ツィヴィールクラージェと侏儒の言葉
2020.01.13
市民の勇気
「ツィヴィールクラージェ」というドイツの言葉がある。市民の(Zivil)勇気(courage)で、Zivilcourage。『飛ぶ教室』(2018年冬号)に掲載された那須田淳氏の「眠りの精とツィヴィールクラージェ」によると、ナチス政権の時代に反ナチの立場で抵抗した「白バラ」の活動などから広まった言葉で、ドイツの子どもの文化や教育の根底を支えている理念だという。
私は仕事で『動物と話せる少女リリアーネ』を電子化した時に、初めて「ツィヴィールクラージェ」という言葉を知った。この児童文学には、不思議な力を持つリリアーネを支える人物としてギフテッドの少年イザヤが登場するのだが、彼が「ツィヴィールクラージェ」の意味をわかりやすく説明している。
「困っている人を助けるために、結果を恐れず、勇気を持って行動することさ。自分の立場が悪くなっても、自分の考えに責任をとることをいうんだ」
大人になってから「ツィヴィールクラージェ」を知った人の大半は、素敵な言葉だとは思いながらも、その正しさ、まっすぐさに臆し、自分が実践することとして受け取れないのではないだろうか。それは「勇気を持って行動すること」が当たり前ではなくなり、結果を恐れないことが困難になっているからだ。私もそのうちの一人である。現実は厳しい、現実はうまくいかない、という感覚が染みついているから、そんな気持ちになる。
私は『動物と話せる少女リリアーネ』を読み、これが児童文学に出てくる言葉なのかと驚かされたが、本来は子どものうちに知り、実践すべきことなのだろう。人生経験が豊富な大人は、いくら正しいことをしても結果的に潰される場面があることを知っているが、「ツィヴィールクラージェ」を実践し、不健全な旧弊を打破しようとしている若者の邪魔をすべきではない。
好き嫌いの問題
ヘーゲル研究者のアレクサンドル・コジェーヴは、無私的に正義であることによって人は一種の快感を得られるとし、それを「法的な快感」と呼んだ。弱者が強者にいじめられている時、私たちが弱者を守ろうとすることも、コジェーヴに言わせると「法的な快感」らしい。
しかし、そういった正義や快感よりも優先されがちなのが、好悪の感情である。嫌いな人間がいじめられているのを見た時、大半の人は傍観者になるだろう。その場合、善か悪かということより、好きか嫌いかの方が上回っていることになる。これでは「ツィヴィールクラージェ」は成立しない。
好き嫌いは原始的な感情であり、人間の知性や理性の背面に密着して離れることはない。2007年に発表された伊藤計劃の小説『虐殺器官』では、小難しい言葉の積み重ねも、長々しい議論も、結局は好きか嫌いかの表現にすぎないと洞見されている。
「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね。いまわれわれが話しているこのややこしいやり取りにしても、そんなシンプルな感情を、えらく遠まわしに表現しているにすぎないんじゃないか。美味しいとか、不快だとか、そういう原始的な感情を」
誰かに正しいことを言われても、私たちがその人物のことを「好きじゃない」と判断すると、話が嘘っぽく感じられたり、全く耳に入ってこなくなったりすることは往々にしてある。かつてフランスで、賢者と言われたレイモン・アロンと、絶大な人気を誇ったジャン=ポール・サルトルを比べ、「アロンに従って正しくあるよりは、サルトルと共に誤る方がよい」と言われたことがあった。これもまた何が善か、何が正しいかという問題より、好き嫌いの問題が優先された例である。
侏儒の言葉
最近、芥川龍之介の作品を読み直す機会があった。約25年ぶりである。そのせいか何を読んでも新鮮で、物語の結末は覚えていても、初めて文章を味わうような感覚で読むことができた。
日本文学を専攻していた学生の頃、晩年の『侏儒の言葉』は痛々しい感じがして好きではなかったが、再読し終えた今は、座右の書のようになっている。凡百の詩集よりも繊細な文章で編まれたこの本を読むと、鋭敏すぎる芥川の神経は、人生の真理に迫り、傷つかずにはいられなかったのだと感じる。心に残る言葉はいくつもあるが、最も深く刻まれたのはこの一文だ。
「善悪は好悪を超越しない」
「善」を選べば世の中が良くなるのに、それでも人は「好」を選んでしまう。とくに日本人は合理性より非合理性を重んじるので、その傾向が強くなる。でも、そろそろ善を断行する「ツィヴィールクラージェ」の精神が本当に必要なのではないか。今の日本に漂う強烈な閉塞感も、結局は政治や社会の問題を「好悪」で判断しすぎ、「好」を「善」と思い込んだことの皺寄せだろうと私は思っている。
(阿部十三)
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