広津柳浪 (1) 〜役割が入れ替わる悲劇〜
2021.09.11
「今戸心中」
広津柳浪は「悲惨小説」の代表的な作家である。「悲惨小説」は「深刻小説」とも呼ばれ、日本の文壇で自然主義が猛威を振るう以前の明治20年代末から30年代前半にかけて流行した。内容は文字通り重たく、救いのない結末のものが多い。登場するのも、先が見えない生活をしている遊女、病人、醜夫、醜女、知的障害者といった具合である。
ただ、柳浪の小説はいたずらに重いだけではない。その文章は、繊細な言葉を連ねて人情の機微を巧みに表現し、豊かな情緒を感じさせる。紅葉や露伴と違って口語体で読みやすく、会話のやりとりも自然で、テンポが良い上に、味わい深い。特に「河内屋」や「雨」で展開される登場人物たちの会話には、身にしみるような寂れた趣がある。
作家としての最盛期は明治28年から31年頃である。当時30代後半だった彼は、「眞に旭日昇天の勢」(後藤宙外)と言われるほど創作意欲に溢れており、「亀さん」、「変目伝」、「黒蜥蜴」、「今戸心中」、「河内屋」、「浅瀬の波」と代表作のほとんどを書き上げた。
「今戸心中」は吉原を題材にし、廓の内情に踏み込んだ花柳小説である。主人公は男好きのする丸顔の花魁吉里だ。吉里は客の平田に惚れていたが、彼は家の事情で郷里に帰らなければならなくなる。吉里は平田と別れた後、「下品小柄」の善吉という常連客の相手をし、自分のために身代を潰したこの哀れな四十男と隅田川で心中する。
惚れた相手と心中するのかと思いきや、その役割がまさかの相手と入れ替わってしまい、意表をつかれる。しかし、これは柳浪作品では一つのパターンであった。彼が紡ぐ物語では、意表をつくことが定石となり、しばしば登場人物の役割がもつれる。行き違いや入れ替わり、思い込みも多用される。
「変目伝」
その傾向は、すでに初期(明治22年)の「残菊」からうかがえる。ちなみに、これは当時としては珍しく肺結核を正面から扱い、その後無数に生まれる「結核もの」の先陣を切った作品だ。まず、若い女性の主人公が病に倒れる。風邪かと思ったら吐血。彼女は死の想念に取り憑かれ、様々な想像(妄想)をめぐらせる。
全て一人称で綴られる心理表現が素晴らしい。微に入り細を穿つ描写力だ。最後は、死ぬと思い込んでいた主人公が、これまでの流れを覆すように僅か一行で無事回復したことを告げ、読者を唖然とさせる。
「変目伝」でも、「今戸心中」のように登場人物の役割がもつれる。主人公は、目尻がひきつれている伝吉。働き者の彼は、薬種店の娘の小浜に惚れている。そこにつけ込み、小浜の従兄の定二郎は、2人の仲を取り持ってやると甘言を弄し、伝吉に吉原での玉代をおごらせる。それが繰り返されるうちに伝吉は困窮し、借金で首が回らなくなり、お金欲しさに伊勢屋という店の番頭を殺害する。
なるほど悲惨である。定二郎が殺されていれば、まだ腹落ちするところもある。しかし、伝吉が殺すのは部外者に等しい番頭なので、後味が悪い。「今戸心中」における平田と善吉のように、悲劇の現場にいるべき人物が入れ替わっている。
「浅瀬の波」では、皮肉な成り行きにより、殺す側の人間が突然入れ替わる。これもまた悲惨である。「河内屋」では、被害者側の人間として登場した者が加害者になるという展開を持つ。
悲劇とは死ぬべき者が死ぬことで美的に成就される。しかし柳浪の小説では、そうはならない。運命が変転し、死ななくてよい者が死に、死ぬべき者が生き残る。だから悲劇が美しさを失い、悲惨になり、深刻になるのだ。
(阿部十三)
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