小町随想
2017.12.23
歌を詠むことは昔の貴族のたしなみであったという話を学校の授業で何度か聞かされた記憶はあるが、なぜ重んじられていたのか、説明された記憶はない。教科書に載っている種々の和歌を覚えるのは、テストのための作業、暗記作業以外の何物でもなく、貴族でも何でもない私にはただの苦痛であった。
それが変わったのは、大学で哲学の講義を受けていた時。西洋の哲学者について話を聞かされている最中に、子供の頃、教科書ではなく百人一首で覚えた小野小町の歌をふと思い出し、和歌とは日本の心であり、詩であり、また思想でもあるのではないかと思い到った。
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に
この歌は技巧として素晴らしいだけでなく、生きるとはどういうことか、無常とはどういうものかを私たちに教えている。「花の色は」から、植物の花しかイメージしない人はいない。「わがみよにふるながめせしまに」の下句は、容赦なく過ぎ行く時間の波や、その中に身を置く己が身の焦燥を、言葉の響きのみで実感させる。説明的な思想書では伝わりにくい深遠なものも、こういう歌や詩になると俄然伝わりやすくなるのだ。
かつて黒岩涙香が有名な小町論の中で讃えた「天真の流露」や「偽らざる心情」が、人を動かす言葉となって、思想的なものとして私たちの心にしみ込むのである。すぐれた詩歌はそのような効験をもたらす。すでに紀貫之が書いた古今集の仮名序にも、日本人にとって歌がいかに大きな役割を担っているか明記されている。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)、業(わざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛きもののふの心をも慰むるは、歌なり」
日本は言霊の国と言われる。万葉集にも「言霊のさきはふ国」とある。古今集の仮名序は、それを踏まえた上で日本人の心と歌の深い関係を的確に言語化した例である。歌を詠むこと、ないし、詩を書くことは、貴族のたしなみという特権的なものではなく、この国に生きる人の自然な心の動きであり、歌や詩を鑑賞してその良し悪しを判別する感性は、当然磨かれるべきなのである。
そういう教育を受けてこなかった私のような者でも、六歌仙に選ばれた唯一の女性歌人、小野小町の歌には、百人一首の影響もあって親しむことができた。しばしば「夢の歌人」と言われるように、現実にはかなわぬことを夢に求める歌があるのも、日々夢想しがちな私に合っていた。
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき
二首とも古今集に収められている有名な歌だ。夜寝ている時も、昼にうたた寝をしている時も、小町は夢を見て恋しい人と逢瀬を重ねる。「頼みそめてき」からは、現実では思うように会えない事情が伝わってくる。しかし、夢の中にも現実が持ち込まれてしまうことがある。
うつつには さもこそあらめ 夢にさへ 人目をよくと 見るがわびしさ
「人目をよく」の「よく」は「避く」であり、伝本によって「守(も)る」と記されている。現実では人目を忍んでお会いになられないのも分かりますが、夢の中でも人目をおそれて来てくださらぬとは、わびしいことですと嘆くこの歌は、相手が身分の高い者であることを想像させる。小町集の編纂者もそう考えたのか、「やむごとなき人しのびたまふに」という詞書を添えている。「わびしさ」には、そんな相手との恋に疲れている心情も込められているように私は感じる。
「花の色は」のような歌が作られたのは、夢での逢瀬をあてにするほど焦がれた恋の波が去った後だろうか。もしくは、また新たな恋に心を揺さぶられ振り回されている最中に、自分の年齢を意識した時だろうか。すでに若さを失いつつある小町は無常を歌う。
私が最も心打たれるのは、「花の色は」の歌よりもさらに時を経てから詠んだと思われる歌である。
わびぬれば 身をうき草の 根をたえて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ
六歌仙の一人、文屋康秀が三河国へ下向することになり、小町を誘ったことに対して書かれた返事である。浮き草の流れゆくように、誘う人がいるなら、流れに身を任せようという意だが、大人の男女の間で交わされる一種の洒落なのか、あるいは、実際に文屋康秀について行ったのか、その辺は謎である。ただ、「誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」というのは、やはり人生を経験した人の言葉であって、単なる洒落ではない。身を憂き、俗世を否むともよめる。絡まった糸をほどくのをやめて、断ち切ったような心境をうかがわせる。
【関連サイト】
小町随想 [続き]
小野小町(書籍)
それが変わったのは、大学で哲学の講義を受けていた時。西洋の哲学者について話を聞かされている最中に、子供の頃、教科書ではなく百人一首で覚えた小野小町の歌をふと思い出し、和歌とは日本の心であり、詩であり、また思想でもあるのではないかと思い到った。
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に
この歌は技巧として素晴らしいだけでなく、生きるとはどういうことか、無常とはどういうものかを私たちに教えている。「花の色は」から、植物の花しかイメージしない人はいない。「わがみよにふるながめせしまに」の下句は、容赦なく過ぎ行く時間の波や、その中に身を置く己が身の焦燥を、言葉の響きのみで実感させる。説明的な思想書では伝わりにくい深遠なものも、こういう歌や詩になると俄然伝わりやすくなるのだ。
かつて黒岩涙香が有名な小町論の中で讃えた「天真の流露」や「偽らざる心情」が、人を動かす言葉となって、思想的なものとして私たちの心にしみ込むのである。すぐれた詩歌はそのような効験をもたらす。すでに紀貫之が書いた古今集の仮名序にも、日本人にとって歌がいかに大きな役割を担っているか明記されている。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)、業(わざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛きもののふの心をも慰むるは、歌なり」
日本は言霊の国と言われる。万葉集にも「言霊のさきはふ国」とある。古今集の仮名序は、それを踏まえた上で日本人の心と歌の深い関係を的確に言語化した例である。歌を詠むこと、ないし、詩を書くことは、貴族のたしなみという特権的なものではなく、この国に生きる人の自然な心の動きであり、歌や詩を鑑賞してその良し悪しを判別する感性は、当然磨かれるべきなのである。
そういう教育を受けてこなかった私のような者でも、六歌仙に選ばれた唯一の女性歌人、小野小町の歌には、百人一首の影響もあって親しむことができた。しばしば「夢の歌人」と言われるように、現実にはかなわぬことを夢に求める歌があるのも、日々夢想しがちな私に合っていた。
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき
二首とも古今集に収められている有名な歌だ。夜寝ている時も、昼にうたた寝をしている時も、小町は夢を見て恋しい人と逢瀬を重ねる。「頼みそめてき」からは、現実では思うように会えない事情が伝わってくる。しかし、夢の中にも現実が持ち込まれてしまうことがある。
うつつには さもこそあらめ 夢にさへ 人目をよくと 見るがわびしさ
「人目をよく」の「よく」は「避く」であり、伝本によって「守(も)る」と記されている。現実では人目を忍んでお会いになられないのも分かりますが、夢の中でも人目をおそれて来てくださらぬとは、わびしいことですと嘆くこの歌は、相手が身分の高い者であることを想像させる。小町集の編纂者もそう考えたのか、「やむごとなき人しのびたまふに」という詞書を添えている。「わびしさ」には、そんな相手との恋に疲れている心情も込められているように私は感じる。
「花の色は」のような歌が作られたのは、夢での逢瀬をあてにするほど焦がれた恋の波が去った後だろうか。もしくは、また新たな恋に心を揺さぶられ振り回されている最中に、自分の年齢を意識した時だろうか。すでに若さを失いつつある小町は無常を歌う。
私が最も心打たれるのは、「花の色は」の歌よりもさらに時を経てから詠んだと思われる歌である。
わびぬれば 身をうき草の 根をたえて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ
六歌仙の一人、文屋康秀が三河国へ下向することになり、小町を誘ったことに対して書かれた返事である。浮き草の流れゆくように、誘う人がいるなら、流れに身を任せようという意だが、大人の男女の間で交わされる一種の洒落なのか、あるいは、実際に文屋康秀について行ったのか、その辺は謎である。ただ、「誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」というのは、やはり人生を経験した人の言葉であって、単なる洒落ではない。身を憂き、俗世を否むともよめる。絡まった糸をほどくのをやめて、断ち切ったような心境をうかがわせる。
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