文化 CULTURE

山上憶良 真率であること

2018.11.17
 山上憶良の歌で最も広く知られているのは、教科書にも載っているこの一首だろう。

 山上憶良臣の宴を罷る歌一首
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 吾(あ)を待つらむそ

(私憶良はもう失礼いたしましょう。子どもが泣いているでしょうし、その母親も私の帰りを待っていることでしょうから)

 言うまでもなく、万葉集には名歌が多数収録されている。柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持と比べて、憶良のことを天才歌人と評する人は少ない。私も教科書で読んだ時は、「宴会中ですけど、家族が待っているので帰ります」という歌がなぜこの偉大な歌集に紛れ込んでいるのか、疑問でならなかった。

 しかし、もし万葉集に憶良の歌がなかったら、と仮定すると、その喪失感の大きさは尋常ではない。憶良の歌は人生の生活上の実感を鮮やかに伝える点で特に異彩を放っている。それは飾らない言葉で詠まれた人の生の営みである。そういう歌を収めているところが万葉集の重要な奥行きとなり、現代を生きる我々の胸に響く魅力の一つともなっているのだ。「憶良らは」の歌は、憶良の人柄を知り、ユーモアを解する人たちの前で詠まれたのだろうが、あえて卑近な例を用いるならば、会社の宴会中、家族のために「帰ります」と言おうかどうか悩む現代のサラリーマンの心情と重なるにちがいない。

 この歌は巻第三に収められているが、憶良が頻繁に登場するのは巻第五である。ここに、「貧窮問答歌」や「沈痾自哀文」が収められている。「貧窮問答歌」は前半が問い、後半が答えという構成である。前半は貧しいが「我をおきて 人はあらじ(俺ほど立派な人物はあるまい)」と考えているプライドの高い男が、寒い日にどうにか暖を取っていることを語り、「こんな自分より貧しい者は一体どうやって暮らしているのか」と問う。後半は極貧の男が登場し、それに答える。たまたま人として生を受け、人並みに働いてはいるが、粗末な家に住み、かまどには火の気もなく、家族身を寄せ合い、弱音を吐き、租税を搾り取ろうとする里長に呼び立てられている。生きていくことはこれほどまでに辛く苦しいものなのか、と。

 なぜ役人でありながら社会派ドキュメンタリーのような歌を詠んだのか。唐代の詩人、王梵志の詩にインスパイアされたものだとの指摘もあるが、そもそも憶良自身に貧者への目線がなければこういった題材を取り上げることはないはずだ。「どうやって暮らしているのか」と極貧の男に問う形式は、その後に語られることへの同情や憐みを前提としている。しかし、「ひどいことだ、かわいそうだ」というだけではない。憶良には、この世の不条理をしかと見せた上で、仏教哲学に基づくメッセージを提示する意図もあった。
 そのメッセージは、反歌に込められている。

 世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
(この世に生きるのは辛くて恥ずかしいことだと思うけど、飛び立つこともできない、鳥ではないのだから)

 つまり、極貧でも、すべなき人生でも、地に足をつけて生きるしかないのである。この反歌について、そんなことしか言えないのかと批判する人もいるが、ほかに言いようがないのも事実だろう。極貧の男が言う「わくらばに 人とはあるを」は、「たまたま人として生を受け」と訳したが、『涅槃経』にもあるように、「人身の得難きこと」、つまり人間として生を受けることの難しさを説く思想がここに含まれている。だからこそ憶良は生を尊ぶのである。

 自分の家族、家族を持つ者への憶良の情深さは、仏教で執着・煩悩とされる「愛」をどうしようもないものとする。「子等を思ふ歌」にも、「世間の蒼生、誰か子を愛せざらめや(世間の人々で、誰が子に執着せずにいられようか)」とある。その後に「何を食べても子を思い出してしまい、夜も眠れない」と記し、かの有名な歌が詠まれる。

銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も なにせむに 優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
(銀も金も玉もどうしてすぐれた宝と言えようか。子にまさるものはないのだ)

 晩年の憶良は老いと病に苦しみ、間近にある死を見つめ、74歳の時(733年頃)に「沈痾自哀文」「俗道悲嘆の詩」「老身重病の歌」を書いた。「沈痾自哀文」は憶良が儒教、道教、仏教経典、俗書を引用した異形の漢文である。この詩によると、憶良は10年以上前に病を得て、さらに老いも重なり、手足が動かず、関節が痛み、おもりを背負っているような状態にある。祈祷にすがっても苦痛は増すばかり。善行を積み、仏法僧の三宝を礼拝し、勤行を怠った日は一日とてないのに、何の罪でこんな重病を患うようになったのか、と嘆く。ここには死を悟り、安らかな心境にある老人の姿はない。

 山本健吉は「ちかごろの感想」(1975年)の中で、老年の居場所は安らかなものではなく、心の錯乱の極北なのだと書き、憶良の真率な人柄が発現した「沈痾自哀文」に共感を寄せている。山本いわく、これは「老の問題が言わば思想的問題として、文学の主題に取り上げられた」最初期の例である。憶良は死を前にして取り乱し、それまで拠り所としてきた儒教道徳が無力であると痛感し、「良書も俗書も無差別にかきさぐり、死生の間の真実について彼に教えてくれると思われるすべての章句をここに書きつけた」のだ。

 引用の仕方も、論理的に整理されているとは言えない。老、病、死の問題に自分が得心できる一つの明確な答えがない以上、そうなるのである。「すべなき」の一言ではどうにも割り切れない。胸奥には複雑な心情がある。それを憶良自ら、己を君子のように見せようという気遣いなしに言語化しているのだ。

 「俗道悲嘆の詩」はもう少し落ち着いているが、「生(うま)るれば必ず死ありといふことを。死ぬることを若し欲(ねが)はずは、生れぬにしかず」と強い調子で書きながら、最後は「空しきこと浮雲と大虚を行き、心力共に尽きて寄る所もなし」と淋しく締めている。
 これが「老身重病の歌」になると、年老いた上に重い病を患い、「ことことは死なな(いっそ死のう)」と自殺を考える。かつて「世の中を 憂しとやさしと 思へども」と歌った男にも限界が来たのである。しかし、うるさい子供たちを打ち捨てては死ねず、彼らを見るうちに心が燃え立ってくる。反歌にも、「すべもなく 苦しくあれば 出で走り 去ななと思へど 此(こ)らに障りぬ」とあり、苦しみから逃げて死にたいと思ったものの、子供たちが障害となって(あるいは子供たちに邪魔をされて)死ねないことを伝えている。まるで家族ドラマのような趣である。

 死を前にして詠まれたのは、次の一首である。これは巻第六に収められている。

 山上臣憶良、沈痾の時の歌一首
士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして

(ひとたび男として生まれた者がむなしく終わってよいものか、万代語り継がれるに足る名を立てることもせずに)

 「士」の一字は、「貧窮問答歌」で「我をおきて 人はあらじ」と書いた男の矜持をうかがわせる。

 志が高く、家族思いでもあった憶良の名は、日本人が『万葉集』を読む限り、万代に語り継がれるだろう。華やかな才能がきらめく歌、技巧を凝らした歌はほかにたくさんあるが、憶良は豊かな教養を糧に人間味あふれる歌を詠み、人生や生活の実感を伝える真率なる歌人として愛されてきた。モチーフが明快であり、また、解釈がしやすいことからも、現代人に最も身近に感じられるのは憶良の歌ではないかと思われる。
(阿部十三)


【関連サイト】
柿本人麻呂 泣血哀慟歌の鑑賞

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