木下長嘯子 型にはまらない歌と人生
2016.12.03
木下勝俊は木下家定の子で、小早川秀秋は異母弟にあたる。家定の妹は、豊臣秀吉の正室である北政所。勝俊は当然のように秀吉に仕え、二十代半ばで若狭小浜の城主になった。秀吉に「花歌五十首」と言われたときは一晩で詠み上げるほどの才気をみせたが、歌才には恵まれていても、武将として高い志を抱いていた節はない。秀吉の没後、天下分け目の戦いが近づく中、勝俊は伏見城の留守として松の丸にありながら、東軍にも西軍にも与し得ず、伏見城を放棄して武士の面目を失った。
放棄した理由は定かでない。周囲の政治的な思惑もあったのだろう。伏見城を去った勝俊は、若狭小浜ではなく、北政所の守護に向かった。「実状をいえば、勝俊のほうが叔母の廡下に駆けこんで当座の難を避けたありさまになる」(石川淳『長嘯子雑記』)。その後、所領を没収されたことは言うまでもない。妻にも愛想を尽かされて離縁され、北政所の計らいで東山に挙白堂を営み、隠棲した。長嘯子の誕生である。
長嘯子は細川幽斎に歌を学んだ人だが、その歌文集『挙白集』は「自在、華麗な歌風を誇り、同時代の細川幽斎と好対照」(塚本邦雄『珠玉百歌仙』)とされる。実際のところ、長嘯子の歌は形式にとらわれない革新性を持ち、中には凝りすぎたものもあるが、時に俳句にも通じるような着眼点やイメージの膨らませ方で我々を魅了する。
里は荒れて燕ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月かげ
また、隠者として過ごしながら、隠者であることを誇るような歌もある。
山里に住まぬかぎりは住む人の何事といひし何事ぞこれ
あはれ知るわが身ならねど山里に住めば心のありげなるかな
「心のありげなるかな」は通俗の己と超俗の己のどちらも意識した素直な真情である。名誉を失って山で暮らす隠者といっても、長嘯子の場合、人との交流を断ったわけではなく、再婚しているし、風雅を解する人たちとも交流している。その中には、林羅山、小堀遠州、春日局もいた。ほかの人にはない目のつけどころを持つ長嘯子の歌は、そういった生活を通じて培われたものであり、どこか柔軟性がある。型にとらわれないのは、その生き方だけではない。歌も同様だ。そこが面白いところでもある。
はかなくて哀れことしもかきくれて雪さへ身さへなみださへふる
「はかなくて」と「かきくれて」の「て」で終わるところ、そして、雪と身と涙を「さへ」で繋いだところが聞き苦しいとされた歌だが、今日誰もそのことで責める人はいないだろう。はかない有様で、ああ、今年も暗い気持ちで暮れを迎えて、雪が降り、自分の身も古くなり、涙までも降るように流れる、と嘆く心のほとばしりがそのまま歌われている。
玉くしげあけぬくれぬといたづらにふたたびも来ぬ世をすぐすかな
もう二度と来ないこの現世を、夜が明けた日が暮れた、と言って何もしないで過ごす隠者の哀しみは澱みなく流れ去るようなものではない。その葛藤が「ふたたびも来ぬ世をすぐすかな」に出ていて、強い印象を残す。これも形式にこだわっていると歌えない歌だろう。
長嘯子の影響圏は決して狭くない。あの芭蕉も『挙白集』にふれていた。「長嘯の墓もめぐるか鉢叩き」の句もある。これは長嘯子の歌を受けて詠まれたものだ。
鉢叩き暁がたの一声は冬の夜さへも鳴くほととぎす
鉢叩きとは、念仏を唱えながら都を勧進して回る風物詩で、明け方に発するその一声がまるで冬の夜に鳴くほととぎすのようだと歌うのである。
一方で、超俗的というか、宇宙的なものを感じさせる、スケールの大きな歌もある。
誰か知るはじめもはても吹きむすぶ月と風との秋の契りを
月と風が秋と契りをかわし、宇宙の中で吹き結ばれる、その霊妙なる自然の神秘は誰にも掴み得ない。長嘯子について、キリシタンだったと紹介する資料もあるが、禁教令の時代でもあり、真相は定かでない。ただ、何かしら知識は持っていたのだろう。このような歌にふれると、神秘に近付くような心持ちがする。
ところで、木下勝俊は家定の子だと冒頭に書いたが、明智光秀と通じていた武田元明を父、京極竜子(後の秀吉の側室・松の丸殿)を母とする文献もある。この説に沿うと、京極竜子の母は京極マリアなので、キリシタンともつながる。ただ、北政所が松の丸殿の子のいわば最大の保護者であったというのは、いささか首肯し難い。真相は闇の中だ。
吉田幸一編『長嘯子全集』(古典文庫)を繰っていると、中には娘を亡くしたときの重い歌もあるが、対語的な表現を使ってリズムを出した歌や、洒落や滑稽味のある俳諧歌が多いことに気付かされる。当人もそれを十分自覚していたのだろう。その洒落の精神は、東山から小塩山に移った晩年まで失われなかった。
今年わが齢の数を人問はば老いて醜くなると答へん
「みにくく」の「くく」で「八十一歳」と伝えるやり方である。次に挙げる辞世の歌にも長嘯子の持ち味が出ている。
露の身の消えても消えぬ置き所草葉のほかに又もありけり
現世においてこの身が草葉の露と消えようとも、消えない身の置き所はまたほかにある。以前、長嘯子は「露ながら草葉の上は風に消えて涙にすがる袖の月かな」と歌ったが、いささか芝居がかっている。「露」「草葉」「消えて」と共通する言葉を織り込みながらも、辞世の歌の方には女々しさはない。「消えても消えぬ」は霊魂の主張である。
長嘯子が現世の栄誉に興味を持たなかったとは言えない。ただし、彼はそれを武将としてではなく、文人として求めた。文弱と冷笑されようと、そう生まれついていたのだから仕方ない。戦乱の世にあって、若狭少将は己の資性の何たるかを知り、それに忠実な生き方をすることを選んだ。そして、隠遁生活を始めてからは、どの歌道に従うでもなく、自ら一派を作るでもなく、独自のやり方で作歌し、歌の表現を開拓した。単なる文弱の成り行きまかせでは、ここまでは到達しない。まず溢れる才能と強い意志がなければ続かないことである。
【関連サイト】
木下長嘯子とその世界
放棄した理由は定かでない。周囲の政治的な思惑もあったのだろう。伏見城を去った勝俊は、若狭小浜ではなく、北政所の守護に向かった。「実状をいえば、勝俊のほうが叔母の廡下に駆けこんで当座の難を避けたありさまになる」(石川淳『長嘯子雑記』)。その後、所領を没収されたことは言うまでもない。妻にも愛想を尽かされて離縁され、北政所の計らいで東山に挙白堂を営み、隠棲した。長嘯子の誕生である。
長嘯子は細川幽斎に歌を学んだ人だが、その歌文集『挙白集』は「自在、華麗な歌風を誇り、同時代の細川幽斎と好対照」(塚本邦雄『珠玉百歌仙』)とされる。実際のところ、長嘯子の歌は形式にとらわれない革新性を持ち、中には凝りすぎたものもあるが、時に俳句にも通じるような着眼点やイメージの膨らませ方で我々を魅了する。
里は荒れて燕ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月かげ
また、隠者として過ごしながら、隠者であることを誇るような歌もある。
山里に住まぬかぎりは住む人の何事といひし何事ぞこれ
あはれ知るわが身ならねど山里に住めば心のありげなるかな
「心のありげなるかな」は通俗の己と超俗の己のどちらも意識した素直な真情である。名誉を失って山で暮らす隠者といっても、長嘯子の場合、人との交流を断ったわけではなく、再婚しているし、風雅を解する人たちとも交流している。その中には、林羅山、小堀遠州、春日局もいた。ほかの人にはない目のつけどころを持つ長嘯子の歌は、そういった生活を通じて培われたものであり、どこか柔軟性がある。型にとらわれないのは、その生き方だけではない。歌も同様だ。そこが面白いところでもある。
はかなくて哀れことしもかきくれて雪さへ身さへなみださへふる
「はかなくて」と「かきくれて」の「て」で終わるところ、そして、雪と身と涙を「さへ」で繋いだところが聞き苦しいとされた歌だが、今日誰もそのことで責める人はいないだろう。はかない有様で、ああ、今年も暗い気持ちで暮れを迎えて、雪が降り、自分の身も古くなり、涙までも降るように流れる、と嘆く心のほとばしりがそのまま歌われている。
玉くしげあけぬくれぬといたづらにふたたびも来ぬ世をすぐすかな
もう二度と来ないこの現世を、夜が明けた日が暮れた、と言って何もしないで過ごす隠者の哀しみは澱みなく流れ去るようなものではない。その葛藤が「ふたたびも来ぬ世をすぐすかな」に出ていて、強い印象を残す。これも形式にこだわっていると歌えない歌だろう。
長嘯子の影響圏は決して狭くない。あの芭蕉も『挙白集』にふれていた。「長嘯の墓もめぐるか鉢叩き」の句もある。これは長嘯子の歌を受けて詠まれたものだ。
鉢叩き暁がたの一声は冬の夜さへも鳴くほととぎす
鉢叩きとは、念仏を唱えながら都を勧進して回る風物詩で、明け方に発するその一声がまるで冬の夜に鳴くほととぎすのようだと歌うのである。
一方で、超俗的というか、宇宙的なものを感じさせる、スケールの大きな歌もある。
誰か知るはじめもはても吹きむすぶ月と風との秋の契りを
月と風が秋と契りをかわし、宇宙の中で吹き結ばれる、その霊妙なる自然の神秘は誰にも掴み得ない。長嘯子について、キリシタンだったと紹介する資料もあるが、禁教令の時代でもあり、真相は定かでない。ただ、何かしら知識は持っていたのだろう。このような歌にふれると、神秘に近付くような心持ちがする。
ところで、木下勝俊は家定の子だと冒頭に書いたが、明智光秀と通じていた武田元明を父、京極竜子(後の秀吉の側室・松の丸殿)を母とする文献もある。この説に沿うと、京極竜子の母は京極マリアなので、キリシタンともつながる。ただ、北政所が松の丸殿の子のいわば最大の保護者であったというのは、いささか首肯し難い。真相は闇の中だ。
吉田幸一編『長嘯子全集』(古典文庫)を繰っていると、中には娘を亡くしたときの重い歌もあるが、対語的な表現を使ってリズムを出した歌や、洒落や滑稽味のある俳諧歌が多いことに気付かされる。当人もそれを十分自覚していたのだろう。その洒落の精神は、東山から小塩山に移った晩年まで失われなかった。
今年わが齢の数を人問はば老いて醜くなると答へん
「みにくく」の「くく」で「八十一歳」と伝えるやり方である。次に挙げる辞世の歌にも長嘯子の持ち味が出ている。
露の身の消えても消えぬ置き所草葉のほかに又もありけり
現世においてこの身が草葉の露と消えようとも、消えない身の置き所はまたほかにある。以前、長嘯子は「露ながら草葉の上は風に消えて涙にすがる袖の月かな」と歌ったが、いささか芝居がかっている。「露」「草葉」「消えて」と共通する言葉を織り込みながらも、辞世の歌の方には女々しさはない。「消えても消えぬ」は霊魂の主張である。
長嘯子が現世の栄誉に興味を持たなかったとは言えない。ただし、彼はそれを武将としてではなく、文人として求めた。文弱と冷笑されようと、そう生まれついていたのだから仕方ない。戦乱の世にあって、若狭少将は己の資性の何たるかを知り、それに忠実な生き方をすることを選んだ。そして、隠遁生活を始めてからは、どの歌道に従うでもなく、自ら一派を作るでもなく、独自のやり方で作歌し、歌の表現を開拓した。単なる文弱の成り行きまかせでは、ここまでは到達しない。まず溢れる才能と強い意志がなければ続かないことである。
(阿部十三)
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