ASMRという選択 〜休日の過ごし方〜
2020.03.28
昔、絵画教室の番組を見ていたことがある。講師は外国人の画家で、よく喋る人だった。その音声のせいで絵を描いている音が少ししか聞こえない。それが不満だった。私は絵を学ぶのではなく、絵筆とキャンバスが接する音を味わうことを目的として見ていたのだ。
特定の音を聞いてゾクゾクすることがある。聴覚から官能をくすぐられるのだ。こういった反応を「Autonomous Sensory Meridian Response」、略してASMRというらしい。Autonomousは「自主的」、Sensoryは「感覚」、Meridianは「頂点」、Response「反応」という意味である。
どんな音が気持ち良いかは人それぞれ違うが、私にとってのASMRは、鋏で髪を切る音、紙を切る音、そして、鉛筆や絵筆で紙に何かを描く音である。それも私が自分で音を出すのでなく、自分以外の人が音を出さないと効果が得られない。
そこでYouTubeである。検索してみると、該当する動画が数え切れないほど出てきた。私がASMRという言葉を知ったのはちょっと前のこと。それまでは自分の感覚が異常なのではないかと思い込んでいたが、仲間が大勢いることを知り、心強くなった。以来、私は家にいる時、本を読むか、映画を観るか、音楽を聴くか、ASMRを体感するか、どれかを選択して過ごしている。ただ、本も映画も音楽も浸れる時間には限度がある。集中力や理解力などのエネルギーを使うからだ。ASMRにはそれが必要ない。こちらが受け身の状態になるだけなので、延々と浸っていられる。
忌憚なく言って、ASMRの動画は玉石混淆だ。ここが難しいところで、玉石の「石」の中にも良いものがある。音質のクオリティが高いからといって必ずしも自分に合うとは限らない。これは好みの問題だが、マイクに向けて集中的に鋏をチョキチョキさせたり、鉛筆で無意味な線を書いたりして音を聞かせるのは、音自体の気持ち良さと同時に、不自然な強調を感じてしまう。欲を言えば、そういった強調は要らない。何かを完成させる目的のために発生する音でなければ、興が数割ほど減ずるのだ。
映画やドラマなどで、靴がカツカツいう音や、ドアがカチャリと閉まる音、お煎餅や沢庵をポリポリ咀嚼する音がすると、やはり気持ち良いと感じる。これもASMRに入るだろう。しかし、せっかくの音も、音楽が混ざると台無しになる。
音と音楽の相性は難しい。やたらと音楽を使いたがる監督がいるが、何も分かっていない。話題のテレビドラマを見ていても、そのセンスの無さに辟易させられる。音と音楽は使い分けられなければならない。作品によっては音楽が邪魔になることもある。フランスの映画監督ロベール・ブレッソンの作品は、音楽が無駄に流れないように厳しく統制されているので、音を味わうことができる。ジャック・リヴェット監督の『美しき諍い女』も、ミシェル・ピコリがエマニュエル・ベアールのことを描くシーンが(音楽抜きで)延々続くので、心地よい。
ラジオドラマだと、もっと音の密度が濃くなり、充実感を味わえるかもしれない。かつては「女湯がカラになる」と言われた菊田一夫の『君の名は』など、人気作を世に送り出していたラジオドラマだが、現在は番組数が少なく、停滞気味。しかし、この分野には多くの可能性が残されている。スマホで目が疲れている人にも、想像力を重んじる人にも、才能はあるのに予算がなくて映像を制作できない人にとっても、私のように音が目的の人にも、有効な媒体だ。
音の好みがどのようにして決まるのかは分からない。私自身について言えば、子供の頃から髪を切る音、絵を描く音に反応していた。極端に好きな音がある分、嫌いな音も少なからずあり、中でも口を開けて物を食べる時のクチャクチャ音は受け付けられない。そういう音を聞かされた時は、「O Freunde, nicht diese Töne!(おお友よ、このような音ではない!)」と訴えたくなる。
音に敏感な人は擬音にも反応するのではないだろうか。ちょきちょきとか、しゃりしゃりとか、活字にも幻惑効果があるように私には感じられる。秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』には床屋のシーンが何度も出てきたものだが、その描写が細かく、チョキチョキという音がリアルに伝わってくるので、そのコマばかり読んでいたことがある。ちなみに私が読んでいたのは24巻や27巻だ。
ASMRは何に効くのかよく分からないマッサージみたいなものなので、時間の過ごし方としては勿体ない気もする。しかし、音を聞いている間は、いやなことを一時的にでも忘れることができる。最近は、仕事だけでも疲れるのに、ウイルスの蔓延、物資の不足、自己責任を言い換えたような自粛要請などでウンザリ感は増すばかりだ。休日の意義が平穏に過ごすことにあるのなら、自分の選択は間違ってはいない。心の中でそう言い訳しながら、今日も動画を再生している。
(阿部十三)
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