ヴィクトール・E・フランクルの言葉 〜意味のない命はない〜
2022.12.16
一時期、私は心身共に疲れ、大好きな読書もできない日々が続いていた。あの頃、彼に出会えていたら、もっと早く前を向くことができたかもしれない。
彼の名前はヴィクトール・エミール・フランクル。オーストリア生まれの精神科医、神経科医である。ユダヤ人だったため、1942年(37歳)に強制収容所に連行され、両親、兄、妻を殺害された。妻のお腹の中にいた子供も、収容所へ送られる前にナチスにより堕胎させられている。戦後生き残ったフランクルは仕事に復帰し、病院に勤務する傍ら多くの講演を行った。再婚し、子供と孫に恵まれ、1997年に92歳で亡くなったが、著作とロゴセラピーの手法は、彼の言葉を借りれば、永遠にこの世に「放射」されている。
タイトルに惹かれ、講演集『それでも人生にイエスと言う』を読んだのが出会いだった。タイトルの元となったのは、ブーヘンヴァルト強制収容所の中で囚人だったヘルマン・レオポルディとフリッツ・レーナー=ベーダが作った歌である。常に死と隣り合わせで、飢え、眠れない環境下でも、人生にイエスと言う人たちがいたのだ。
この著作では、肉体や心の病気を抱える人たちを安楽死させるべきだという意見への反論が行われている。治癒の見込みがなく、何の役にも立たないとされる精神病患者は安楽死させるべきなのか。フランクルは否と言う。「いつまで不治だとみなされるかはだれにもわからない」し、実際に「不治だと考えられていて完治した精神病患者」もいるのだ。そもそも、「ごくわずかな不治の患者を殺害するという手段に頼らざるをえないほど、経済的に悪化している国家は、経済がどっちみちとうの昔にだめになっている」のではないか。このように主張し、権力者に利益をもたらさない人間にも価値があると訴えた。
自殺企図者を生かすのは、運命に抗う医者の越権行為だと非難する人に、フランクルは「手をこまねいてなにもしない医者のほうこそ運命をもてあそぼうとしている」と応えた。医師とは命を救う者だという信念を貫いたのだ。そして、傷ついて進むべき道を見失った人、生きている意味を疑って絶望している人に、こう説いた。
「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っています。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです」
フランクルが重んじたのは、人生に何かを期待することではなく、楽しみのために生きることでもなく、「自分は人生から何を期待されているか」を熟慮し、真摯に人生に向き合うことだった。別の箇所には、「世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だというのも(中略)論理的に同じく正当、不当ということ」とも書かれている。私はこれを読み、全てが無意味に思えてしまう瞬間があっても、全てが有意味だと思える瞬間もきっと来ると信じたくなった。
続いて、『夜と霧』を読んだ。9日間で口述筆記され、1946年に出版されたフランクルの代表作である。
強制収容所のような環境下では、人は自我の「価値低下を経験せざるを得」ず、「自分を喜ばすことを忘れて」しまう。しかしそこで、フランクルは生死不明だった妻の精神と語らい、生き抜いていく。
「彼女と結婚した短い期間、この幸福はわれわれがここで体験しなければならなかったすべてのものを償って余りあった」
このことから、生きていくのに必要なのは、愛されることではなく、愛することだと知る。死には愛を消す力はない。フランクルは自殺を考える囚人仲間に、いつか、どこかで、誰か、あるいは、何かがあなたを待っていると伝えた。自殺を思いとどまった人たちは、その後家族と再会したり、仕事を得たりして、生きる喜びを味わうことになる。
戦後、フランクルはナチスの集団的責任を問わなかった。収容所の内外を問わず、この世には「品位ある善意の人間とそうでない人間」が存在する。人間は変容する生き物だ。いつどちらの側にもつくことができる。こうした考え方に反発する人は少なくなかった。しかし、フランクルは自分たちを傷つけた者を憎まず恨まない姿勢を貫き、憎しみの連鎖を止めようとした。
『生きがい喪失の悩み』
講義・講演録『生きがい喪失の悩み』では、「まことの運命を正しく誠実に受苦すること」の大切さが説かれている。それはシンプルなようで難しい。まことの運命が苦しみに満ちているとしたら、そんな人生に意味はあるのか。「生きる意味を問うてはならない」と言われても、つい問いたくなる。
それでは全て無意味なのか。いかなる意味も信じるに値しないのか。その考えはすぐに打ち砕かれるだろう。なぜなら、「ほんとうにもはや何らの意味をも信じないとしたら、そもそも指を動かすこともできず、そのことだけからしても自殺に取りかかることはできない」のだから。
苦難の尽きない世の中で苦しみ悩むのは、異常なことではない。苦悩にも、痛みにも意味はある。困難に耐えていることにも意味がある。各自に与えられた苦しみは、その人だけのものだ。そしてそれらに対してどういう態度を取るかは、自由に決めることができる。いつかフランクルや強制収容所を生き抜いた人のように、「かくも悩んだ後には、この世界の何ものも......神以外には......恐れる必要はない」と感じられる日が来る。その時まで「責任ある行為によって、私たちは人生に答える」のだ。
『虚無感について』
『虚無感について』は2015年にようやく翻訳・刊行された論文集である。この中で、虚無主義者とは自暴自棄になり、周りにあるものを破壊してもいいと考える空虚な存在として規定されている。そんな存在に虐げられるのは悔しい。全ての命に価値があるという信念は、虚無主義よりも強いと私は信じたい。
誰の言葉も、届かない時がある。耳を塞ぎ、小さくなってやり過ごすこともある。でもそうすることに飽きたのなら、今までに見たことがなかったものを見ることができる。今、この瞬間の意味が分かる。
駆け足で名著を紹介したが、かつての私のように本を読む気力もなくした人の元へも、彼の言葉が届くことを願っている。
彼の名前はヴィクトール・エミール・フランクル。オーストリア生まれの精神科医、神経科医である。ユダヤ人だったため、1942年(37歳)に強制収容所に連行され、両親、兄、妻を殺害された。妻のお腹の中にいた子供も、収容所へ送られる前にナチスにより堕胎させられている。戦後生き残ったフランクルは仕事に復帰し、病院に勤務する傍ら多くの講演を行った。再婚し、子供と孫に恵まれ、1997年に92歳で亡くなったが、著作とロゴセラピーの手法は、彼の言葉を借りれば、永遠にこの世に「放射」されている。
『それでも人生にイエスと言う』
タイトルに惹かれ、講演集『それでも人生にイエスと言う』を読んだのが出会いだった。タイトルの元となったのは、ブーヘンヴァルト強制収容所の中で囚人だったヘルマン・レオポルディとフリッツ・レーナー=ベーダが作った歌である。常に死と隣り合わせで、飢え、眠れない環境下でも、人生にイエスと言う人たちがいたのだ。
この著作では、肉体や心の病気を抱える人たちを安楽死させるべきだという意見への反論が行われている。治癒の見込みがなく、何の役にも立たないとされる精神病患者は安楽死させるべきなのか。フランクルは否と言う。「いつまで不治だとみなされるかはだれにもわからない」し、実際に「不治だと考えられていて完治した精神病患者」もいるのだ。そもそも、「ごくわずかな不治の患者を殺害するという手段に頼らざるをえないほど、経済的に悪化している国家は、経済がどっちみちとうの昔にだめになっている」のではないか。このように主張し、権力者に利益をもたらさない人間にも価値があると訴えた。
自殺企図者を生かすのは、運命に抗う医者の越権行為だと非難する人に、フランクルは「手をこまねいてなにもしない医者のほうこそ運命をもてあそぼうとしている」と応えた。医師とは命を救う者だという信念を貫いたのだ。そして、傷ついて進むべき道を見失った人、生きている意味を疑って絶望している人に、こう説いた。
「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っています。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです」
フランクルが重んじたのは、人生に何かを期待することではなく、楽しみのために生きることでもなく、「自分は人生から何を期待されているか」を熟慮し、真摯に人生に向き合うことだった。別の箇所には、「世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だというのも(中略)論理的に同じく正当、不当ということ」とも書かれている。私はこれを読み、全てが無意味に思えてしまう瞬間があっても、全てが有意味だと思える瞬間もきっと来ると信じたくなった。
『夜と霧』
続いて、『夜と霧』を読んだ。9日間で口述筆記され、1946年に出版されたフランクルの代表作である。
強制収容所のような環境下では、人は自我の「価値低下を経験せざるを得」ず、「自分を喜ばすことを忘れて」しまう。しかしそこで、フランクルは生死不明だった妻の精神と語らい、生き抜いていく。
「彼女と結婚した短い期間、この幸福はわれわれがここで体験しなければならなかったすべてのものを償って余りあった」
このことから、生きていくのに必要なのは、愛されることではなく、愛することだと知る。死には愛を消す力はない。フランクルは自殺を考える囚人仲間に、いつか、どこかで、誰か、あるいは、何かがあなたを待っていると伝えた。自殺を思いとどまった人たちは、その後家族と再会したり、仕事を得たりして、生きる喜びを味わうことになる。
戦後、フランクルはナチスの集団的責任を問わなかった。収容所の内外を問わず、この世には「品位ある善意の人間とそうでない人間」が存在する。人間は変容する生き物だ。いつどちらの側にもつくことができる。こうした考え方に反発する人は少なくなかった。しかし、フランクルは自分たちを傷つけた者を憎まず恨まない姿勢を貫き、憎しみの連鎖を止めようとした。
『生きがい喪失の悩み』
講義・講演録『生きがい喪失の悩み』では、「まことの運命を正しく誠実に受苦すること」の大切さが説かれている。それはシンプルなようで難しい。まことの運命が苦しみに満ちているとしたら、そんな人生に意味はあるのか。「生きる意味を問うてはならない」と言われても、つい問いたくなる。
それでは全て無意味なのか。いかなる意味も信じるに値しないのか。その考えはすぐに打ち砕かれるだろう。なぜなら、「ほんとうにもはや何らの意味をも信じないとしたら、そもそも指を動かすこともできず、そのことだけからしても自殺に取りかかることはできない」のだから。
苦難の尽きない世の中で苦しみ悩むのは、異常なことではない。苦悩にも、痛みにも意味はある。困難に耐えていることにも意味がある。各自に与えられた苦しみは、その人だけのものだ。そしてそれらに対してどういう態度を取るかは、自由に決めることができる。いつかフランクルや強制収容所を生き抜いた人のように、「かくも悩んだ後には、この世界の何ものも......神以外には......恐れる必要はない」と感じられる日が来る。その時まで「責任ある行為によって、私たちは人生に答える」のだ。
『虚無感について』
『虚無感について』は2015年にようやく翻訳・刊行された論文集である。この中で、虚無主義者とは自暴自棄になり、周りにあるものを破壊してもいいと考える空虚な存在として規定されている。そんな存在に虐げられるのは悔しい。全ての命に価値があるという信念は、虚無主義よりも強いと私は信じたい。
誰の言葉も、届かない時がある。耳を塞ぎ、小さくなってやり過ごすこともある。でもそうすることに飽きたのなら、今までに見たことがなかったものを見ることができる。今、この瞬間の意味が分かる。
駆け足で名著を紹介したが、かつての私のように本を読む気力もなくした人の元へも、彼の言葉が届くことを願っている。
(海藤真奈)
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