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セバスチャン・カステリオンの話

2022.08.15
青年時代

Sebastien Castellion a1
 セバスチャン・カステリオンは宗教改革の指導者ジャン・カルヴァンを糾弾した16世紀の神学者である。今日、この人の名前を知る機会はほとんどない。日本ではシュテファン・ツヴァイクの『権力とたたかう良心』か、渡辺一夫の『ヒューマニズム考』を読んだ人が話題にする程度だろう。

 カステリオンは1515年にフランスとスイスの国境地帯に生まれた。リヨン大学で学び、広範な知識を身につけた後、宗教改革に情熱を捧げるようになり、尊敬するカルヴァンが住むストラスブールへ。1541年、カルヴァンはジュネーヴの統治者になるにあたり、優秀で従順そうなカステリオンを神学校の教師として招き、カステリオンはその期待に応えた。

 しかし、カステリオンが聖書のフランス語訳を出そうとした時、状況が一変する。カルヴァンは自分の血縁者が訳した仏語版の聖書以外は不要と考えていたのである。カステリオンは話し合いを望んだが、カルヴァンに拒絶され、神学校を辞任(1544年)。精神的自由の代表者だと思っていた人物は、何事にも盲従を強いる独裁者だった。カステリオンはジュネーヴ内での転職を妨害されると、バーゼルへ行き、書店で校正をしたり、大学でギリシャ語を教えたりして糊口をしのいだ。

セルヴェートの処刑

 そんな時に事件が起こる。事件の中心となった人物は、医学、数学、地理学などに通暁していたスペイン出身の神学者ミゲル・セルヴェート。彼は三位一体説に否定的な態度を取り、異端審問所に目をつけられていた。カルヴァンに手紙を書き、『キリスト教綱要』の誤りを指摘したこともある。自著に難癖をつけられたカルヴァンは、1546年2月に友人のギョーム・ファレルに宛てて、こう書いている。「もしセルヴェートがジュネーヴにやって来たら、生きたままこの地を去らせることはないだろう」

 1553年、セルヴェートはキリスト教の権力体制への批判を込めた『キリスト教の回復』を秘密裏に印刷させた。印刷後、セルヴェートは変名を使い、医者として生活していたという。その頃、事もあろうに、カルヴァンはセルヴェートから送られた手紙や著書の一部をカトリックの異端審問所に提供した。仲介者はカルヴァンの側近ギョーム・ド・トリーである。セルヴェートは異端者としてヴィエンヌで逮捕された。

 逮捕後まもなく脱獄したセルヴェートは、なぜかジュネーヴに姿を現した。罠にはめられたのだろうか。即刻逮捕されたセルヴェートは獄中で残酷な扱いを受けた。ヴィエンヌ側は罪人の身柄を引き渡すように要請したが、カルヴァンは己の統治下で処刑するつもりだった。スイスの教会会議はカルヴァンの意向を汲みつつも、「キリスト教を信じる参事会にふさわしいと思われる方法で刑罰を」と意見した。しかしその声も虚しく、1553年10月26日、セルヴェートは死刑を宣告され、翌日シャンペルの広場で生きながら火刑に処された。

カステリオンのたたかい

 教義に批判的な態度を取ることは、死に値することなのか?
 宗教改革派による最初の宗教的殺人が物議を醸す中、マルティヌス・ベリウスという人物が書いた『異端者論』が人々の手に渡り、ジュネーヴにも出回りはじめた。ベリウスは「異端者というレッテルは、今日、ひどく不面目で忌まわしく、恐ろしいものとなった。誰かが自分の敵を片付けたいと思ったら、相手を異端者として告発するのが何よりも簡単な方法となっているほどだ」と書き、異端者とは何なのか、本当に処刑されるべきなのか冷静に考えるべきだと説いた。この著者ベリウスこそが、セバスチャン・カステリオンであった。

「もしキリストがこの世におられたなら、その信者たちがたとえ幾つかの小さな点で過ちをおかしたり、あるいは間違った道に足を踏み入れたとしても、彼らを殺せ、とはお命じにならないだろう」

 さらにカステリオンは本名で『カルヴァンの小冊子を駁す』を書き、己の非を認めないカルヴァンへの反駁を行った。何の資格があってカルヴァンは「死刑を宣告する独占的な権利を備えた最高の審判官」の座についているのか。カルヴァンはなぜ論争を仕掛けてきた人間を処刑させたのか。カステリオンは論理的かつ周到に、なおかつ怒りを込めて、切り込んだ。そしてカルヴァン自身が書いた『キリスト教綱要』の初版本に書かれていた次の言葉を、カルヴァンに投げかけた。

「異端者を殺すことは犯罪である。処刑刀や火焔によって異端者を亡きものとすることは、人間性のあらゆる原理を否定することに他ならない」

 当時は、カステリオンのように宗教的寛容の立場を明示することは困難な時代だった。宗教的寛容と聞いて多くの人が思い浮かべるであろうヴォルテールの『寛容論』が書かれるのは、200年後(1763年)のことである。

妨害と死

 しかし、『カルヴァンの小冊子を駁す』の出版は妨害された。事前に情報を得たカルヴァン側がバーゼル市に苦情を申し入れたのだ。カルヴァンによる厳格な統治は続いた。1555年には、ジュネーヴ内の反抗分子(政治的リベルタン)を弾圧。その際、死刑宣告を受けたコンパレ兄弟は死刑執行人のミスのため一度で斬首されず、何度も斬首が繰り返され、惨憺たる光景となった。このことに関して、カルヴァンはファレルにこう書き送っている。「コンパレ兄弟が死刑執行人の手から長い責め苦を受けたことは、神の特別なお裁きがなくてはあり得ないと私は確信している」

 カルヴァンに忠実な神学者テオドール・ド・ベーズは、バーゼルにいるカステリオンに照準を定め、誹謗中傷活動を広めた。カステリオンが投獄されるのは時間の問題だったろう。そうなる前に、病気で亡くなったのはせめてもの救いだった。命日は1563年12月29日である。

 その11年後、カルヴァンも亡くなると、カルヴィニズムの厳格な全体主義的傾向を疑問視する動きが起こり、オランダの神学者によってカステリオンの著作が紹介されるようになった。とはいえ、ルター、カルヴァンに比べると、知名度は低い。プロテスタントの歴史を語る上で、厳格であろうとしたカルヴァンと、人間的であろうとしたカステリオンの対立は、普遍的なテーマとしてもっと取り上げられるべきだろう。

 『権力とたたかう良心』はカステリオン入門書である。出版されたのは1936年。ツヴァイクはナチスによる思想弾圧を念頭に置いて書いた。そのため、この著書は歴史書というよりは反ファシズムの精神に貫かれた箴言の書となっている。そして、ファシズムの種子はいつどこにでもあること、「世界観の対立を目に見える形として解決するために、歴史が人類の何百万大衆の中から、ある単独の人間、天才でも何でもない人間を選び出すことがよくある」ことを我々に教える。その普遍性とメッセージ性ゆえ、16世紀の異国の神学者の話が他人事とは思えない。

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