文化 CULTURE

竹内好の問題提起 その2 〜国民文学を提唱する〜

2023.08.05
 竹内が望んだのは「素朴なナショナリズムの精神を回復」(「ナショナリズムと社会革命」『人間』1951年7月号)させることであり、それは国民文学の創造へと結びつくはずだった。ここで国民文学とは何かという話になるわけだが、これが少々厄介で、「そのものとして存在しないし、イメージをえがくことさえも、十分にはこころみられていない」(「国民文学の問題点」『改造』1952年8月号)。そのような状態で、竹内は次のように定義している。

「国民文学は、特定の文学様式やジャンルを指すのでなく、国の全体としての文学の存在形態を指す。しかも歴史的範疇である。デモクラシイと同様、実現を目ざすべき目標であって、しかも完全な市民社会と同様、実現の困難な状態である。それに到達することを理想として努力すべき日々の実践課題だ。既成のモデルで間にあうものは何もない」
(「国民文学の問題点」)

 さらに、「大衆文学と文壇文学とは同根であり、この両者を破壊することなしに国民文学は建設されない」と続け、文壇を敵と規定した。国民文学のあるべき姿とは、平たく言うと、政治権力や商業主義と結びつかず、自律性を守り、文学の国民的解放を目指すことにある。今日の文壇にそれを期待することはできない。
 竹内はこのように話を進め、無謀とも言える力技で、国民文学を論争の俎上にのせることに成功した。もっとも、竹内自身は様々な論点を整理する立場をとり、論考を発展させていない。周囲から胡散臭く思われるのは当然の成り行きで、福田恆存から「マヌーバー的」と皮肉を浴びせられたこともあった。竹内としてはまず問題提起を行い、現状を打破する機運を作り、形が整っていなくても、国民文学という用語を固定させたかったのだろう。

 国民文学は「そのものとして存在しない」としているが、何もサンプルがなかったわけではない。竹内が想定していたのは『山びこ学校』である。山形県の中学生たちが綴った生活記録を、教師の無着成恭が編集した本で、当時竹内は、「『山びこ学校』ほど、教育についての社会の関心を集めた本は、めずらしい。教育の重要さ、有効さが、感動をもって人々の胸にしみた。私もその一人である」(「教師の役割と教師の自覚」『岩波講座・教育』第八巻 1952年10月)と絶賛した。こういう作品が文壇外から生まれる一方で、文壇は今日の問題に触れず、思想性も欠如している。慰められたい、生きる力を与えられたいという読者の要求に応える気もないというのである。
 「生活と文学」(『岩波講座・文学』第一巻 1953年11月)では、「現在、日本文学が日本人の心情をすくい上げることに成功していないこと」を指摘し、その要因は創作者と享受者の相関関係がうまくいっていないことにあるのではないか、と推察している。弊害の一つとして考えられるのは、創作者と享受者の間に挟まっている「ジャーナリズムという無人格の強力な意志」である。文学者はジャーナリズムの意思に従属し、民衆とのつながりを顧みなくなった。一方、民衆は貧困や因襲に覆われている中でも、自由に喜怒哀楽を表現し、欲求を満足させようとする。

「文学者は、この民衆の感情生活と、その表現欲とにたいして、責任を負わねばならぬ。時代の一切の文学的表現にたいして責任を負わねばならぬ。いわゆる文学作品ばかりでなく、法律の条文であろうと、官庁の公文書であろうと、学術論文であろうと、一切の文字による表現についてそのもたらす文学的効果は、文学者の責任事項である。それは民衆の感情生活となにがしかの関係を保つことだからである」
(「生活と文学」)

 「社会と文学」(『文学』1954年3月号)では、「戦後の解放によって獲得した文学の進歩の保障」がだんだん怪しくなり、「文学における自由の範囲」を狭められていることへの危惧を表明している。当時の秘密保護法、警察による思想調査、雑誌の読者調査、憲法改正への動きなどにきな臭さを感じ、圧力がかかってくるのを感じたのである。「恐怖と無力感」(『中央公論』1954年8月号)では、次のように考察している。

「われわれ国民が困ることは、いまの政治権力が、国民に向って政治の目標を示さないことである。いったい日本をどっちの方向へ引っぱっていくつもりなのか。引っぱっていく計画があるのかないのか。(中略)理想がないのかというと、そうは見えない。講話、安保の両条約から今日の諸立法にいたるまで、あきらかに一貫した計画性が見られる。(中略)相手が説明しないから、こちらでソンタクするより仕方ないわけだが、彼らの理想が、ほぼ旧憲法の線にあることは確実であろうと想像される。したがって憲法改正が彼らにとって一つのゴールであろう。もう一つの線は、治安維持法である。反共は、アメリカの要請である以上に彼らの本能であるように思われる」
(「恐怖と無力感」)

 国民文学論は、こうした時代を背景に、文学の自律性について考えようという一種の呼びかけとして、また、権力や金によって骨抜きにされる文壇への批判として機能した。しかし、大きな力を持つには至らなかった。忌憚なく言って、国民文学論は文壇批判にウエイトを置きすぎていた。「文壇について」(『群像』1954年9月号)では、「文学を文壇から解放することが、国民文学の創造と不可欠の関係」にあり、「文壇の実態をあきらかにすることが、国民文学運動の推進のための前提条件の一つ」と明言し、「文壇的批評家」の荒正人や十返肇を向こうに回している。その論調は小気味よいが、前提条件の徹底化に終始し、国民文学自体の引き出しにはほとんど何もない。そんな状態が何年も続いていたように見受けられる。
 竹内が自ら積極的に誰かと手を組んでいれば、状況は変わっていたかもしれない。その気があれば、野間宏とは共同戦線を張ることができただろう。「私たちのめざすこの国民文学とは、現在植民地化下の日本民族の生活の苦しみや、喜び、それをはっきりと表現しそれを徹底的に解放する文学である」(「国民文学について」『人民文学』1952年9月号)と主張する野間と竹内との間に大きな考えの相違があったとは思えない。ただ、野間は日本共産党の党員であり、竹内の目から見ると、「日本共産党の綱領から借りたナマの知識」で「押しつけ教育」をしているように映ったようだ。竹内の野間に対する評価は概して高いが、国民文学論に関してはそこが不安要素となった。政治利用されることは、望ましい展開ではなかったのである。
(阿部十三)


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