文化 CULTURE

湖龍斎と動物

2022.05.15
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 礒田湖龍斎の絵には独特のおかしみがある。
 周知の通り、湖龍斎は鈴木春信から多大な影響を受けた絵師で、本家と見分けがつかないくらい似た絵を大量に描いた。腕はたしかで、細かく技巧的な絵もこなした。「石橋図」や「雪中美人画」といった美しい肉筆画を見ても、その腕前が相当のものであったことは分かる。しかしながら、湖龍斎は型にはまるタイプの人ではなかった。おとなしく普通の錦絵を描いたあとの反動なのか、何かしら人と違うこと、何か変わったことをせずにいられなくなるのだ。美人画を正面・真横から描いた大胆な構図は、その最たるものだろう。

 もっと話題になってもおかしくない絵師なのにそうならないのは、春信の亜流という見方が支配的だからだろう。しかし、それで湖龍斎の絵を閑却してしまうのは、あまりにもったいない。この絵師は技巧もあるし、作風も多彩である。柱絵の達人でもある。しかし、それより何より面白い絵、愛すべき絵をたくさん描いた人だった。それらはどこかヘンテコで、ユーモアがあり、シュールな味がある。

 湖龍斎は動物を描くのを得意とし、多くの素晴らしい絵を残した。例えば「水仙群狗」。7匹の犬が水仙の花咲く早春の寒さの中、寄り集まって暖め合っている。目を見ると、心地よさそうに細めていたり、安心したように笑っていたり、まるで人間のようだ。なんとも微笑ましく、ほのぼのする絵である。

 シリーズものの『風流十二支』、『風流小児十二支』、『星流十二支』は、文字通り十二支の動物を何かしらの形で登場させたもので、写実的に描いた絵から、ユーモラスな設定をとりいれた絵まで様々なバリエーションがある。線が太かったり、細かったり、おふざけだったり、大真面目だったり、とにかく単調さとは全く無縁な画風だ。『風流十二支』の「寅」では、くつろいだ様子の美人が衝立に描かれた寅と見つめ合っていて、不思議な雰囲気が出ている。美人と寅の描き方のタッチが違うのも面白い。感情が豊かそうな寅の顔つきも良い。

 「金魚を狙う猫」の猫は、いかにもワルそうな顔をしていて笑える(金魚の顔は愛らしい)。『風流十二支』の「戌」の子犬は母乳を夢中で吸っていて、けなげである。兎の絵にも魅力的なものがある(湖龍斎は卯の年生まれ)。表情の描き方は一通りではなく、無心なもの、愛嬌のあるもの、目つきの鋭いものとある。私が好きなのは、朝顔と兎が描かれた柱絵で、構図も色合いも完璧。シンプルかつ鮮やかな美しさに唸らされる。珍しいところでは、ねずみに餌をあげている美人を描いた柱絵もある。ねずみをペットにする風習は明和年間(1764年〜1772年)に広まったようで、ちょうどその時期に活躍していた湖龍斎がいち早く題材として取り上げたのである。

 こういった絵を見ていて思い出すのは、洋画家・岸田劉生の言葉である。かつて岸田は優れた絵について、「大てい一種の芸術的稚拙感が加わっている。どこか間のぬけたような、気の利かない感じや、一見拙ずそうに見える不思議な美がある」(「製作余談」)と書いていた。偶然の面白味が、深い審美の力によって、巧妙な技術と深い内容を持つ絵の中で活かされていることを、芸術的稚拙感と言うらしい。岸田曰く、それが見る者に「悪い意味での文明の嫌み、利口らしさ、気の利いた感じ、現実的な味」ではなく、「暖かき心の感銘」と「生けるものの愛」を感じさせるのである。「稚拙」という言葉は多少引っかかるが、なるほど湖龍斎の絵にもそういう妙味がある。

 鳥の絵には、写実的で線が細かいものが多い。花鳥画の伝統を踏まえ、自身の強い美意識を表面化させているのだろう。孔雀の絵、鶴の絵にも見事なものがある。ただ、そんな中にも湖龍斎らしい作品がある。鳥籠から出た小鳥の絵だ(外題不明)。小さな翼を広げ、飼い主の方によちよち歩きで近寄っているところが何とも可愛く、ピヨピヨという鳴き声が聞こえてきそうで、見ていると気持ちが和む。

 犬猫は春画にも度々登場する。男女が同衾しているのを猫が見ていたり、男女が交わっている前で2匹の犬が交接していたりして、エロス以上に、おかしみが伝わってくるところが良い。もちろん普通に男女が求め合っている春画もあるが、心のどこかで、それでは飽き足らないと思っていたのだろう。『風流十二季の栄花』シリーズなど、シチュエーションが傑作で、どこかシュールで間が抜けていて、おかしなことになっている。

 例えば、お習字の先生らしき若者が墨をすりながら、隣に座っている娘に何か良からぬことをしている絵がある(具体的には描かれていないが、明らかに挙動が怪しい)。娘は顔を伏して、抵抗しない。さらに、その様子を何者かが破れた障子から覗いている。なかなかアブノーマルだ。あるいは、男女が店の土間で事に及んでいる絵。その最中、暖簾の間から子供がそれを見てしまい、男女が「あ、見られた」という顔をしている。こんな奇妙な絵を、おそらく湖龍斎は「誰も描いたことのない絵を描いてやろう」と利口に計算して描いたのではない。「描きたかった」というわけでもなく、「描かずにいられなかった」のだろう。

 私は春信の絵を好んでいるが、どうやら湖龍斎の絵をより好んでいるようだ。それは湖龍斎の方に「暖かき心の感銘」と「生けるものの愛」があるからだろう。動物の絵にはそれが率直に出ている。湖龍斎の手から奇妙かつ多彩な絵が生まれたのは、ほかの絵師にはない個性と審美眼、そして何でも水準以上にこなせる才能があったからである。錦絵や肉筆画の表現の可能性を広げるという大義があったわけではないだろう。結果的に、「また、こんな絵が生まれてしまいました」という感じで描いていたのだ。その巧まざるおかしみが、私にはたまらないのである。
(阿部十三)


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