自己の生と文学をつづけることが可能だったのではなかろうか」
「生の中心」を特定の場所に見立てる人もいるだろう。その場所は実家や会社かもしれないし、寺社や劇場かもしれない。定年まで一つの会社で過ごした人が「会社が生の中心だった」と胸を張って言い切るなら、それはそれで他人が異を唱える筋合いのものでもない。
とはいえ、場所や空間(SNSの空間も含む)への関わり方を誤ると、自分でもブレーキをかけられぬまま隷属状態になることがある。そして苦痛、恐怖からなぜか逃れられなくなる。この状態が続くと生きることに疲弊する。それは「生の中心」ではなく落とし穴だ。心身を駄目にするこの種の心理的な落とし穴は避けなければならない。
【引用文献】
堀辰雄『堀辰雄全集 第2巻 聖家族』(角川書店 1964年2月)
池内輝雄「堀辰雄『ルウベンスの偽画』と『聖家族』」(『東京教育大学文学部紀要 國文學漢文學論叢 第十六輯』 1971年3月)
いろいろあって転職を決めた後、大学卒業時にいただいた寄せ書きの言葉を思い出した。寄せ書きは押し入れの中にあり、10年以上取り出していないが、何か新しいことをするとき、その文章はいつも私の脳裏をよぎる。
「生の中心から遠ざかれば遠ざかるほどその動きが無駄に大きくなる」
生の中心とは何か。世間でしばしばもてはやされる「ぶれない人」のような状態を指すのか。もっと別のことを言うのか。あるいは、元々そんなものは存在しないのか。
私の場合だと、回転する車輪の外側から内側へ向かって中心に達する感覚を覚えることはある。例えば、好きな音楽を聴くときは心身共に「動きが無駄に大きくなる」ことはない。魅力的な書籍や映画に接するときも同じである。(これはポリシーというよりも趣味なのだが)流行に左右されることはない。
こういうのは「生の中心」と言っていいのだろうか。おそらく私の人生ではそう言っていいはずだし、今週から勤めはじめた職場でもそこを見失うことはないと思う。
ちなみに、寄せ書きの言葉の出典は、堀辰雄の「刺青した蝶」である。色紙に書いてくださったのは、志賀直哉、堀辰雄などの研究で知られる池内輝雄先生。在学中、本当にお世話になった恩師である。ここでは堀辰雄が言うところの「生の中心」について、恩師の手をお借りしながら、もう少し考えてみたい。
寄せ書きの言葉は「刺青した蝶」の最後に出てくる。
「僕たち以外のすべてのものは何とはげしく動き、變化してゐることか? が、それと同時に僕の頭の中には、一つの言葉が『廻轉する車輪の中心に運動それ自身は眠つてゐるのである。』といふ言葉が浮んできたのである。そしてそれが生の中心から遠ざかれば遠ざかるほどその動きが無駄に大きくなるのではないかとそんな風に僕に考へさせたのであつた」
(堀辰雄「刺青した蝶」)
昭和4年に発表された「刺青した蝶」は、軽井沢を舞台に、交流はないが何かと気になる奔放な子爵令嬢と、進展しない恋の対象である女性と、自分の心像のことを書いた短編だ。話の内容は同時期に書かれた『ルウベンスの偽画』に似ている。この点について、池内先生は「『ルウベンスの偽画』初稿において書かれていたであろう原後半部ともいうべきものから、主語だけ変えてひき移された」のが「刺青した蝶」ではないかとの見解を示されている。
先生によると、先の引用部に集約される短編の主題は、「『蝶のやうなお嬢さん』に象徴される時代の軽佻浮薄な享楽的な風潮に対する批判」であり、さらにそこから広げて、「次から次へと左傾した『驢馬』の仲間を含めた多くの知識人、文学者に対する彼独特の批評でもあったのではないか」という。とすると、「生の中心」は自分の周囲に動きがあることによって、克明に自覚されるものなのか。
「堀辰雄は彼をとりまく『すべてのもの』が『はげしく動き、變化してゐること』に対して、それらは『生の中心から遠ざか』った『無駄』な『動き』と考え、そのような運動の中に身を投げかけることのできない自身を、『生の中心』に最も近い確かな存在として確認することによって自己の生と文学をつづけることが可能だったのではなかろうか」
(池内輝雄「堀辰雄『ルウベンスの偽画』と『聖家族』」)
「生の中心」を特定の場所に見立てる人もいるだろう。その場所は実家や会社かもしれないし、寺社や劇場かもしれない。定年まで一つの会社で過ごした人が「会社が生の中心だった」と胸を張って言い切るなら、それはそれで他人が異を唱える筋合いのものでもない。
とはいえ、場所や空間(SNSの空間も含む)への関わり方を誤ると、自分でもブレーキをかけられぬまま隷属状態になることがある。そして苦痛、恐怖からなぜか逃れられなくなる。この状態が続くと生きることに疲弊する。それは「生の中心」ではなく落とし穴だ。心身を駄目にするこの種の心理的な落とし穴は避けなければならない。
(阿部十三)
【引用文献】
堀辰雄『堀辰雄全集 第2巻 聖家族』(角川書店 1964年2月)
池内輝雄「堀辰雄『ルウベンスの偽画』と『聖家族』」(『東京教育大学文学部紀要 國文學漢文學論叢 第十六輯』 1971年3月)
月別インデックス
- November 2024 [1]
- October 2024 [1]
- September 2024 [1]
- March 2024 [1]
- February 2024 [1]
- November 2023 [1]
- August 2023 [7]
- March 2023 [1]
- February 2023 [1]
- December 2022 [1]
- October 2022 [1]
- August 2022 [1]
- May 2022 [1]
- February 2022 [1]
- December 2021 [1]
- September 2021 [2]
- August 2021 [1]
- July 2021 [1]
- May 2021 [1]
- March 2021 [1]
- January 2021 [1]
- December 2020 [1]
- October 2020 [1]
- August 2020 [1]
- June 2020 [1]
- May 2020 [2]
- March 2020 [1]
- February 2020 [1]
- January 2020 [1]
- December 2019 [1]
- November 2019 [2]
- October 2019 [1]
- September 2019 [1]
- August 2019 [1]
- July 2019 [1]
- June 2019 [1]
- May 2019 [1]
- March 2019 [1]
- January 2019 [1]
- December 2018 [1]
- November 2018 [1]
- October 2018 [1]
- September 2018 [1]
- July 2018 [1]
- June 2018 [2]
- May 2018 [1]
- February 2018 [1]
- December 2017 [2]
- October 2017 [1]
- September 2017 [1]
- August 2017 [1]
- July 2017 [3]
- June 2017 [1]
- May 2017 [1]
- April 2017 [1]
- February 2017 [1]
- January 2017 [1]
- December 2016 [2]
- October 2016 [1]
- September 2016 [1]
- August 2016 [1]
- July 2016 [1]
- June 2016 [2]
- April 2016 [2]
- March 2016 [1]
- January 2016 [1]
- December 2015 [2]
- November 2015 [1]
- October 2015 [1]
- September 2015 [2]
- August 2015 [1]
- July 2015 [1]
- June 2015 [1]
- May 2015 [2]
- April 2015 [1]
- March 2015 [1]
- February 2015 [1]
- January 2015 [1]
- December 2014 [1]
- November 2014 [2]
- October 2014 [1]
- September 2014 [2]
- August 2014 [1]
- July 2014 [1]
- June 2014 [2]
- May 2014 [2]
- April 2014 [1]
- March 2014 [1]
- February 2014 [1]
- January 2014 [3]
- December 2013 [3]
- November 2013 [2]
- October 2013 [1]
- September 2013 [2]
- August 2013 [1]
- July 2013 [2]
- June 2013 [2]
- May 2013 [2]
- April 2013 [3]
- March 2013 [2]
- February 2013 [2]
- January 2013 [1]
- December 2012 [3]
- November 2012 [2]
- October 2012 [3]
- September 2012 [3]
- August 2012 [3]
- July 2012 [3]
- June 2012 [3]
- May 2012 [2]
- April 2012 [3]
- March 2012 [2]
- February 2012 [3]
- January 2012 [4]
- December 2011 [5]
- November 2011 [4]
- October 2011 [5]
- September 2011 [4]
- August 2011 [4]
- July 2011 [5]
- June 2011 [4]
- May 2011 [4]
- April 2011 [5]
- March 2011 [4]
- February 2011 [5]