文化 CULTURE

長屋王について

2025.04.02
長屋王の変

 長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の子である。生年は不詳だが、没年は神亀6年(729年)で、『懐風藻』に享年54歳とあることから、天武天皇5年(676年)頃の生まれとみられている。大宝4年(704年)に正四位上の位階を授かり、和銅2年(709年)に宮内卿、和銅3年(710年)に式部卿に任じられ、養老2年(718年)に大納言となった。藤原不比等が養老4年(720年)に亡くなった後、右大臣となり、神亀元年(724年)には左大臣に昇進。当時は聖武天皇の治世である。
 長屋王が順調に出世したのは、天武天皇の孫であること、その長男である高市皇子の地位が高かったこと、元正天皇の妹(吉備内親王)や不比等の娘(藤原長娥子)を娶っていたことなどが要因として考えられるが、長屋王自身に才知と人望がなければ、ここまで昇進することは難しかったろう。しかし、栄華は長く続かなかった。神亀6年2月10日、漆部造君足と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」(密かに呪術を学んで謀反を企てている)と密告したのだ。同月12日、長屋王は自宅を取り囲まれ、不比等の子である藤原四兄弟に追い込まれ、吉備内親王及び子らと共に自害した。いわゆる「長屋王の変」である。

 身分の高くない2人の男が持ち込んだ怪しげな話だけで、左大臣の位にある皇親を簡単に破滅させるとは、不自然な展開である。では、なぜこのようなことが起こったのか。長屋王は讒訴されたのである。天皇家を影で支配したい藤原家にとって、天武天皇の血を継ぐ正当な後継者は脅威だった。宮廷においても長屋王を支持する者は多く、このままでは藤原家の血を継ぐ聖武天皇の子でなく、長屋王と吉備内親王の間に生まれた子に皇位が移る可能性があった。神亀元年、不比等の娘であり聖武天皇の母でもある藤原宮子を「大夫人」と称するかどうかで、長屋王がその尊号を認めない立場をとり、藤原家の思惑が外れたことが火種となった、とする見方もある。
 しかし、因果応報と言うべきか、8年後の天平9年(737年)、天然痘により藤原四兄弟は全員急逝した。長屋王の祟りとみられたことは言うまでもない。さらに翌年、長屋王に恩義のある大伴子虫が、中臣宮処東人を斬り殺すという事件が起こる。

「左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫、刀を以て右兵庫頭外従五位下中臣宮処東人を斬殺す。初め子虫は長屋王に事(つか)へて頗る恩遇を蒙れり。是に至りてたまたま東人と比寮に任ず。政事の隙相共に碁を囲む。語、長屋王に及ぶとき憤発して罵る。かくて剣を引きて斬殺しつ。東人は即ち長屋王の事を誣告せし人なり」
(『続日本紀』)

 長屋王を密告した後、中臣宮処東人は無位から外従五位下を授かり、異例の出世を遂げ、褒賞を得ていた。子虫はそのことを知らなかったのかも知れない。そんな2人が仕事の合間に碁を打っている間、話題が長屋王のことに及んだ。すると、子虫は憤怒し、東人を斬り捨てた。おそらく長屋王に可愛がられていた子虫に対し、東人がそうとは知らず、讒言したことを漏らしたのだろう。「誣告」とは無実の者を陥れることを指す。「誣告」と記すことで、正史である『続日本紀』は長屋王の無罪を認めたのである。
 長屋王の叔父にあたる大津皇子も、有能な人物であったと伝えられる。『懐風藻』によると、容貌に恵まれ、文武に秀で、身分の高低にこだわらず、多くの人に慕われていたという。しかし謀反の疑いありと讒訴され、命を奪われた。持統天皇が自分の子である草壁皇子を皇太子とするために、河島皇子を使って大津を陥れたという説が根強いが、その後、大津皇子は怨霊となり、草壁皇子と河島皇子は相次いで亡くなった。長屋王もまた同じ道を歩んだと言える。

 聖武天皇は勅を発し、長屋王の遺体を城外へ捨てて焼かせ、その骨を砕いて海に捨てさせたという。遺骨は土佐国に流したが、土佐で多くの民衆が亡くなったため、人々は「親王の気に依りて、国の内の百姓皆死に亡(う)すべし」と訴えた。つまり、長屋王の怨霊の影響と考えたのである。天皇はその骨を都に近づけ、紀伊国の海部郡のはじかみの奥の島(和歌山県和歌山市沖ノ島)に移した。海に捨てた骨を本当に拾いきれたのか疑問が残るが、現在、長屋王の墓とされる古墳は奈良県生駒郡平群町梨本と和歌山県有田市初島町椒浜の2箇所にある。いずれかにきちんと祀られていると信じたい。祀らなければ怨霊は祟る。

長屋王の人物像

 長屋王邸ではしばしば文化的な詩宴が催されていた。そこで詠まれた歌や詩は『万葉集』や『懐風藻』に収められている。長屋王自身の詩もあるし、対立する前の藤原氏(房前と宇合)が詠んだ詩もある。聖武天皇や山上憶良が詠んだ歌もある。聖武天皇は奈良山の黒木で造った邸宅を気に入ったようで、「いくら居ても飽きることがない」と讃えている。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも
(奈良山の黒木で造ったこの家は、いくら居ても飽きることがない)


 寺崎保広著『長屋王』によると、長屋王邸の場所は1988年に行われた平城京左京三条二坊の発掘調査で特定され、東西約240メートル、南北約230メートル、総面積約55,000平方メートルという広大な敷地に建っていたことまで判明した。牛乳を飲んでいたことを示す木簡、鶴や犬を飼っていたことを示す木簡も出土され、当時の貴人の生活を知る重要資料となっている。ただし、長屋王の邸宅は複数あり、左京三条二坊以外にも、佐保川の辺りに「佐保宅」「作宝楼」と呼ばれる別宅を所有していた。聖武天皇の御製や藤原宇合の詩は、佐保邸で詠まれたものである。

 長屋王の性格については、その詩の平明な調子から実直であったことがうかがえる。新しい文化への興味や理解もあり、邸宅のサロンに新羅の客を招いていた。仏教を敬い、千の袈裟を造って遣唐使に託し、中国の僧に送った逸話も有名だ(『唐大和上東征伝』)。鑑真はその行いに心を動かされ、万難を排し来日したという。文武天皇の崩御を悼んで発願し、『大般若経』600巻を書写させた(長屋王願経)ことでも知られている。

 里中満智子の漫画『長屋王残照記』はよく調べて書かれた作品で、主人公を高潔で正義感が強い反面、頑固な人物として造型している。たしかに、そういう一面はあったかも知れない。広大な土地を有していたこと、天武天皇の皇孫であること、人望がありすぎたこと、融通が利かず実直すぎたことで、藤原氏に疎まれた可能性は高い。
 好意的な評ばかりではない。景戒著『日本霊異記』には、権威を笠に着た傲慢な人物として登場する。その説話によると、亡くなる2日前(天平元年2月8日)、長屋王は元興寺で営まれた大法会において、無作法な沙弥の頭を笏で打ち、それでバチが当たって「悪死」したという。しかし、その日に大法会があったという記録はなく(辰巳正明著『悲劇の宰相 長屋王』)、信憑性に欠ける。

 長屋王の人物像を知る手がかりとして、私は万葉集巻第三におさめられた歌を挙げておきたい。

磐(いは)が根のこごしき山を越えかねて音(ね)には泣くとも色に出でめやも
(岩のけわしい山を越えかねて、声を出して泣くとしても顔には出すものか)


 どんなに辛くても表に出すまいとする性格だったのだろう。ただ、こうして作歌することで、「顔には出さないけど心は辛いんだよ」と伝えているのである。真面目で取り乱さない自分のイメージを訂正しているようにも思える。
(阿部十三)


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