正宗白鳥論 〜小説について〜
2024.10.17
優劣をつけない
白鳥の小説は虚無的だと言われる。虚無とは便利な言葉である。そのように言っておけば、なんとなく白鳥の本質を言い当てたような気になれる。しかし、何がどう虚無的なのかはっきりしないし、批評として簡単すぎる。ここではなるべく具体的かつ簡潔に、白鳥文学の特徴を明示したい。
まず、白鳥の小説には甘さや哀れさがほとんどない。たとえ救いのない話でも、そこまで悲惨に見えない。作者が主人公の気持ちに対し距離をとっているだけでなく、主人公の人生を悲惨なものと断定していないのである。楽しそうな人生に見えるものも、楽しいものと断定しない。その執筆態度は処女作『寂寞』や出世作『塵埃』から変わらない。
『寂寞』では、色恋で身を持ち崩した湯本と、優等生として出世する澤谷が対比されるが、湯本のことを哀れに描かず、むしろ澤谷が奔放な湯本を羨む展開となっている。『塵埃』でも、新聞社の校正係である25歳の「予」と、30年以上真面目に勤めている出世と無縁な同僚・小野が対比される。「予」は小野を飲みに誘うが、本当は酒好きでなく、ろくに酔えない。一方、小野は酒が好きで、職場での様子と異なり、楽しそうである。味気ない人生を送っている敗残者のように見えて、酒に酔って愚痴るという平凡な平和を享受している。「予」は「己れには将来がある」と自分を慰めるが、小野と比べ、どちらが優越しているとは言えない。
『二家族』では、勤勉な清吉と甲斐性なしの喜助を比べ、清吉の家が繁栄し、喜助の家が没落していく様を、少年(清吉の息子)の目を通して描いている。少年は明らかにドン・キホーテ的な喜助に同情的である。『入江のほとり』の中心人物は、活動的な兄の栄一と内気な弟の辰男。栄一は辰男のことを自分一人の世界に閉じこもった低脳児のようにみなしている。しかし、最終的には「低脳児とも変人とも思われない」と見直し、自分一人の世界を持っている辰男の生き方を否定しないところで終わる。未完の伝奇小説『日本脱出』では、人間の体を失って獣の体になっても、それは別に惨めなこととは言い切れないし、「心の中の屈託がなくなって、平和そのもののような感じがする」側面もあるという境地を示している。
二つの異なる世界観、価値観を示し、どちらにも与しない。こういう書き方から読み取れるのは、俗世に住む人間の人生を幸せだとか不幸せだとか、偉いとか偉くないとか、長生きしたから良いとか自殺したから悪いという風に、安易に優劣をつけることを、よしとしない精神である。白鳥は「人間が如何に評価されようとも、竟に憐れな人間である事に甲乙はないという信念を生涯動かさなかった」(小林秀雄『正宗白鳥の作について』)。その精神を虚無的とは言わない。
恐怖する人
白鳥の小説は、心理描写が恬淡としていて、情緒纏綿とは言い難い。「詩がない」(『青春らしくない青春』)とまでは言わないが、たしかに『何処へ』や『泥人形』の主人公のように木石にしか見えない人物の言動からは、情感を感じ取りにくい。しかし、そんな彼らでも己を憐んで泣いたり、幸福を求め随喜の涙にむせびたいと願ったりしている。それはほんの一瞬の出来事だが、彼らにも人間的な欲望があることを示す重要な箇所である。
「電車は本郷本所行だった。廣小路で下りて、角のビアホールへ入って、温かい珈琲を飲みながら、雨に包まれて、何処か深沈(しめやか)な外の騒ぎを見て心をそそられていた。幸福を求むるの情が留度なく起った。日々に月々に物足らない思いを忘れて、随喜の涙にむせびたかった。だが、何処へ行ったら、どうしたら、と志す当てもなかった」
主人公の重吉が「幸福を求むるの情」を実践しないのは、冷淡だからでも虚無的だからでも理性的だからでもない。恐れているからである。幸福とは喪失のリスクを伴うものだ。恋愛も結婚もそのリスクと無縁ではない。白鳥文学の主人公が現実的な恋愛や結婚に対して示す恬淡さは、そうした喪失の恐怖を回避するための一種の自己防衛である。新婚の重吉が妻に愛情を示さないのも、どのみち失うかもしれない結婚生活をなるべく早めに冷めたものにしようとする、一種の強迫観念に基づく態度と言える。作者による心理の説明が少ないため、重吉の人物像は奇怪にしか見えないが、彼は幸福を求めながら、幸福になる勇気がないのだ。
その恐怖体質とでも呼ぶべき特徴は、白鳥の「いわれなく物におびえる傾向」(『恐妻病』)が部分的に移入されたものにほかならない。年少時代の白鳥は虚弱だったこともあり、度々死の恐怖を感じていた。そんな彼が恐怖を経験する時のために張っていた予防線は、あらかじめ恐怖しておくことだった。
「神を恐れる、悪魔を恐れる、猛獣を恐れる、天子将軍を恐れる、強力漢を恐れる、知者を恐れる、幽霊を恐れる。目に見える物、目に見えない物、現実の世界、空想の世界に、恐るべきものが満ちあふれているように、私は感じたことがあった。それは私の頭が不健康であったためではない。恐れるのが却って健康の現われのようで、恐れぬ時は、めくら蛇に怖じずと云ったような不健康の現われのようである」
火が意味するもの
白鳥文学には燈火や火鉢が頻繁に出てくる。火の燃える様子が欲望のメタファーとなっていることが多い。例えば『塵埃』では、記者たちが「炎々たる火焔の悪どく暑くるしいストーブ」のそばで、美女が情夫を殺した事件のことを好奇心をむき出しにして話している。『名残』では、まもなく別れる女との最後の食事で鳥鍋をつつくとき、焜炉の火が鳥肉を焦付かせて未練がましく嫌な臭いを発している。『何処へ』では、健次と友人の織田が話すときには、その間に火鉢があり、ニヒルな健次の心奥にある情熱の残滓を投影するように燃えている。『地獄』では、年少時代に聖書の講義でソドムとゴモラの話を聞いた乙吉が、「長く長く火鉢の側にぢっと坐って、一圖に考え込んでいると、ソドムの町焼滅の景が一つの油絵となって心に浮ぶ」ようになる。火が神の怒りを想起させるのである。
『泥人形』では、ひどく味気ない結婚生活を送る新妻の時子が、小さな寺(お釈迦様)を見つけ、夫の愛が増すよう祈る。その際、時子が惹かれたのは仏前の燈火である。彼女の目に「奥深き仏壇の燈火は神々しく尊げに見えた」から、礼拝したのである。その後、夫が外へ遊びに行く間、時子はお寺へ行くのが習慣となり、お参りを楽しむようになる。時子はお釈迦様に慰めを見出したというより、火に魅了されているのである。
かつてガストン・バシュラールは、人類が火に抱いてきた厖大なイメージをつぶさに検証して『火の精神分析』を著し、「火とはまず初めに一般的な禁忌の対象である」と指摘した。子どもが火に触れようとしたら、大人に怒られる。そういう体験は誰もが経験するだろう。そのタブーが内面化されるというのである。前科学的精神においては、摩擦から生じる火は精液の原理でもある。18世紀前半には錬金術師が「火とはいわゆる身体ではなくて、女性的物質に生気を与える男性的原理である」と説いていた。精神分析学においても、ジークムント・フロイトが「火は男根の象徴である」と書いている。火が性欲や禁忌のメタファーとなるのは珍しいことではなく、白鳥文学も例外ではない。
間男的存在
白鳥文学ではしばしば間男的存在が描かれる。多くの作品に、主人公の恋愛、夫婦生活、性欲を阻む存在が出現する。ごく初期の作品だけを見ても、『寂寞』の乙江を口説く湯本、『何処へ』の鶴子と結ばれるであろう箕浦、『二家族』のお信と関係を持っているらしい貞一、『五月幟』のお竹を自分のものだと言い張る源と、例を挙げることができる。結婚後に書かれた『仮面』、『馬鹿の清吉』、『亡父の情人』、『人を殺したが......』などにも姦淫の匂いが漂っている。後期の『日本脱出』でも、経営者の千隈が結婚するつもりでいる美しい松野夫人(未亡人)に、千隈の若い部下である草刈が言い寄り、強引に駆け落ちするという展開を見せる。
姦淫ないし姦淫的なものにこだわるのは、幼児体験の影響である。白鳥の最初の記憶は3、4歳頃のものらしい。当時白鳥は子守に背負われて、祖父の別邸へ連れて行かれ、そこで祖父とその愛人に甘い物を貰った。それを知った祖母が激怒し、白鳥を折檻したという。次に忘れられないのは4、5歳頃の記憶。近所に住んでいた漁夫が妻と娘を殴打する光景である。白鳥はその現場を見て恐怖を覚えたが、どうやら漁夫の妻と娘が情夫を家に連れ込んでいたらしい。姦淫に関連するこの二つの事件は、白鳥にとって生涯忘れられないものとなった。
「この二つの事件は、私の幼な心に最もつよく印象された。私は先づこの二つの事件に會って、それから人生の門へ入ったように思われる」
白鳥自身は「実に平々凡々の夫婦生活を続けて来た」(『人間嫌い』)人で、繊細な夫人を思いやりながら、波乱もなく過ごしていたようだが、幼年時の記憶から逃れられなかったのである。
白鳥の小説は、心理描写が恬淡としていて、情緒纏綿とは言い難い。「詩がない」(『青春らしくない青春』)とまでは言わないが、たしかに『何処へ』や『泥人形』の主人公のように木石にしか見えない人物の言動からは、情感を感じ取りにくい。しかし、そんな彼らでも己を憐んで泣いたり、幸福を求め随喜の涙にむせびたいと願ったりしている。それはほんの一瞬の出来事だが、彼らにも人間的な欲望があることを示す重要な箇所である。
「電車は本郷本所行だった。廣小路で下りて、角のビアホールへ入って、温かい珈琲を飲みながら、雨に包まれて、何処か深沈(しめやか)な外の騒ぎを見て心をそそられていた。幸福を求むるの情が留度なく起った。日々に月々に物足らない思いを忘れて、随喜の涙にむせびたかった。だが、何処へ行ったら、どうしたら、と志す当てもなかった」
(『泥人形』)
主人公の重吉が「幸福を求むるの情」を実践しないのは、冷淡だからでも虚無的だからでも理性的だからでもない。恐れているからである。幸福とは喪失のリスクを伴うものだ。恋愛も結婚もそのリスクと無縁ではない。白鳥文学の主人公が現実的な恋愛や結婚に対して示す恬淡さは、そうした喪失の恐怖を回避するための一種の自己防衛である。新婚の重吉が妻に愛情を示さないのも、どのみち失うかもしれない結婚生活をなるべく早めに冷めたものにしようとする、一種の強迫観念に基づく態度と言える。作者による心理の説明が少ないため、重吉の人物像は奇怪にしか見えないが、彼は幸福を求めながら、幸福になる勇気がないのだ。
その恐怖体質とでも呼ぶべき特徴は、白鳥の「いわれなく物におびえる傾向」(『恐妻病』)が部分的に移入されたものにほかならない。年少時代の白鳥は虚弱だったこともあり、度々死の恐怖を感じていた。そんな彼が恐怖を経験する時のために張っていた予防線は、あらかじめ恐怖しておくことだった。
「神を恐れる、悪魔を恐れる、猛獣を恐れる、天子将軍を恐れる、強力漢を恐れる、知者を恐れる、幽霊を恐れる。目に見える物、目に見えない物、現実の世界、空想の世界に、恐るべきものが満ちあふれているように、私は感じたことがあった。それは私の頭が不健康であったためではない。恐れるのが却って健康の現われのようで、恐れぬ時は、めくら蛇に怖じずと云ったような不健康の現われのようである」
(『恐妻病』)
火が意味するもの
白鳥文学には燈火や火鉢が頻繁に出てくる。火の燃える様子が欲望のメタファーとなっていることが多い。例えば『塵埃』では、記者たちが「炎々たる火焔の悪どく暑くるしいストーブ」のそばで、美女が情夫を殺した事件のことを好奇心をむき出しにして話している。『名残』では、まもなく別れる女との最後の食事で鳥鍋をつつくとき、焜炉の火が鳥肉を焦付かせて未練がましく嫌な臭いを発している。『何処へ』では、健次と友人の織田が話すときには、その間に火鉢があり、ニヒルな健次の心奥にある情熱の残滓を投影するように燃えている。『地獄』では、年少時代に聖書の講義でソドムとゴモラの話を聞いた乙吉が、「長く長く火鉢の側にぢっと坐って、一圖に考え込んでいると、ソドムの町焼滅の景が一つの油絵となって心に浮ぶ」ようになる。火が神の怒りを想起させるのである。
『泥人形』では、ひどく味気ない結婚生活を送る新妻の時子が、小さな寺(お釈迦様)を見つけ、夫の愛が増すよう祈る。その際、時子が惹かれたのは仏前の燈火である。彼女の目に「奥深き仏壇の燈火は神々しく尊げに見えた」から、礼拝したのである。その後、夫が外へ遊びに行く間、時子はお寺へ行くのが習慣となり、お参りを楽しむようになる。時子はお釈迦様に慰めを見出したというより、火に魅了されているのである。
かつてガストン・バシュラールは、人類が火に抱いてきた厖大なイメージをつぶさに検証して『火の精神分析』を著し、「火とはまず初めに一般的な禁忌の対象である」と指摘した。子どもが火に触れようとしたら、大人に怒られる。そういう体験は誰もが経験するだろう。そのタブーが内面化されるというのである。前科学的精神においては、摩擦から生じる火は精液の原理でもある。18世紀前半には錬金術師が「火とはいわゆる身体ではなくて、女性的物質に生気を与える男性的原理である」と説いていた。精神分析学においても、ジークムント・フロイトが「火は男根の象徴である」と書いている。火が性欲や禁忌のメタファーとなるのは珍しいことではなく、白鳥文学も例外ではない。
間男的存在
白鳥文学ではしばしば間男的存在が描かれる。多くの作品に、主人公の恋愛、夫婦生活、性欲を阻む存在が出現する。ごく初期の作品だけを見ても、『寂寞』の乙江を口説く湯本、『何処へ』の鶴子と結ばれるであろう箕浦、『二家族』のお信と関係を持っているらしい貞一、『五月幟』のお竹を自分のものだと言い張る源と、例を挙げることができる。結婚後に書かれた『仮面』、『馬鹿の清吉』、『亡父の情人』、『人を殺したが......』などにも姦淫の匂いが漂っている。後期の『日本脱出』でも、経営者の千隈が結婚するつもりでいる美しい松野夫人(未亡人)に、千隈の若い部下である草刈が言い寄り、強引に駆け落ちするという展開を見せる。
姦淫ないし姦淫的なものにこだわるのは、幼児体験の影響である。白鳥の最初の記憶は3、4歳頃のものらしい。当時白鳥は子守に背負われて、祖父の別邸へ連れて行かれ、そこで祖父とその愛人に甘い物を貰った。それを知った祖母が激怒し、白鳥を折檻したという。次に忘れられないのは4、5歳頃の記憶。近所に住んでいた漁夫が妻と娘を殴打する光景である。白鳥はその現場を見て恐怖を覚えたが、どうやら漁夫の妻と娘が情夫を家に連れ込んでいたらしい。姦淫に関連するこの二つの事件は、白鳥にとって生涯忘れられないものとなった。
「この二つの事件は、私の幼な心に最もつよく印象された。私は先づこの二つの事件に會って、それから人生の門へ入ったように思われる」
(『奇怪な客』)
白鳥自身は「実に平々凡々の夫婦生活を続けて来た」(『人間嫌い』)人で、繊細な夫人を思いやりながら、波乱もなく過ごしていたようだが、幼年時の記憶から逃れられなかったのである。
(阿部十三)
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