文化 CULTURE

べらなり 〜平安中期の日本語〜

2023.11.16
貫之の「べらなり」

 『土佐日記』は、紀貫之が女性になりすまして書いた日記文学である。ただの日記ではない。仮名で書かれた旅日記である。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとするなり」という冒頭文があまりにも有名で、それ以外は知らないという人が多いかもしれないが、無論それだけの作品ではない。日記中に収められた歌は58首(引用歌を含む)、登場する人物の歌才に合わせて作歌されている。船旅の苦労話、亡き子を偲ぶ話、笑い話もあり、歌論のような批評性もある。
 私が好きなのは、土佐国から京に着いた主人公の一行が桂川を見ながら詠んだ歌である。

 桂川 わが心にも かよはねど 同じ深さに 流るべらなり
(桂川は私の心に流れ入っているわけではないが、私が恋しく思っていた心と同じくらいの深さで流れているようだ)

 思うに任せぬ長旅を経て、ようやく京に着いた喜びが強い感情となってあらわれた歌で、技巧的にはシンプルだが、そのぶん率直な調子となっている。

 結句の「べらなり」は、平安時代に使われていた助動詞で、古今集に多くみられる。助動詞「べし」の語幹部分「べ」に接尾語「ら」が付き、形容動詞型の活用語になったもので、連用形「べらに」、終止形「べらなり」、連体形「べらなる」、已然形「べらなれ」となる。意味は、「〜に違いなさそうだ」「〜であるようだ」「〜であるらしい」という具合に推量を表す。今では見ることも聞くこともなくなった1000年以上前の死語である。

 山田孝雄著『平安朝文法史 改版』には、「『べら』は延喜前後の流行語と見ゆ。而して『べらなり』とのみいふ」とある。貫之という才能溢れる歌人が「べらなり」を多用したことで、影響力を持ったのだろう。延喜年間は901年から923年、延長年間は923年から931年、『土佐日記』が成立したのは935年頃(承平5年頃)なので、その寿命の長さをみても、単なる流行語とは言えない。
 次に挙げるのも『土佐日記』の歌で、連体形「べらなる」が用いられている。

 見渡せば 松の末(うれ)ごとに 住む鶴は 千代のどちとぞ 思ふべらなる
(海浜一面を見渡すと、松の梢ごとに鶴が住んでいる。鶴は松のことを千年変わらぬ友と思っているようだ)

 立つ波を 雪か花かと 吹く風ぞ よせつつ人を はかるべらなる
(風が吹くと波が起こり、まるで雪か花かと見間違うが、吹き寄せてくるこの風こそが、人の目を騙しているようだ)

 また、1月11日の日記には、読み人知らずの歌の下の句「数は足らでぞ 帰るべらなる」が引用されている。これは実際に土佐で我が子を失った貫之が深い共感を寄せていた歌で、全文は次のようになっている。

 北へ行く 雁ぞ鳴くなる つれてこし 数は足らでぞ 帰るべらなる
(北へ帰る雁が鳴いている。来た時より、数が足らなくなって帰っていくらしい)

 「べらなり」を積極的に使用し、リードしていたのは貫之だが、『古今集』には遍昭僧正、凡河内躬恒、 素性法師、伊勢、在原行平、在原元方といった人たちが詠んだ歌も収録されている。そのうちの代表例として、素性法師が詠んだ歌を挙げておく。人間らしい実感のこもった、いつの時代にも通じる秀歌である。

 いづこにか 世をばいとはむ 心こそ 野にも山にも 惑ふべらなれ
(どこにこの世を疎んじて逃れたらよいのか。身を隠す所はあっても、私の心は山にも野にも落ち着かず、さ迷うことだろう)

忌避される「べらなり」

 このように盛んに活用されていた言葉も、200年後には古いものとみなされ、使用を戒められるようになる。平安後期に書かれた有名な歌論書『俊頼髄脳』(1111年〜1115年頃成立)で、源俊頼は「べらなり」について、このように記している。

「歌の用語に、『らし』『かも』『いも』『べらなり』『まにまに』『いまはただ』『みわたせば』『ここちこそすれ』『わびしかりけり』『かなしかりけり』『つつ』『そも』などがある。これらは漫然とは詠んではいけないと昔の歌人たちが戒めたと聞いている。(中略)『べらなり』という言葉は、本当に古めかしい表現なので、当世では耳慣れないように聞こえる」

 さらに、元永元年十月二日内大臣忠通歌合では、源俊頼は藤原基俊と共に判者を務め、残菊の題で詠まれた歌を2首並べ、「べらなり」を用いた歌を負けとしている。

   左   上総公
 紫に匂へる菊は万代のかざしのために霜や置きつる


   右   俊頼朝臣
 おのづから残れる菊を初霜は我置けばとぞ思ふべらなる


 俊頼の評には「『べらなる』という言は、末の世には聞きもつかずと人々申さるれども、さる事と聞こゆとて、左の勝とす(時代の下った当世では耳慣れないと人々は言うが、もっともなことだ)」とあり、藤原基俊の評には「『おのづから残れる菊』などいへる、終(は)ての『べらなる』も、いかなることの文字つづきにかあらむと聞きなれぬやうに覚ゆ」とある。要するに、「べらなる」という言葉を使うことには違和感があると言うのだ。

 奇妙なのは、「おのづから〜」の歌を詠んだのが俊頼自身だったという点である。歌合が行われた元永元年(1118年)にはすでに『俊頼髄脳』が成立していたはずなので、よほどそそっかしい人でなければ、無自覚に「べらなる」を用いるわけがない。おそらく俊頼は「べらなる」の使用を戒めるために、公の場でわざと負け戦を仕掛けたのだろう。「末の世には聞きもつかずと人々申さるれども」とは、なんとも白々しい。

 なぜそこまでして「べらなり」を忌避したのか。単に言葉が古くなり、使う人が少なくなったからという理由では、腑に落ちない。もしかすると、俊頼は貫之のことを嫌っていたのだろうか。どうもそういうわけではないらしい。ヒントは、先ほど引用した『俊頼髄脳』の続きにある。そこでは、「いも」の使用も戒められているが、それについて俊頼はこのように記しているのだ。

「『妹(いも)』という歌語などは、どうして使ってはいけないのかと不審に思い、かれこれ意見を聞き集めてみると、しっくりこない理由は、『思ひかね 妹がりゆけば 冬の夜の 川風寒み 千鳥なくなり』という貫之の素晴らしい歌があり、『妹』と聞くと、貫之の歌が耳に入るように感じられるからだ、とある人が言っていた」

 俊頼がどの程度意見を集めたのかは知る由もない。「ある人」が誰なのかもわからない。ただ、この説明に沿って考えると、後世の人が「べらなり」を用いると、古今集の歌人、とりわけ貫之の亜流ないし模倣のように聞こえる、ということになるだろう。

 とは言うものの、「べらなり」は語感が面白く、インパクトがあり、耳慣れない感じが、現代人にはむしろ新鮮である。1000年以上前に死語となった日本語が復活するとは考えにくいが、そういった言葉を活用した詩や短歌が出てきたら、創造的な試みとして私は歓迎したい。
(阿部十三)


【関連サイト】


[参考文献]
萩谷朴編『平安朝歌合大成 第六巻』(1962年8月 萩谷朴)
橋本不美男ほか校註・訳『歌論集』(2002年1月 小学館)
山田孝雄著『平安朝文法史 改版』(1952年1月 宝文館)
橋本進吉著『助詞・助動詞の研究(講義集 三)』(1969年11月 岩波書店)
品川和子訳注『土佐日記』(1983年6月 講談社)
西山秀人編『土佐日記(全)』(2007年8月 角川書店)
森野宗明ほか著「古典を読むための助動詞セミナー」(『國文学 解釈と教材の研究』1984年6月臨時増刊号 学燈社)

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