竹内好の問題提起 その6 〜戦争責任を問う〜
2023.08.15
「近代の超克」は戦争責任論でもある。この評論が発表されたのは1959年11月、安保闘争の時期である。竹内は「近代の超克」を脱稿する前後、安保問題研究会に出席したり、安保批判の会に参加したりしていた。多くの人と同様、日本が戦争に巻き込まれるかもしれないと危惧していたからである。そんな竹内が、単なる研究対象として「近代の超克」を取り上げたとは思えない。個人的趣味で回想に耽っていたわけでもないだろう。この時期に「近代の超克」を取り上げることで、戦争がもたらす混乱と狂気を思い出させ、安保を牽制しようとした、とみるのが自然である。
竹内の戦争責任論は少し入り組んでいる。彼によると、「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一体化されていたが、論理上は区別されなければならない」。つまり、日本人が責任を負うのは、侵略戦争に対してであり、対帝国主義戦争に対しては一方的に責任を負うことはないというのである。これは二重構造論とも言われている。
責任をどう問うべきかについては、「思想が個に属するという信念は私にも抜きがたい」としながらも、個を責めるのではなく、「一度は思想を肉体からはがして、客観的なものとして、存在化する手続きを経る」べきだと説いている。しかし、近代の超克や日本浪曼派に対して行ったように、思想を肉体からはがした上で「無内容」とするならば、思想を再興させることができなくなる代わりに、個の責任も問いづらくなるような気もする。
日本では、戦中思想が徹底的に検証され、責任を問われるところまで進むことはない。竹内もそれは承知していて、本音として、「思想が個に属するという信念は私にも抜きがたい」と書いたのだろう。知識人の立場で侵略戦争に与した者たちに、自ら戦争責任を自覚し、反省することを望んでも無駄である。彼らには、自覚せよ、忘れるな、と呼びかけなければならない。おそらく、竹内はそういう思いから、「近代の超克」の終わりの方で、小林秀雄の有名な言葉を引用している。
「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省などしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
これは戦後の座談会(『近代文学』1946年2月号)で、本多秋五から戦時中の態度や立場を問われた時の発言で、大いに物議を醸した。挑発的な居直りのようにもみえるが、竹内は「居なおりではなくて『敗軍の将』の正直な心境告白」と評している。敗軍の将には兵法を語る資格はない。ただ、それなら「反省などしない」でなく、「いいわけなどしない」であるべきだったろう。小林自身は後年、座談会を振り返り、「自分の名状し難い心情を語る言葉に窮しただけで、放言なぞする積りはなかった」と説明している。
竹内がここで小林秀雄を「将」と位置付けているのは、その影響力の大きさを踏まえてのことである。小林の言葉には、どんな種類のものでも、深い意味があるのではないかと考えさせる力があった。「やんごとない教祖」(坂口安吾の「教祖の文学」より)が反省しないと言っているのだから、自分たちも反省しなくていい、と考えた追随者は少なからずいただろう。その存在の厄介さを、竹内は分かっていたはずである。「『戦争体験』雑感」(『思想の科学』1964年8月号)でも、「日本人の戦争体験は『平家物語』や『方丈記』を越えることはできない、というのが小林秀雄の先取りした戦争体験論だった。小林に名を成さしめてはなるまい」と名指しし、読者に向けて戦争体験を腐食させないよう注意喚起している。
「近代の超克」の数ヶ月後に発表した「戦争責任について」(『現代の発見』第3巻 1960年2月)では、丸山真男や鶴見俊輔が唱えた戦争責任論を踏まえ、戦争責任を「免れて恥なきもの、および免れて恥なきものを見送る輩とは、対抗する共同戦線を組んでたたかってゆきたい」と書いている。「輩」と書いている以上、それは思想ではなく、肉体を持つ存在である。ここで、はっきりと戦う姿勢が示された。
竹内自身の戦争責任はどうなのだろうか。
竹内の戦争責任論は少し入り組んでいる。彼によると、「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一体化されていたが、論理上は区別されなければならない」。つまり、日本人が責任を負うのは、侵略戦争に対してであり、対帝国主義戦争に対しては一方的に責任を負うことはないというのである。これは二重構造論とも言われている。
責任をどう問うべきかについては、「思想が個に属するという信念は私にも抜きがたい」としながらも、個を責めるのではなく、「一度は思想を肉体からはがして、客観的なものとして、存在化する手続きを経る」べきだと説いている。しかし、近代の超克や日本浪曼派に対して行ったように、思想を肉体からはがした上で「無内容」とするならば、思想を再興させることができなくなる代わりに、個の責任も問いづらくなるような気もする。
日本では、戦中思想が徹底的に検証され、責任を問われるところまで進むことはない。竹内もそれは承知していて、本音として、「思想が個に属するという信念は私にも抜きがたい」と書いたのだろう。知識人の立場で侵略戦争に与した者たちに、自ら戦争責任を自覚し、反省することを望んでも無駄である。彼らには、自覚せよ、忘れるな、と呼びかけなければならない。おそらく、竹内はそういう思いから、「近代の超克」の終わりの方で、小林秀雄の有名な言葉を引用している。
「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省などしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
(「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)
これは戦後の座談会(『近代文学』1946年2月号)で、本多秋五から戦時中の態度や立場を問われた時の発言で、大いに物議を醸した。挑発的な居直りのようにもみえるが、竹内は「居なおりではなくて『敗軍の将』の正直な心境告白」と評している。敗軍の将には兵法を語る資格はない。ただ、それなら「反省などしない」でなく、「いいわけなどしない」であるべきだったろう。小林自身は後年、座談会を振り返り、「自分の名状し難い心情を語る言葉に窮しただけで、放言なぞする積りはなかった」と説明している。
竹内がここで小林秀雄を「将」と位置付けているのは、その影響力の大きさを踏まえてのことである。小林の言葉には、どんな種類のものでも、深い意味があるのではないかと考えさせる力があった。「やんごとない教祖」(坂口安吾の「教祖の文学」より)が反省しないと言っているのだから、自分たちも反省しなくていい、と考えた追随者は少なからずいただろう。その存在の厄介さを、竹内は分かっていたはずである。「『戦争体験』雑感」(『思想の科学』1964年8月号)でも、「日本人の戦争体験は『平家物語』や『方丈記』を越えることはできない、というのが小林秀雄の先取りした戦争体験論だった。小林に名を成さしめてはなるまい」と名指しし、読者に向けて戦争体験を腐食させないよう注意喚起している。
「近代の超克」の数ヶ月後に発表した「戦争責任について」(『現代の発見』第3巻 1960年2月)では、丸山真男や鶴見俊輔が唱えた戦争責任論を踏まえ、戦争責任を「免れて恥なきもの、および免れて恥なきものを見送る輩とは、対抗する共同戦線を組んでたたかってゆきたい」と書いている。「輩」と書いている以上、それは思想ではなく、肉体を持つ存在である。ここで、はっきりと戦う姿勢が示された。
共同戦線は組まれなかったが、鶴見や丸山とは歩みを共にしていた(鶴見らが立ち上げた『思想の科学』と深く関わり続けた)。新安保が強行採決されると、竹内はそれまで教鞭を執っていた東京都立大を去った。総理大臣による憲法無視への抗議の意を込めた辞任である。それに続き、鶴見も東京工大を辞めた。鶴見の決断は、竹内を孤立感から救い出したという。その後、竹内は安保闘争を検証し、「戦争体験の一般化について」(『文学』1961年12月号)で、「ファシズムと戦争の時期におこる抵抗の型」が15年遅れて顕在化したのが1960年の反対運動であり、これもまた戦争体験と考え得ると主張したが、建設的な議論には発展しなかった。
「大東亜戦争と吾等の決意」(『中国文学』第80号 1942年1月)では、対帝国主義の戦争を支持することを表明し、それと同時に、「支那を愛し、支那を愛することによって」生命を支えられてきた者として、支那事変に疑惑を抱いていたことを吐露している。日本文学報国会が開催した大東亜文学者大会には、中国文学者として参加を求められながらも2年連続で辞退し、距離を置き続けた。この政治的な大会に参加しなかったことが、当時周囲に好ましい印象を与えなかったことは想像に難くない。しかも、欠席理由について、「報国会へ出るより中国文学の校正をしている方が有意義だ」(「大東亜文学者大会について」『中国文学』第89号 1942年11月)と書いているのである。
その後(1943年1月)、竹内は党派性を喪失したことを理由に、中国文学研究会の解散と『中国文学』の廃刊を決定した。といっても、書くことをやめたわけではない。『支那研究者の道』(『揚子江』1943年7月)では、大東亜の理念を支持しつつ、中国を日本の下に見る研究者をターゲットにし、「日本的儒教を現代支那に強要する支那学者たちは、それによって自国文化に対する自信の欠如と、現代支那文化に対する無知とを暴露している」と強く批判した。これを二重構造論に当てはめると、対帝国主義の戦争という側面については、支持者としての責任はある。植民地侵略の側面については、支持者とは言えない、ということになる。(阿部十三)
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