文化 CULTURE

永井荷風 殉教者の気概 [続き]

2017.09.02
 『新帰朝者の日記』では、西洋化の現状について、「日本の学者は西洋と違つて皆貧乏ですから、生活問題と云ふ事が微妙な力で其の辺の処を調和させて行くのです」と妥協的なことを言う者に対し、帰朝者は「いつの世も殉教者の気概がなけりやア駄目です」と突っぱねる。その際、作者は謙遜してこの言葉を「書生の慨嘆」と表現した。たしかに「殉教者の気概」は大げさな表現だが、その後の荷風文学ひいては荷風の文人的立場を語る上で、見逃せないキーワードである。

 荷風は、昭和6年11月に『つゆのあとさき』が発行された後、昭和7年5月に「正宗谷崎両氏の批評に答ふ」を発表し、「わたくしは日和下駄をはいて墓さがしをするやうになつては、最早新しい文学の陣頭に立つ事はできない」と書いた。その上で、自分が芸者を主人公にした花柳小説を執筆したのは、「時世の好み」が芸者から離れてゆくのを感じたからであり、『つゆのあとさき』でカフェの女給を主人公にしたのも、女給の流行が盛りを越えたからだと告白している。流行が去りつつある(と作者が感じた)時点から執筆している、というのだ。次に彼が関心を寄せるのは、玉の井の私娼であり、浅草の踊子がそれに続く。

 このように移ろいゆく文化・風俗・風景・職業人(主に女性)を見送る会葬者、そして筆の力でよみがえらせる再現者としての立場を強化し、意識的に「殉教者の気概」を文学的に昇華させたのは、明治43年の大逆事件後とみられる。大逆事件当時を回顧した『花火』には、ドレフュス事件におけるエミール・ゾラのごとく振る舞えなかったことを恥じ、「以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」という有名な文章がある。この言葉を鵜呑みにはしかねると距離を置く評論家は少なくないが、無視は出来ない。事件後、『暴君』(後に『煙』と改題)が書かれたのもまた事実なのだ。

 この戯曲では、自分の家の恥ずべき秘密を暴こうとしている進歩的な貴族が、年老いた家令からそんなことをしたら切腹をしますと迫られ、計画を断念して芸者との恋愛に逃避する。明治の青年が、日本的な空気にのみ込まれる図である。かくして荷風は、花柳界に材を取った作品集『新橋夜話』、江戸時代を舞台にした『散柳窓夕栄』に筆を染める。『新橋夜話』の「風邪ごこち」で芸者家の二階に住みついている主人公は、『暴君』の主人公のなれの果てである。

 もとより戯作者は風刺者でもある。荷風の中から批判精神が失われたわけではない。『散柳窓夕栄』や『日和下駄』を読んでも、その所在を確認することは出来る。ただし、それは社会改革への提言的なものではなく、葬られるものをせめてそれにふさわしい文章で見送ろうとする美学の養分となったのである。

 時代の流れを強く意識しつつ、東京を知悉する者として、そこに現れては消えて行くはかないものを好んで書く、という文人的態度が荷風の中にあったことは、『日和下駄』の序文からも疑い得ない。

「昨日の淵今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙きこの小著、幸いに後の日のかたり草の種ともなればなれかし」
(『日和下駄』序)

 これは大正4年に単行本化された際、付けられたものである。その2年前に書かれた「第五版すみだ川之序」にも、次のように描かれている。

「せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄幸の詩人がいにしえの名所を弔う最後の中の最後の声たらしめよ」
(「第五版すみだ川之序」)

 磯田光一の言葉を借りるならば、ここには「何ものかの最後の者であろうという意識」が働いている。そして、荷風は最後の語り部としての務めを果たした。実際のところ、玉の井のような私娼窟にしても、『濹東綺譚』がなければここまで世人に認識されることはなかっただろう。荷風は変貌し変転する東京に難癖をつけながらも、東京を離れず、誰よりも巧みに東京を描いたのである。
(阿部十三)


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