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竹内好の問題提起 その3 〜日本共産党を洞察する〜

2023.08.07
 1950年1月、コミンフォルムは「日本の情勢について」という論文で、日本共産党の平和革命路線を批判した。日本共産党の指導者、野坂参三を名指しし、「アメリカ占領下の日本における平和革命路線はアメリカ帝国主義への妥協・屈服」という烙印を押したのである。それに対し、日本共産党は反論したが、結局、コミンフォルムに全面謝罪した。その有り様は、竹内の目から見ると、「権威の前にひれ伏すドレイの姿」(「日本共産党論1」)であった。
 竹内の「日本共産党論」は4部に分かれている。「日本共産党論1」(原題「日本共産党に与う」『展望』1950年4月号)で問題となっているのは、失われた主題である。主題とは、革命のことだ。コミンフォルムへの全面謝罪からは、日本共産党の「ドレイ根性」と「思想の欠如」が見てとれる。日共の中にいるインテリたちはコミンフォルムの方を向き、日本の人民を見ていない。見ていないから、正しく指導もできていない。そんな状態で、共産主義革命を起こすことなど不可能である。

「共産主義も、発生当時は、日本の革命を主題にしていた。日本の革命のために共産主義が最良の方法であるという判断から出発した。ところが、運動の過程において、手段であったはずの共産主義が目的化し、日本に共産主義を広めることが、日本の革命であると考えられるようになった。革命の主体であるはずの共産党が自己目的化し、共産党員がふえること、あるいは選挙で投票がふえることがただちに日本の革命であると観念されるようになった」
(「日本共産党論1」)

 「日本共産党論2」(原題「人民への分派行動 最近の日共の動きについて」『朝日評論』1950年6月号)では、日本の共産主義の「優等生根性」を俎上にのせている。「架空の絶対的権威へ近づきたい」という憧れを内部衝動とする日共は、人民を下に見て、「人民の意志を先取すること、むしろ人民の意志を上から規定すること」を使命とし、共産主義を実践しない。平和革命路線を打ち出し、「愛される共産党」を標榜し、俗物性を発揮して共産党員を増やしたところで、それは共産主義にはならない。理想を描くばかりで、思想がないのである。

「理想的な共産主義という架空のイメエジを主観に描いて、そこから現実を見おろしている日本的共産主義者の優等生根性と、それに劣等感を抱く民衆とのあいだには、いつまでたっても、人民の意志を集中した革命の主体が出てくるための共通の場は設定されない」
(「日本共産党論2」)

 批判の対象は日本共産党であり、共産主義ではない。竹内には、日共が「日本の革命を主題としていない」こと、「支配被支配の関係が成り立つ心理構造の上にのっかっている」こと、言行不一致で実行力を欠いていること、妥協的なのに優等生的であることが、許容できなかったのである。逆に、徹底して社会変革を進める中国共産党のことは(毛沢東のことも)評価している。後年、文化大革命が起きた時も、擁護的な立場をとった。その評価自体が正しいかどうかは疑問が残る。少なくとも今の日本で文革擁護論に耳を貸す人はあまりいないだろう。

 「日本共産党論3」(原題「政党への公開状」『改造』1950年8月号)では、日本で共産主義が実を結んでいない現状について論じている。1950年5月30日、人民決起大会の会場で占領軍関係者に対する暴行事件(五・三〇事件)が起こり、共産党系の青年たちが逮捕された。その後、6月に占領軍により『赤旗』が発行停止処分を受けた時、国民からの抗議や不満が噴出しなかったのは、戦後日本で「共産主義が国民運動として展開されなかった」からだ、と竹内は指摘する。共産主義運動が、いざというときに抵抗となってあらわれるように準備されていたら、事態は変わっていたかもしれない。

「占領五年を通じて、日本共産党は、与えられた自由を享受した。しかしその享受は、アメリカのデモクラシーの安楽椅子に坐って、足もとにむらがる大衆に説教する仕方で費やされただけであった。与えられた自由を利用したが、自身に自由は作り出さなかった。デモクラシーに甘えてもたれかかったが、デモクラシーを批判して、それを自分のものにすることは怠った。つまり、共産主義の原則は忘れていた」
(「日本共産党論3」)

 「日本共産党論4」(原題「『アカハタ』の終焉」『展望』1951年6月号)は、新聞のあり方についてのエッセイ風の論考である。戦後の新聞はセンセーショナリズムの虜になっている。『赤旗』も例外ではない。「日本ではじめてうまれた日刊の政党機関誌が、三流新聞なみのドギツさで編集」されている。欧米にはセンセーショナルな大衆新聞以外に権威ある新聞があり、中和的な役割を果たしているが、日本の新聞は「センセーショナリズム一色」だ。新聞の中立性というのも、責任を負わないための方便にしか見えない。

「私は新聞にききたい。もしも日本の滅亡に賭けるものがあるとき、新聞はその賭けにたいしても中立を保つつもりなのか。国民を狂躁に駆り立てないで、冷静に将来のことを考える余裕を与えてはもらえないものだろうか。私の欲する『理想の新聞』はそのようなものだ。そしてそれは『アカハタ』にも望みえなかったものである」
(「日本共産党論4」)

 ここまで見てきた批判は、原題からも窺えるように、非体系的になされたものであり、掲載誌もばらばらである。占領下において共産主義実現のために何ができたのか、方法を明示したわけでもない。かつて高橋和巳は「自立の精神ー竹内好における魯迅精神」(『思想の科学』1961年5、6月号)で、竹内の立場を「退きもせず、追従もせぬ永久非難者」と規定し、「その本質において、非体系的、非協調的」と評したが、そういう傾向はたしかにある。ただ、それだけではない。言行一致の精神も顕著である。筋を通すもの、誠実なものに対し、竹内は基本的に寛容だった。中共のやり方は徹底している点で肯定される。日共は徹底していない。共産主義を掲げるなら、詭弁を弄さず、ちゃんと筋を通せ、というのが竹内の主張の根底にあるように感じられる。

 竹内の日共に対する態度には、生徒を見捨てきれない教師のようなところがある。叱咤しつつも見限ってはいない。「四十周年の日本共産党」(1962年7月共同通信社配信)では、「少数党とはいえ、共産党が合法的に存在するのはよいことである。院内の活動はともかくとして、まじめな、善意の民衆のプールとしても共産党はなくては困る」と書いている。ただし、「それだけであってよいかどうかが問題」だと釘を刺すことも忘れていない。
(阿部十三)


【関連サイト】
竹内好の問題提起 その1 〜日本の近代主義を批判する〜

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