文化 CULTURE

竹内好の問題提起 その5 〜近代の超克と日本浪曼派を語る〜

2023.08.12
 1959年11月発行の『近代日本思想史講座』第7巻に掲載された「近代の超克」は、1942年に『文学界』誌上で行われたシンポジウム「近代の超克」の内容を検証した評論で、竹内の代表作の一つであり、当時大きな注目を浴びた。
 戦後、近代の超克は「戦争とファシズムのイデオロギイを代表するもの」として、知識青年たちを熱狂させ、死へと駆り立てたシンボルとして語り継がれていた。しかし、竹内に言わせると、近代の超克は「不思議に思われるほど思想的に無内容」であり、「思想形成を志して思想喪失を結果」し、戦争とファシズムのイデオロギイにならなかった。座談会は、出席者が各々言いたいことを言い、思想闘争もなく、まとまりもなく終わっている。この点を踏まえて、竹内は次のように書いている。

「おそらく『近代の超克』には『何となく僕等に解ったような解らぬような曖昧なところがある』(中村光夫)。その曖昧さの発揮する魔術的効力と、「文学界」の伝統をもってしなければ結集できない『知的協力』の最後の光鋩ともいうべき一閃のゆえではなかったろうか。事実、これ以後は敗戦にいたるまで、いかなる形でも思想形成の試みはもはや起らなかった。『近代の超克』は無内容であるが、それだけに勝手な読みがゆるされ、思想の痕跡を拡大して空虚感を埋める手がかりにすることができた。それだけにまた、一方では怨恨と憎悪の的にされ、『超克』伝説のうまれる種もみずから蒔いたのである」
(「近代の超克」)

 近代の超克は、特定の世代にとって、「複雑な反応なしに耳にし、口にすることができない」話題である。このシンポジウムに対しては、当時から批判的な声も上がっていた。日本浪曼派の蓮田善明ですら、「当代現実派の代表者達らしいたわ言」(「神韻の伝統 樋口一葉小論」『超克の美』1943年9月)と一蹴している。皆が皆、夢中だったわけではないのだ。それが戦後になって真面目に検証されず、反省されず、議論されることもなく、表舞台からは見えないところで不気味なイメージを肥大化させていった。竹内はその実体を浮き彫りにし、斬りかかったのである。
 さらに、竹内は日本浪曼派に焦点を当て、かつての同級生、保田與重郎の思想に迫っていく。実際には保田は座談会への出席を急遽キャンセルしているが、日本浪曼派といえば保田、反近代といえば保田である。阿部知二の証言(「退路と進路」『文学』1958年4月号)によると、雑誌『文学界』も日本浪曼派の影響を受け、内部ではその思想に同調する傾向が強まり、果てには「評論家として保田與重郎をもっともりっぱだとする」者までいたという。しかし、肝心の保田は座談会を欠席し、存在の影だけを残した。竹内はその影を捉え、保田與重郎とは何だったのかを検証する。

「保田の果した思想的役割は、あらゆるカテゴリイを破壊することによって思想を絶滅することにあった。(中略)彼にあって自己は定立しがたいものである。なぜなら、定立することによって自己は相対化され、他者との関係を生ずるからである。自己を無限拡大することによって自己をゼロに引き下げるのが彼の方法である。この点で彼は小林秀雄を超えていた。(中略)彼の判断は定言形式をとらない。一見、きわめて強い自己主張に見えるものが、じつは自己不在である」
(「近代の超克」)

 そして、保田の文章を次のように評している。

「天の声か地の声であるかもしれないが、人間のことばではない。まさしく『皇祖皇宗の神霊』の告げである。『朕』でさえもない。巫である。そして巫こそ、『壮大なる喜劇の主役』として、最後に登場することが『待望されていた』取っておきの役柄であった。保田はその役を見事に果した。彼はあらゆる思想のカテゴリイを破壊し、価値を破壊することによって、一切の思想主体の責任を解除したのである。思想の大政翼賛会化の地ならしをしたのである」
(「近代の超克」)

 「巫」とは言い得て妙である。保田の評論は何かを語っているようで、思想の主体者として独自なことは何も語らない。自己をゼロに引き下げ、主語のない古文書のように語る。そして、いよいよ本題に入るかというところで、はぐらかしたり飛躍したりする。テーマも視点も個性的だが、評論としては物足りない。比較的読みやすい『芭蕉』(1943年)も、評論というより国学書である。物々しく古めかしい文体を駆使し、日本の美質や日本人の素質を言い当て、読者を幻惑するが、分析力や論理性を持たせるより日本人の血に訴えることに重きを置いている。特に、思想を示す上で理論の形成は絶対条件ではないという観点で芭蕉を語るところは、非論理の威力を感じさせる好例と言えるだろう。

「芭蕉の思想の深さは、生き方と志の深さに出てゐるのであつて、その思想は、まさに正しく文藝の上に現れたのである。これがわが國の思想のあらはれ方であつて、近世の日本思想が、彼を除外しては語り得ないといふ理由はそこにある。ここで我々はわが國の思想のよみ方といふ點について考へておく必要がある。我國は、生民の原理となる大道が、萬古に一貫してゐる國で、その道が歴史だといふことを、思想の形態を考へる上でつねに念とし、その念より思想を如何によむかといふことを悟らねばならない」
(「芭蕉」)

 論理より非論理に惹かれ、哲学書より文芸から思想を得る国民性を、厳かな祭壇にのせて見せられている感じで、何か日本の深いものと繋がっているような錯覚を起こさせるかもしれないが、保田は「巫」になりきっているのである。そんな保田を批判する竹内の姿勢は、攻撃的とは言えない。自ら「相手の発生根拠に立ち入って、内在批評を試みた」(「近代主義と民族の問題」)わけでもない(それを行ったのは竹内の批評に触発された橋川文三である)。ただ、いつまで経っても保田や日本浪曼派のことを戦意高揚と散華の象徴のように言う人に対し、近代の超克と同様に「無内容である」と一刀両断にするところまでが、竹内の仕事だったのである。
(阿部十三)


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