梅崎春生について
2017.10.28
人は現在を生きているが、同時に過去にも生きている。その過去が、時折、距離感を失い現在の自分に近寄ってくることがある。何か特別なことが起こって、そういう状態になるのではない。ちょっと目に入った物、会話の中に出てきた言葉などに、記憶や感覚が触発され、過去が存在感を増すのである。
現在交わされている会話と、過去の出来事がすぐ隣り合わせになっている梅崎春生の『狂い凧』のような作品は、今の私には近しいものに思える。昔読んだ時は、そんな風には思っていなかったし、現在と過去を交錯させるのも一種の技巧として読んでいた。しかし、中年になってから読み返すと、実感によって書かれていたことが分かる。
『狂い凧』の場合、餅、造花、ギプスベッド、背中の丸め方、さつま揚げ、ケシの花などが連想や追想の種となる。これらにより、死んだ弟、頼りない父、本家というだけで偉そうにしている伯父との間にあった出来事が、大した脈絡もなく、現在と同等もしくはそれ以上の質量をもってよみがえる。
この小説は語りの形式が入り組んでいて、いちおう「私」の一人称ではあるが、主に書かれているのは友人の「八木栄介」と、戦争中に死んだ双子の弟「八木城介」のことであり、「私」と「八木栄介」の記憶が交錯し、さらに「城介」の戦友「加納」の記憶が絡んでくる。このように書くと難しそうだが、主体が微妙に移り変わってゆくところは、現在と過去の仕切りを取り払った世界観に合っていて、違和感なく読むことができる。
この後に書かれた『幻化』になると、連想や追想が重なるところは相変わらずだが、もう少し虚無的かつ幻想的な雰囲気を帯びている。主な登場人物は、精神病院を抜け出してきた主人公の「五郎」と、飛行機で隣の席になった「丹尾」である。二人は鹿児島に着いて途中まで行動を共にし、熊本で再会して、阿蘇山で生死の賭けをする。文章の上では、阿蘇山火口で自殺するかしないかを選択する「丹尾」を、「五郎」が望遠鏡で見守るという設定になっているのだが、ここに幻化の現象が起こり、「五郎」が「丹尾」なのか、その逆なのか、そもそも「丹尾」は存在しているのか、分からなくなってくる。
「五郎」の精神が危うい状態にあるために、その辺が曖昧なのだ。さらに、過去の拭えない記憶の作用がそこに加わる。「五郎」は学生だった頃、売春宿の二階に泊まったことがある。その翌朝、学校へ向かう同窓生たちを優越感に浸りながら眺めていた彼は、たまたま顔を上げた教授と目が合ってしまい、それまで見ている側だったのが見られる側になったことで、敗北感に襲われる。そのことが強烈な記憶として残っているのだ。それが最後の阿蘇山火口の場面に影響を及ぼし、誰が見ているのか、見られているのか、何とも判別しにくい空気感を生んでいる。
ところで、梅崎春生の作品には、「五郎」と「丹尾」のように分かり合えない隣人がよく出てくる。代表的なもので言うと、直木賞受賞作『ボロ家の春秋』の「僕」と「野呂」、『黄色い日々』の「彼」と「発田」、『Sの背中』の「蟹江」と「猿沢」がそれにあたる。二人は同等の質量を持った存在でありながら、必ずと言っていいほど潰し合いをする。それを『Sの背中』では「ぼんやりした隣人的嫉妬」と呼んでいる。「大きな敵が前面に控えているのに、仲間同士で分裂していがみ合っている、そういう例はよく耳にするところです。人間の感覚というのは、身近なものに対してのみ、反応するものなのかもしれません」ーー同じように、「僕」と「野呂」も、「彼」と「発田」も、共に手を組んでどうにかしなければいけない大きな問題があるのに、惰性的で不毛な連帯感の中で敵対するのである。
このように分かり合えず、どうにもならない隣人との関係性は、初期の『風宴』にも描かれているが、それは戦争体験を通じて、梅崎の中で大きなテーマとなったようである。『桜島』にも、『日の果て』にも、戦友との固い絆、信頼、友情が描かれることはない。『桜島』には「どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。ーーこのまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにも惨めではないか」と書かれ、『日の果て』には「人間は、自分の利益とか快楽にしか奉仕しないということ、犠牲とか献身とかいうことは、その苦痛を補って余りある自己満足があって始めて成立し得ること。それらのことを彼は此の三年間に深く胸に刻み込んでいた」と書かれている。梅崎自身は、軍隊生活でどんな目に遭ったのか、実体験を語りたがらなかったようだが、こういった文章を読む限り、不愉快なものだったことがうかがえる。梅崎にとっては、そんな過去の存在こそが、どうにもならない隣人だったのかもしれない。
思うに、過去が次々と浮き上がり、現在の自分の頭の中にのさばる状態というのは、現在の出来事に熱中している時は起こりにくく、ふと気が抜けた時や集中力が弱まった時に、起こりやすい。新しい記憶だから思い出しやすい、という単純な仕組みではないのだ。若い時は、わりと現在の出来事に集中して取り組んでいるので、(よほど苛烈な体験をしていなければ)狂い凧のようなことにはあまりならない。しかし、これが中年になると、現在に注がれる集中力や熱中度が以前ほどではなくなり、密度の濃い過去が現在のすぐ隣に頻繁に出現してくる。『狂い凧』や『幻化』のような傑作が作者の晩年に生まれたのも、そういうことが一因ではないかと思われる。
現在交わされている会話と、過去の出来事がすぐ隣り合わせになっている梅崎春生の『狂い凧』のような作品は、今の私には近しいものに思える。昔読んだ時は、そんな風には思っていなかったし、現在と過去を交錯させるのも一種の技巧として読んでいた。しかし、中年になってから読み返すと、実感によって書かれていたことが分かる。
『狂い凧』の場合、餅、造花、ギプスベッド、背中の丸め方、さつま揚げ、ケシの花などが連想や追想の種となる。これらにより、死んだ弟、頼りない父、本家というだけで偉そうにしている伯父との間にあった出来事が、大した脈絡もなく、現在と同等もしくはそれ以上の質量をもってよみがえる。
この小説は語りの形式が入り組んでいて、いちおう「私」の一人称ではあるが、主に書かれているのは友人の「八木栄介」と、戦争中に死んだ双子の弟「八木城介」のことであり、「私」と「八木栄介」の記憶が交錯し、さらに「城介」の戦友「加納」の記憶が絡んでくる。このように書くと難しそうだが、主体が微妙に移り変わってゆくところは、現在と過去の仕切りを取り払った世界観に合っていて、違和感なく読むことができる。
この後に書かれた『幻化』になると、連想や追想が重なるところは相変わらずだが、もう少し虚無的かつ幻想的な雰囲気を帯びている。主な登場人物は、精神病院を抜け出してきた主人公の「五郎」と、飛行機で隣の席になった「丹尾」である。二人は鹿児島に着いて途中まで行動を共にし、熊本で再会して、阿蘇山で生死の賭けをする。文章の上では、阿蘇山火口で自殺するかしないかを選択する「丹尾」を、「五郎」が望遠鏡で見守るという設定になっているのだが、ここに幻化の現象が起こり、「五郎」が「丹尾」なのか、その逆なのか、そもそも「丹尾」は存在しているのか、分からなくなってくる。
「五郎」の精神が危うい状態にあるために、その辺が曖昧なのだ。さらに、過去の拭えない記憶の作用がそこに加わる。「五郎」は学生だった頃、売春宿の二階に泊まったことがある。その翌朝、学校へ向かう同窓生たちを優越感に浸りながら眺めていた彼は、たまたま顔を上げた教授と目が合ってしまい、それまで見ている側だったのが見られる側になったことで、敗北感に襲われる。そのことが強烈な記憶として残っているのだ。それが最後の阿蘇山火口の場面に影響を及ぼし、誰が見ているのか、見られているのか、何とも判別しにくい空気感を生んでいる。
ところで、梅崎春生の作品には、「五郎」と「丹尾」のように分かり合えない隣人がよく出てくる。代表的なもので言うと、直木賞受賞作『ボロ家の春秋』の「僕」と「野呂」、『黄色い日々』の「彼」と「発田」、『Sの背中』の「蟹江」と「猿沢」がそれにあたる。二人は同等の質量を持った存在でありながら、必ずと言っていいほど潰し合いをする。それを『Sの背中』では「ぼんやりした隣人的嫉妬」と呼んでいる。「大きな敵が前面に控えているのに、仲間同士で分裂していがみ合っている、そういう例はよく耳にするところです。人間の感覚というのは、身近なものに対してのみ、反応するものなのかもしれません」ーー同じように、「僕」と「野呂」も、「彼」と「発田」も、共に手を組んでどうにかしなければいけない大きな問題があるのに、惰性的で不毛な連帯感の中で敵対するのである。
このように分かり合えず、どうにもならない隣人との関係性は、初期の『風宴』にも描かれているが、それは戦争体験を通じて、梅崎の中で大きなテーマとなったようである。『桜島』にも、『日の果て』にも、戦友との固い絆、信頼、友情が描かれることはない。『桜島』には「どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。ーーこのまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにも惨めではないか」と書かれ、『日の果て』には「人間は、自分の利益とか快楽にしか奉仕しないということ、犠牲とか献身とかいうことは、その苦痛を補って余りある自己満足があって始めて成立し得ること。それらのことを彼は此の三年間に深く胸に刻み込んでいた」と書かれている。梅崎自身は、軍隊生活でどんな目に遭ったのか、実体験を語りたがらなかったようだが、こういった文章を読む限り、不愉快なものだったことがうかがえる。梅崎にとっては、そんな過去の存在こそが、どうにもならない隣人だったのかもしれない。
思うに、過去が次々と浮き上がり、現在の自分の頭の中にのさばる状態というのは、現在の出来事に熱中している時は起こりにくく、ふと気が抜けた時や集中力が弱まった時に、起こりやすい。新しい記憶だから思い出しやすい、という単純な仕組みではないのだ。若い時は、わりと現在の出来事に集中して取り組んでいるので、(よほど苛烈な体験をしていなければ)狂い凧のようなことにはあまりならない。しかし、これが中年になると、現在に注がれる集中力や熱中度が以前ほどではなくなり、密度の濃い過去が現在のすぐ隣に頻繁に出現してくる。『狂い凧』や『幻化』のような傑作が作者の晩年に生まれたのも、そういうことが一因ではないかと思われる。
(阿部十三)
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