文化 CULTURE

正宗白鳥論 〜晩年について〜

2024.11.06
内村鑑三

 正宗白鳥は22歳で教会と距離を置くようになった。1901年のことである。自筆年譜にも「この年、基督教を棄てる」と書いているので、棄教したと言って差し支えないだろう。教会から離れた理由は、キリスト教が苛烈な教えであり、その教えに耐えられないと気付いたからである。

「私の本性として、殉教にしりごみし、かつ人類愛よりも人類憎に向かって心を動かすことに気づくと、もはやキリスト教信者顔をしていられないのである」
(『生きるといふこと』)

 殉教なしには永遠の生命は得られないが、死を恐れる自分には殉教を受け入れることができない。そう思ってからは、いくら祈っても、いくら説教を聞いても、満たされなかった。やがて「殉教の強要、死後の復活、キリストの再臨」を疑い、キリスト教を放棄した。後年、白鳥は信仰を離れた時の心境について、「『あの怖い神様もおれの幻影であったのか』と、はじめて解放された喜びを感じたようなものだ」(『人間嫌ひ』)と書いている。

 そうは言いながら、「基督教を放棄して心がのびのびしたことは事実だが、一度少年期に強烈に心に浸み込んだものは、完全に拭い取れない」(『文壇的自叙伝』)とも感じていたようである。少なくともキリスト教に無関心にはなれなかった。純粋な気持ちで神を信じている人を、軽蔑するよりも羨んだ。聖書の言葉をそのまま受け入れ、「単純に、すなおに、理窟のわづらわしさに悩まされずに、教えに従う田舎者」(『生きるといふこと』)は羨望の対象だった。

 その心理が複雑な形で炙り出されているのが、1949年に発表した『内村鑑三』である。白鳥は「神経過敏で懐疑心の強そうな内村が、案外懐疑乏しく、雑作なく、神に近づいて安住しているらしいのを不思議に思い、強いて安住を装っているのではないか」と疑義を呈した。内村の心理にこだわらずにいられなかったのは、若き白鳥に「キリスト教は苛烈な教え」という考えを植え付けた張本人だからだろう。

「あの頃の私には内村第一であった。彼によって刺激され、彼によって智慧をつけられ、彼によって心の平和を得る道を見つけんとしたのであった。内村は演説がうまかった。植村(正久)の説教を聴いていると、眠くなるようであったが、内村は我々を昂奮させ、眠い眼をも醒まさせるのであった」
(『内村鑑三』)

 その内村がキリスト教を本当に信じ切っていたのか、信じ切った結果どうなったのか知りたかったのだ。白鳥は内村を批判的に眺め、検証を重ねた。その結果、強い信仰心を経て、預言者や先覚者でなく、平凡な真理に気付く凡人となった人物像が見えてきた。最終的に、白鳥はそういう内村像に親しみを覚え、論を終えている。

 1949年といえば白鳥70歳の年である。同年には『人間嫌ひ』を書き、自分の妻がキリスト教信者になったことに触れている。

「私の家の老妻の如きも、たまに神様を空想するだけでも、多少心が明るくなるし、たまに教会堂へ行って、通り一ぺんの説教を聴くだけでも、いくらか心が和かになるらしかった」
(『人間嫌ひ』)

 情緒不安定だった妻が信仰心を持ち、明るく和やかになっていることに安心している様子すらうかがえる。白鳥自身はキリスト教とはまだ距離を置いているが、突き放すような感じではない。かつて「宗教は必竟人間の弱点に投ずる一種の魔眠剤に過ぎざるべし」(『宗教小観』)と書いた白鳥は影をひそめている。

夢中になり、絶賛する白鳥

 宗教に限らず、何かに夢中になる人、信じ込む人に対し、白鳥は羨望の念を抱いていた。身近にいる人物で、その対象となったのは島村抱月、近松秋江である。白鳥は、情死した抱月のことを「生々した喜びと悩みを経験された」(『追憶記』)と見て、恋愛に溺れたり家族のことで思い悩んだりする秋江のことを「人間的体験に於いて私など遥かに凌駕している」(『秋江に就て』)と見た。貧乏や情欲に苛まれ、事業や生活に奮闘した岩野泡鳴に対しても好意的だった。端から見たら破滅的であったり悲惨であったりしても、白鳥はそうは見なかった。仕事でも思想でも恋情でも、我を忘れて信じ打ち込めるもののある人が、夢中になりたくても懐疑を拭えない人より、不幸とは思えなかった。

 『内村鑑三』と同じく1949年に書かれた未完の大作『日本脱出』は、自然主義作家としての白鳥のイメージからかけ離れた伝奇小説だ。戦時中、金持ちが地下室でパーティーを開くところから物語は始まる。トロイアの王子パリスのような美男子が横恋慕し、姦淫めいたことを描いた作品かと思わせるが、登場人物が突然鳥人間の世界に迷い込み、不条理なファンタジーになる。さらに闇動物の世界が描かれ、登場人物が人間の姿を失う。なんとも奇想天外だが、もともと白鳥は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を愛読していた人である。こういった話を書きたいという思いは以前から抱いていたのかもしれない。作者が情熱を傾け、読者に遠慮せず、作品世界にのめり込んで書いていることは伝わってくる。

 白鳥には夢中の状態に憧れながら、恥じて恐れるところがあった。しかし老境に達し、そういうことにこだわらなくなってきた。深沢七郎が『楢山節考』を発表した時も、「人生永遠の書」と評し、白鳥には珍しく絶賛した。かつて「主義に酔えず、読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己の才智にも酔えぬ」と書いた人は、酔う人になろうとしていた。『南総里見八犬伝』に夢中になり、『国民之友』に読み耽り、「軽々しく人を崇拝する癖」(『追憶記』)のあった10代の自分を、80代の自分の精神で取り戻したのである。懐疑を捨てることを選び、それを己の道としたのである。

「私は単純になった」

 白鳥は社会主義や共産主義に対して否定的ではなかったが、肩入れすることはなかった。「主義そのものを是認する気持になるような事があっても、そういう主義を振回している人には嫌悪の感」(『人生如何に生くべきか』)を持っていたからだ。

「全体、主義なんてものは、主義そのもののよし悪しばかりでなく、主義を担いでいる人間がいやだと、主義そのものもいやになるのである」
(『人生如何に生くべきか』)

 同様に、キリスト教を信じている人間がいやだと、キリスト教そのものもいやになるということはあり得る。しかるに、白鳥は内村鑑三を敬愛したが、やがて内村の「片々たる憤慨録の連続」(『内村鑑三』)にうんざりし、講演も聞かなくなった。内村心酔熱が衰えると共に、信仰からも離れた。それが老境にいたって内村のことを再検証し、親しみを覚えるようになった。それと同時に、一度離れたキリスト教への親しみも増したのである。その上、妻が入信し、和やかに明るく過ごしている。熱心に研究し、伝道まで始めている。その影響も大いに受けたはずだ。

「人は生活の上で誰の感化をよく受けているか、と訊かれる時、えらそうな人間の名を挙げたがるものだが、本当は五年十年と同棲している妻(或はそれに匹敵する女性)から受けた感化が最も重要なのではなかろうか」
(『文壇的自叙伝』)

 このような主張を踏まえると、白鳥がキリスト教に回帰する大きなきっかけとなったのは妻の入信である、と考えるのが自然だろう。山本健吉は『正宗白鳥 その底にあるもの』で、「彼(白鳥)において、信仰の甦りと見えたのは、長いあいだ潜んでいたものが表に現れたに過ぎない。すなわちそれは、彼がずっと信仰を保っていたことの証明なのである」と書いているが、山本の理論は(誠実ではありつつも)結論ありきで、白鳥が晩年になってから急に「僕は棄教したことなんかない」と言い出したことへの弁護に終始している印象がある。

 83歳になり、死を間近にした白鳥は、突然牧師を呼び、葬儀を依頼した。牧師は植村環、若き日の白鳥に洗礼を施した植村正久の娘である。植村牧師はすぐに引き受けず、「あなたのお考えをよく伺った上で」と答えた。その後、牧師は白鳥の病室を訪れ、聖書の話をするようになった。ある日、話の流れで、牧師が「先生はいまさら懐疑でもないでしょう」と言い、イエスの言葉「見ずして信ずる者は幸いである」等について話すと、白鳥は「私は単純になった。信じます。従います」と、安心しきった顔をして言ったという。

 晩年の白鳥は、神を恐れるよりも信じようとした。内村鑑三というフィルターを介してでなく、妻に倣い、「単純に、すなおに、理屈のわづらわしさに悩まされずに、教えに従う」信者にならんとしたのである。
(阿部十三)


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