岩野泡鳴 においの文学
2017.02.25
苦悶その物が生命である。これは岩野泡鳴が1906年に発表した評論『神秘的半獣主義』の中に出てくる言葉だ。泡鳴に言わせると、苦悶とは解決できるものではなく、これを解決しようとするのは、悲劇を喜劇に堕落させることであり、「無終無決の苦悶を活現してこそ、初めて真の悲劇」となるのだった。
泡鳴はその主義を血肉とする小説を書いた。悲劇といっても、彼のそれはお涙頂戴ものとはかけ離れている。「長篇を通じて、感傷的の文字は殆どないと云つていい。優美なところなんか、薬にしたくもない。小説好きの婦女子に好まれる気遣ひは全くないのである」という正宗白鳥の評は決して誇張ではない。
半獣主義は、「死に対して生を、形式に対して内容を、虚無の高尚に対して実質の努力を、偽りの文明に対して現実の蛮性を、神に対して人間の実力を」(『近代思想と実生活』)という思いから生まれたものである。しかし、派手な女性関係を何度も記事にされた影響で、いつしか冷やかし気味に口にされるようになった。この辺の事情は、高山樗牛の「美的生活」に対する曲解を思い出させる。
性に対して果敢な泡鳴は、少なくとも嘘つきではなかった。「ああ、金が欲しい! 女が恋しい! 大事業がしたい! いい句を得たい!」(『発展』)と書かれたら、多くの人は苦笑するかもしれないが、結局これがいつの時代も変わらぬ本音というものだ。ただ、あけすけにするか、こそこそ隠すかの違いがあるにすぎない。
出世作『耽溺』や五部作『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』『断橋』『憑き物』(物語の進行順)において、泡鳴は己の思想の多くを注ぎ込んだ田村義雄という人物をピカレスクのアンチヒーローのように躍動させ、その心理と行動の遍歴を事細かに描いた。語り口にはしみったれたところがない。身も蓋もなく言ってしまえば、世間から白目で見られる類の不倫と事業の失敗談なのに、立身出世の話でもしているかのように堂々としている。それでいて、恋愛・愛欲をめぐる心理表現は驚くほど繊細だ。東京でお鳥を口説いて愛人にするまでの駆け引きの経緯、北海道で娼妓の敷島と深い仲になり別れるまでの経緯などは、会話のやりとりの生々しさもあって、読み応えがある。
主人公の心理に影響を及ぼすものとして見落とせないのが、においである。五部作の序章にあたる『耽溺』では、においに惹かれることが、生への目覚めにつながる。この点については、もっと真剣に論じられてよいはずだ。
「古寺の墓場の様に荒廃した胸の中のにほひ」「死んだものらの腐つた肉のにほひ」「死人のにほひ」「妻のもとの若肌のにほひ」「なまぬるい薬のにほひ」など、さまざまなにおいが横溢する中、田村義雄はある声を聞く。
「どこか高いところから、『自分が耽溺してゐるからだ』と、呼号するものがある様だ。またどこか深いところから『耽溺が生命だ』と、呻吟する声がある」
かつてキリスト教を捨てた田村は、「高いところ」と「深いところ」から異質な天啓を得る。それは福音ではない。現実につきまとう鼻をつくほどのにおいであり、頭に充満した妄想的な臭気である。においこそ信ずるに足るものとみなした彼は、「耽溺のにほひ」にはっきりと目覚める。そして「掃き溜めをあさる痩せ犬」のように「耽溺の目的物」を追い、「失敗、疲労、痛恨ーー僕一生の努力も、心になぐさめを得ないから、古寺の無縁塚をあばく様であらう。ただその朽ちて行くにほひが生命だ」という半獣的境地に到達する。ここで、「耽溺」と「朽ちて行くにほひ」は「生命」を示す完全なる同義語となり、「苦悶その物が生命である」とも繋がる。
田村の鼻は病気のために右の方しか役に立っていないのだが、不自由であればこそ、強いにおい乃至においの概念に人一倍刺激される。
五部作に入っても、その習性が変わることはない。金物のにおいは田村に過去を思い出させ、アルボースに打ち消された便所のにおいは現在の自分の立場を認識させる。『毒薬を飲む女』では、愛人のお鳥が加集泰助と寝た後、田村は加集に二度とお鳥に会うなと言う。それに対して加集が「あんな臭い女はいやぢや」と言い、田村が冷水を浴びせられた気分になるくだりもある。『放浪』では、「露店の焼きもろこしのにほひ」がドラマティックに作用し、己の神経の鋭敏さを確認させる。
「このにほひが全身を以つて嗅げる限り、自分の神経は、他のもの等の習慣的に鈍り切つたのよりも、また鈍り切らないまでも部分的なのよりも、まだまだ鋭敏に全人的な努力をしてゐるのだと心丈夫に思つた」
しかし、そういったにおいが、『憑き物』になるとさほど大きな意味を持たなくなる。
『憑き物』は五部作の最終章にあたる。ほかの四作と比べると出来が良いとは言えないが、理屈っぽさが増して説明過多になった分、田村の思想、主義主張が色濃く出ている。それは敷島との恋愛が終わり、樺太での缶詰事業が駄目になり、金策がつかなくなった後の実行力の衰えを裏返しにしたものと言えるだろう。東京から北海道にやってきたお鳥との関係も良好と言えず、自己の「発展」は完全に停滞している。
常に女を欲しながら、女に満足できない田村の言い分はこうである。
「これは自分が悪いのではない、女どもが自分の熱中する全人的性格に這入つて来ない浅薄な根性(こんじょ)ツ骨が悪いのだ」
女たちは男の思惑通りに動かない。彼女たちには、田村の全人的云々なんかどうでもいいのである。妻は何度殴られても田村に立ち向かい、皮肉を言い、罵り、修羅場を演じる。『耽溺』の吉弥は田村を騙し、振り回す。五部作のお鳥もほかの男と関係を持ったり、さらに浮気心を出したりしながら、田村を嫉妬の縄で縛る。恋愛らしい恋愛の相手となる娼妓の敷島も、全てをなげうってまで田村に自分の人生を賭けようとは思わない。
缶詰事業の失敗以上に恋愛の失敗に打撃を受けた田村は、『憑き物』で実行力を失い、言うことが理屈っぽくなり、「ただ疲労の為めに疲労をおぼえる様なゆるみが出て来た」ことを感じる。中学校で演説しても空回りし、しまいには「おれは神も同前だ! 宇宙の帝王だ! 否、宇宙その物だ!」と怒号を放ち、笑われる。においが以前ほど意味を持たなくなるのは、この「疲労」と「ゆるみ」のせいだと私は解釈する。しかし、敗残者として北海道を去り、東京に帰った田村は、思いがけない出来事からお鳥と縁を切り、活力を取り戻す。
日本文学とにおいが切っても切れない関係にあることは周知の事実である。古の詩歌を例に挙げるまでもないだろう。それにしても、泡鳴ほど嗅覚に訴える表現を重んじた作家は珍しい。まさかの冷厳な結末を迎える「ぼんち」の定さんが感じる「人臭いあツたか味」や「あまい夢の、赤い色や親しいにほひ」、美人妻を持った夫の嫉妬、怒り、暴力、憐れみ、愛情のスパイラルを描く「法学士の大蔵」の大蔵の「わき香」、微妙な関係にある男と女(青鞜の荒木郁がモデル)の会話が大部分を占める「燃える襦袢」で男心をそそる女の「うつり香」、一人前の花火師になるためには「一遍や二遍は人を殺して見ないでは」という思いに駆られる「犠牲」の歳三が思い出す戦時中の「煙硝のにほひ」など、においによって己の生を確認したり、奮起したり、感情を揺さぶられる例が少なくない。
においは、いわば「獣的奮闘の真面目」(『近代思想と実生活』)を喚起せしめる生の実感だ。とはいえ、泡鳴文学の主人公たちは本能的とは言いがたい。彼らは熱烈な本能を抱く一方、異常なほど冷静でもある。他者を観察する目はシビアであり、心を許さない。生に対しても滑稽なほど真面目だ。その真面目さが、時折厳格さにまで達する。
「刹那主義の実行哲理家」の異名を持つ田村義雄の場合、身勝手で、無鉄砲で、反宗教的ではあるが、肉体から切り離された救いを拒み、他者による解決を寄せ付けないところは、どこか宗教的戒律を思わせるものがある。『発展』にも書かれている通り、彼にはストア学派のように厳格に振る舞う一面があり、甘えは皆無に等しい。思索も、執筆も、玉突き遊びも、徹底しなければ気が済まない。そうした性質が、においに反応する時にも浮き出てくる。だから容易に満足せず、安易な解決を求めず、「獣的奮闘の真面目」に徹する。それがありきたりなデカダンの破滅願望でなく、大真面目で自覚的な人間による自己実現の信念の遍歴として描かれたところに、文学としての普遍的な面白さがある。
[参考文献]
岩野泡鳴『岩野泡鳴全集』(1994年12月〜1997年7月 臨川書店)
正宗白鳥「泡鳴を追憶す」(『人間』1947年2月 鎌倉文庫)
正宗白鳥「岩野泡鳴」(『文藝日本』1954年11月 文藝日本社)
泡鳴はその主義を血肉とする小説を書いた。悲劇といっても、彼のそれはお涙頂戴ものとはかけ離れている。「長篇を通じて、感傷的の文字は殆どないと云つていい。優美なところなんか、薬にしたくもない。小説好きの婦女子に好まれる気遣ひは全くないのである」という正宗白鳥の評は決して誇張ではない。
半獣主義は、「死に対して生を、形式に対して内容を、虚無の高尚に対して実質の努力を、偽りの文明に対して現実の蛮性を、神に対して人間の実力を」(『近代思想と実生活』)という思いから生まれたものである。しかし、派手な女性関係を何度も記事にされた影響で、いつしか冷やかし気味に口にされるようになった。この辺の事情は、高山樗牛の「美的生活」に対する曲解を思い出させる。
性に対して果敢な泡鳴は、少なくとも嘘つきではなかった。「ああ、金が欲しい! 女が恋しい! 大事業がしたい! いい句を得たい!」(『発展』)と書かれたら、多くの人は苦笑するかもしれないが、結局これがいつの時代も変わらぬ本音というものだ。ただ、あけすけにするか、こそこそ隠すかの違いがあるにすぎない。
出世作『耽溺』や五部作『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』『断橋』『憑き物』(物語の進行順)において、泡鳴は己の思想の多くを注ぎ込んだ田村義雄という人物をピカレスクのアンチヒーローのように躍動させ、その心理と行動の遍歴を事細かに描いた。語り口にはしみったれたところがない。身も蓋もなく言ってしまえば、世間から白目で見られる類の不倫と事業の失敗談なのに、立身出世の話でもしているかのように堂々としている。それでいて、恋愛・愛欲をめぐる心理表現は驚くほど繊細だ。東京でお鳥を口説いて愛人にするまでの駆け引きの経緯、北海道で娼妓の敷島と深い仲になり別れるまでの経緯などは、会話のやりとりの生々しさもあって、読み応えがある。
主人公の心理に影響を及ぼすものとして見落とせないのが、においである。五部作の序章にあたる『耽溺』では、においに惹かれることが、生への目覚めにつながる。この点については、もっと真剣に論じられてよいはずだ。
「古寺の墓場の様に荒廃した胸の中のにほひ」「死んだものらの腐つた肉のにほひ」「死人のにほひ」「妻のもとの若肌のにほひ」「なまぬるい薬のにほひ」など、さまざまなにおいが横溢する中、田村義雄はある声を聞く。
「どこか高いところから、『自分が耽溺してゐるからだ』と、呼号するものがある様だ。またどこか深いところから『耽溺が生命だ』と、呻吟する声がある」
(『耽溺』)
かつてキリスト教を捨てた田村は、「高いところ」と「深いところ」から異質な天啓を得る。それは福音ではない。現実につきまとう鼻をつくほどのにおいであり、頭に充満した妄想的な臭気である。においこそ信ずるに足るものとみなした彼は、「耽溺のにほひ」にはっきりと目覚める。そして「掃き溜めをあさる痩せ犬」のように「耽溺の目的物」を追い、「失敗、疲労、痛恨ーー僕一生の努力も、心になぐさめを得ないから、古寺の無縁塚をあばく様であらう。ただその朽ちて行くにほひが生命だ」という半獣的境地に到達する。ここで、「耽溺」と「朽ちて行くにほひ」は「生命」を示す完全なる同義語となり、「苦悶その物が生命である」とも繋がる。
田村の鼻は病気のために右の方しか役に立っていないのだが、不自由であればこそ、強いにおい乃至においの概念に人一倍刺激される。
五部作に入っても、その習性が変わることはない。金物のにおいは田村に過去を思い出させ、アルボースに打ち消された便所のにおいは現在の自分の立場を認識させる。『毒薬を飲む女』では、愛人のお鳥が加集泰助と寝た後、田村は加集に二度とお鳥に会うなと言う。それに対して加集が「あんな臭い女はいやぢや」と言い、田村が冷水を浴びせられた気分になるくだりもある。『放浪』では、「露店の焼きもろこしのにほひ」がドラマティックに作用し、己の神経の鋭敏さを確認させる。
「このにほひが全身を以つて嗅げる限り、自分の神経は、他のもの等の習慣的に鈍り切つたのよりも、また鈍り切らないまでも部分的なのよりも、まだまだ鋭敏に全人的な努力をしてゐるのだと心丈夫に思つた」
(『放浪』)
しかし、そういったにおいが、『憑き物』になるとさほど大きな意味を持たなくなる。
『憑き物』は五部作の最終章にあたる。ほかの四作と比べると出来が良いとは言えないが、理屈っぽさが増して説明過多になった分、田村の思想、主義主張が色濃く出ている。それは敷島との恋愛が終わり、樺太での缶詰事業が駄目になり、金策がつかなくなった後の実行力の衰えを裏返しにしたものと言えるだろう。東京から北海道にやってきたお鳥との関係も良好と言えず、自己の「発展」は完全に停滞している。
常に女を欲しながら、女に満足できない田村の言い分はこうである。
「これは自分が悪いのではない、女どもが自分の熱中する全人的性格に這入つて来ない浅薄な根性(こんじょ)ツ骨が悪いのだ」
(『憑き物』)
女たちは男の思惑通りに動かない。彼女たちには、田村の全人的云々なんかどうでもいいのである。妻は何度殴られても田村に立ち向かい、皮肉を言い、罵り、修羅場を演じる。『耽溺』の吉弥は田村を騙し、振り回す。五部作のお鳥もほかの男と関係を持ったり、さらに浮気心を出したりしながら、田村を嫉妬の縄で縛る。恋愛らしい恋愛の相手となる娼妓の敷島も、全てをなげうってまで田村に自分の人生を賭けようとは思わない。
缶詰事業の失敗以上に恋愛の失敗に打撃を受けた田村は、『憑き物』で実行力を失い、言うことが理屈っぽくなり、「ただ疲労の為めに疲労をおぼえる様なゆるみが出て来た」ことを感じる。中学校で演説しても空回りし、しまいには「おれは神も同前だ! 宇宙の帝王だ! 否、宇宙その物だ!」と怒号を放ち、笑われる。においが以前ほど意味を持たなくなるのは、この「疲労」と「ゆるみ」のせいだと私は解釈する。しかし、敗残者として北海道を去り、東京に帰った田村は、思いがけない出来事からお鳥と縁を切り、活力を取り戻す。
日本文学とにおいが切っても切れない関係にあることは周知の事実である。古の詩歌を例に挙げるまでもないだろう。それにしても、泡鳴ほど嗅覚に訴える表現を重んじた作家は珍しい。まさかの冷厳な結末を迎える「ぼんち」の定さんが感じる「人臭いあツたか味」や「あまい夢の、赤い色や親しいにほひ」、美人妻を持った夫の嫉妬、怒り、暴力、憐れみ、愛情のスパイラルを描く「法学士の大蔵」の大蔵の「わき香」、微妙な関係にある男と女(青鞜の荒木郁がモデル)の会話が大部分を占める「燃える襦袢」で男心をそそる女の「うつり香」、一人前の花火師になるためには「一遍や二遍は人を殺して見ないでは」という思いに駆られる「犠牲」の歳三が思い出す戦時中の「煙硝のにほひ」など、においによって己の生を確認したり、奮起したり、感情を揺さぶられる例が少なくない。
においは、いわば「獣的奮闘の真面目」(『近代思想と実生活』)を喚起せしめる生の実感だ。とはいえ、泡鳴文学の主人公たちは本能的とは言いがたい。彼らは熱烈な本能を抱く一方、異常なほど冷静でもある。他者を観察する目はシビアであり、心を許さない。生に対しても滑稽なほど真面目だ。その真面目さが、時折厳格さにまで達する。
「刹那主義の実行哲理家」の異名を持つ田村義雄の場合、身勝手で、無鉄砲で、反宗教的ではあるが、肉体から切り離された救いを拒み、他者による解決を寄せ付けないところは、どこか宗教的戒律を思わせるものがある。『発展』にも書かれている通り、彼にはストア学派のように厳格に振る舞う一面があり、甘えは皆無に等しい。思索も、執筆も、玉突き遊びも、徹底しなければ気が済まない。そうした性質が、においに反応する時にも浮き出てくる。だから容易に満足せず、安易な解決を求めず、「獣的奮闘の真面目」に徹する。それがありきたりなデカダンの破滅願望でなく、大真面目で自覚的な人間による自己実現の信念の遍歴として描かれたところに、文学としての普遍的な面白さがある。
(阿部十三)
[参考文献]
岩野泡鳴『岩野泡鳴全集』(1994年12月〜1997年7月 臨川書店)
正宗白鳥「泡鳴を追憶す」(『人間』1947年2月 鎌倉文庫)
正宗白鳥「岩野泡鳴」(『文藝日本』1954年11月 文藝日本社)
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