2階に住む人々
2021.01.27
幼い頃、田舎の実家に行き、薄暗い廊下から2階へと続く狭い階段を見上げたとき、何か不思議なものを見るような感覚に襲われた。それはコンクリートのマンションに住んでいた私にとって、日本家屋の2階というものを意識した初めての体験だった。私は何とも言いようのない違和感を抱き、階段から目を背けた。その違和感は8歳くらいから好奇心に変わったが、それまで2階というのはちょっと怖い存在だった。
伝統的な日本住宅の2階が「隠し部屋のおもむき」を持っていて、「西洋の家屋の二階よりもむしろ屋根裏部屋に近い」と指摘したのは評論家の前田愛である。私は「二階の下宿」(『展望』1978年5月号)を読んだとき、心の奥に触れられたような気持ちになった。
さらに前田は、2階に身内でない者が住む下宿という居住形態に着目し、次のように書いている。
「二階の部屋には階下の家人の手がとどかないところでさまざまな秘密がたくわえられて行き、やがてそれが明るみに引き出されたときには、階下の世界の日常的な秩序をいっきょにおびやかす。いわば、二階と階下をつなぐ階段は、下宿人と家人の結合と分離のもっともたしかな象徴なのである」
今では下宿というシステムも減ったが、昭和の後半までは珍しいものではなかった。そして、下宿人すなわち2階の住人が出てくる小説も沢山あった。明治時代に書かれた有名な作品だと、二葉亭四迷の『浮雲』(1891年)、尾崎紅葉の『多情多恨』(1896年)、田山花袋の『蒲団』(1907年)、谷崎潤一郎の『悪魔』(1912年)がある。
これらの作品では、2階という場所が何か良からぬ考えを増殖したり、隠していた性癖を露呈したり、淫靡なことを促進したりする場として捉えられている。『浮雲』では失業した文三が恥辱と嫉妬にまみれながら、家主の娘への思慕と欲望を病的に募らせ、『悪魔』では帝大生の佐伯が家主の娘を歪んだ性欲の対象にして、肉体関係を結ぶ。『蒲団』では少しパターンが異なり、作家の竹中時雄が自宅の2階に美しい女弟子を住まわせ、彼女が去った後、その蒲団に顔を押し当てる。彼らの感情は地上の社会生活において噴出させると支障が出るが、2階であれば存分に育み、発散することができるのである。
周知の通り、日本では飲食店の2階が逢引きの場所として使われていた。江戸時代の春画にもその様子を描いたものがある。戦後の映画、例えば鶴田浩二主演の『危険な年齢』(1950年)のような作品でも、ゴロつきが当たり前のように飲食店の2階に集まっている。そこには1階とはまた違う文化があったのである。
その文化は徐々に消えて行くわけだが、形を変えて、普通の家庭へと移っていった。2階建ての一般住宅が増えた時代に、「2階にいる子どもが何をしているのか分からない」という状況になるのである。小説でもドラマでも、秘密を持って引きこもる子どもの部屋は大体2階にある。思い返せば、私が2階に好奇心を抱くようになったのは、藤子不二雄の『ドラえもん』や『忍者ハットリくん』を読んでからだが、これらも2階を特殊な空間として扱った作品に属するだろう。
こういった2階のイメージは日本だけのものではない。外国の家の場合、日本家屋ほどは陰翳を感じさせないが、やはり2階にはどこか怪しいものが漂っている。サスペンス映画やホラー映画を観ると、それがよく分かる。
「2階には何かがある」という疑わしさ、いかがわしさを映像として最も早く、最も効果的に表現したのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『下宿人』(1927年)だ。後年の『サイコ』(1960年)や『鳥』(1963年)でも、2階を恐怖の震源のように捉えていて、ヒッチコックがいかにこの構造を好んでいたかが分かる。
2階を好んだのはヒッチコックだけではない。マイケル・パウエル監督の『血を吸うカメラ』(1960年)では、スナッフムービーを撮りたがる殺人鬼マーク・ルイスが2階に住んでいたし、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973年)では、2階の部屋にいる一人娘リーガン・マクニールが悪魔に憑かれて凄まじい凶事を引き起こした。これらは2階に対する欧米人のイメージの一例として見ることが出来る。
この構造が共同住宅になったり、3階建て、4階建てになったりすると、緊張感が半減する。1階と密接な関係にあり、地上から少し離れているだけなのに、さまざまな秘密がたくわえられていく場所であることが2階の特性なのだ。
幼年の私が田舎の実家で初めて2階を見上げたとき、違和感を抱いたのは、おそらく本能的なもので、望んでもいないのに異界へと通じる階段を見つけてしまったような気分だったのだろう。通常、その違和感は好奇心に変わり、やがて2階に自分の部屋を持つようになり、秘密を持ち、やがて大人になり、独り立ちするために1階へと降りてくる。
しかし、そのプロセスのどこかにトラブルが生じたとき、人は2階から降りてこられなくなる。私には文三や佐伯が1階に降りて生活するところを思い描くことができない。マークが1階で暮らしながら殺人フィルムを観るところも、リーガンが1階の部屋で悪魔に憑かれるところも想像することができない。彼らは2階という異界でこそ成立する人物像なのである。
【関連サイト】
伝統的な日本住宅の2階が「隠し部屋のおもむき」を持っていて、「西洋の家屋の二階よりもむしろ屋根裏部屋に近い」と指摘したのは評論家の前田愛である。私は「二階の下宿」(『展望』1978年5月号)を読んだとき、心の奥に触れられたような気持ちになった。
さらに前田は、2階に身内でない者が住む下宿という居住形態に着目し、次のように書いている。
「二階の部屋には階下の家人の手がとどかないところでさまざまな秘密がたくわえられて行き、やがてそれが明るみに引き出されたときには、階下の世界の日常的な秩序をいっきょにおびやかす。いわば、二階と階下をつなぐ階段は、下宿人と家人の結合と分離のもっともたしかな象徴なのである」
今では下宿というシステムも減ったが、昭和の後半までは珍しいものではなかった。そして、下宿人すなわち2階の住人が出てくる小説も沢山あった。明治時代に書かれた有名な作品だと、二葉亭四迷の『浮雲』(1891年)、尾崎紅葉の『多情多恨』(1896年)、田山花袋の『蒲団』(1907年)、谷崎潤一郎の『悪魔』(1912年)がある。
これらの作品では、2階という場所が何か良からぬ考えを増殖したり、隠していた性癖を露呈したり、淫靡なことを促進したりする場として捉えられている。『浮雲』では失業した文三が恥辱と嫉妬にまみれながら、家主の娘への思慕と欲望を病的に募らせ、『悪魔』では帝大生の佐伯が家主の娘を歪んだ性欲の対象にして、肉体関係を結ぶ。『蒲団』では少しパターンが異なり、作家の竹中時雄が自宅の2階に美しい女弟子を住まわせ、彼女が去った後、その蒲団に顔を押し当てる。彼らの感情は地上の社会生活において噴出させると支障が出るが、2階であれば存分に育み、発散することができるのである。
周知の通り、日本では飲食店の2階が逢引きの場所として使われていた。江戸時代の春画にもその様子を描いたものがある。戦後の映画、例えば鶴田浩二主演の『危険な年齢』(1950年)のような作品でも、ゴロつきが当たり前のように飲食店の2階に集まっている。そこには1階とはまた違う文化があったのである。
その文化は徐々に消えて行くわけだが、形を変えて、普通の家庭へと移っていった。2階建ての一般住宅が増えた時代に、「2階にいる子どもが何をしているのか分からない」という状況になるのである。小説でもドラマでも、秘密を持って引きこもる子どもの部屋は大体2階にある。思い返せば、私が2階に好奇心を抱くようになったのは、藤子不二雄の『ドラえもん』や『忍者ハットリくん』を読んでからだが、これらも2階を特殊な空間として扱った作品に属するだろう。
こういった2階のイメージは日本だけのものではない。外国の家の場合、日本家屋ほどは陰翳を感じさせないが、やはり2階にはどこか怪しいものが漂っている。サスペンス映画やホラー映画を観ると、それがよく分かる。
「2階には何かがある」という疑わしさ、いかがわしさを映像として最も早く、最も効果的に表現したのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『下宿人』(1927年)だ。後年の『サイコ』(1960年)や『鳥』(1963年)でも、2階を恐怖の震源のように捉えていて、ヒッチコックがいかにこの構造を好んでいたかが分かる。
2階を好んだのはヒッチコックだけではない。マイケル・パウエル監督の『血を吸うカメラ』(1960年)では、スナッフムービーを撮りたがる殺人鬼マーク・ルイスが2階に住んでいたし、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973年)では、2階の部屋にいる一人娘リーガン・マクニールが悪魔に憑かれて凄まじい凶事を引き起こした。これらは2階に対する欧米人のイメージの一例として見ることが出来る。
この構造が共同住宅になったり、3階建て、4階建てになったりすると、緊張感が半減する。1階と密接な関係にあり、地上から少し離れているだけなのに、さまざまな秘密がたくわえられていく場所であることが2階の特性なのだ。
幼年の私が田舎の実家で初めて2階を見上げたとき、違和感を抱いたのは、おそらく本能的なもので、望んでもいないのに異界へと通じる階段を見つけてしまったような気分だったのだろう。通常、その違和感は好奇心に変わり、やがて2階に自分の部屋を持つようになり、秘密を持ち、やがて大人になり、独り立ちするために1階へと降りてくる。
しかし、そのプロセスのどこかにトラブルが生じたとき、人は2階から降りてこられなくなる。私には文三や佐伯が1階に降りて生活するところを思い描くことができない。マークが1階で暮らしながら殺人フィルムを観るところも、リーガンが1階の部屋で悪魔に憑かれるところも想像することができない。彼らは2階という異界でこそ成立する人物像なのである。
(阿部十三)
【関連サイト】
月別インデックス
- November 2024 [1]
- October 2024 [1]
- September 2024 [1]
- March 2024 [1]
- February 2024 [1]
- November 2023 [1]
- August 2023 [7]
- March 2023 [1]
- February 2023 [1]
- December 2022 [1]
- October 2022 [1]
- August 2022 [1]
- May 2022 [1]
- February 2022 [1]
- December 2021 [1]
- September 2021 [2]
- August 2021 [1]
- July 2021 [1]
- May 2021 [1]
- March 2021 [1]
- January 2021 [1]
- December 2020 [1]
- October 2020 [1]
- August 2020 [1]
- June 2020 [1]
- May 2020 [2]
- March 2020 [1]
- February 2020 [1]
- January 2020 [1]
- December 2019 [1]
- November 2019 [2]
- October 2019 [1]
- September 2019 [1]
- August 2019 [1]
- July 2019 [1]
- June 2019 [1]
- May 2019 [1]
- March 2019 [1]
- January 2019 [1]
- December 2018 [1]
- November 2018 [1]
- October 2018 [1]
- September 2018 [1]
- July 2018 [1]
- June 2018 [2]
- May 2018 [1]
- February 2018 [1]
- December 2017 [2]
- October 2017 [1]
- September 2017 [1]
- August 2017 [1]
- July 2017 [3]
- June 2017 [1]
- May 2017 [1]
- April 2017 [1]
- February 2017 [1]
- January 2017 [1]
- December 2016 [2]
- October 2016 [1]
- September 2016 [1]
- August 2016 [1]
- July 2016 [1]
- June 2016 [2]
- April 2016 [2]
- March 2016 [1]
- January 2016 [1]
- December 2015 [2]
- November 2015 [1]
- October 2015 [1]
- September 2015 [2]
- August 2015 [1]
- July 2015 [1]
- June 2015 [1]
- May 2015 [2]
- April 2015 [1]
- March 2015 [1]
- February 2015 [1]
- January 2015 [1]
- December 2014 [1]
- November 2014 [2]
- October 2014 [1]
- September 2014 [2]
- August 2014 [1]
- July 2014 [1]
- June 2014 [2]
- May 2014 [2]
- April 2014 [1]
- March 2014 [1]
- February 2014 [1]
- January 2014 [3]
- December 2013 [3]
- November 2013 [2]
- October 2013 [1]
- September 2013 [2]
- August 2013 [1]
- July 2013 [2]
- June 2013 [2]
- May 2013 [2]
- April 2013 [3]
- March 2013 [2]
- February 2013 [2]
- January 2013 [1]
- December 2012 [3]
- November 2012 [2]
- October 2012 [3]
- September 2012 [3]
- August 2012 [3]
- July 2012 [3]
- June 2012 [3]
- May 2012 [2]
- April 2012 [3]
- March 2012 [2]
- February 2012 [3]
- January 2012 [4]
- December 2011 [5]
- November 2011 [4]
- October 2011 [5]
- September 2011 [4]
- August 2011 [4]
- July 2011 [5]
- June 2011 [4]
- May 2011 [4]
- April 2011 [5]
- March 2011 [4]
- February 2011 [5]