溝口健二 〜松竹時代の作品〜
2014.09.20
溝口作品が置かれた状況
溝口健二監督の作品は半分以上現存していないと言われている。初期の『813』(1923年)や『血と霊』(1923年)はもちろん、サイレント時代に高く評価された『紙人形春の囁き』(1926年)も『狂恋の女師匠』(1927年)も観ることはできない。同時代人による論評とスチル写真から、どんな映画だったのか想像をふくらませるほかないのだ。サイレント時代の溝口作品のクオリティは、『東京行進曲』(1929年)の不完全な修復版や『滝の白糸』(1933年)などを観る限り、驚くほど高いレベルにあったと推察されるが、そう考えれば考えるほど、むなしい気分に襲われる。1920年代の日活時代を知らない限り、溝口の演出術を完全に知ったことにはならない。必然的に、現代の溝口健二論は中途半端なものにならざるを得ない運命にある。こういった事情は、溝口ばかりでなく、伊藤大輔などにも当てはまるだろう。
周知の通り、溝口健二はその活動歴の後期にヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞や国際賞を受賞し、国際的名声を得た。受賞作品は、『西鶴一代女』(1952年)と『雨月物語』(1953年)と『山椒大夫』(1954年)である。フランスでの評価はとくに高く、フランソワ・トリュフォーもジャック・リヴェットも溝口に夢中になった。ジャン=リュック・ゴダールが好きな監督を3人挙げろという問いに対して、「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と3回繰り返したエピソードも有名である。
そんなこともあって、溝口のキャリアの頂点をその後期に置きたがる傾向は根強くある。しかし、実際には、溝口の黄金期はサイレント時代を含めて何度もあった。国際映画祭での快挙は海外におけるミゾグチ発見の鏑矢にはなったかもしれないが、日本ではとうの昔から知られた存在であり、『浪華悲歌』(1936年)も『祇園の姉妹』(1936年)も『残菊物語』(1939年)も撮っていた巨匠であったことを、私たちはまず認識しておく必要がある。
松竹時代の傑作
溝口は1939年から1950年まで松竹に在籍していた。作品としては『残菊物語』から『我が恋は燃えぬ』(1949年)までがその期間に該当する。『浪華悲歌』『祇園の姉妹』を製作した第一映画の配給元、日本映画配給株式会社も松竹資本なので、松竹作品としたいところだが、そうなると、1937年から1938年まで籍を置いていた新興キネマ時代(大映の前身で、松竹とも関係が深い)が浮いてしまうので、ここでは純粋な意味での松竹時代に絞り、その作風にふれたい。もっとも、松竹時代の作品も全て現存しているわけではなく、松竹特作プロの『浪花女』(1940年)や『芸道一代男』(1941年)は観ることができないため、除外せざるを得ない。
松竹作品の中では、『残菊物語』を第一に推す声が多い。たしかに、これは掛け値無しの傑作である。溝口といえば「引きの長回し」だが、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』でも強い印象を残したこの技法は、『残菊物語』で確立されたと言っても過言ではない。カメラは離れた位置から人物を捉え、緊張の糸をゆるめることなく、その心の動きを如実に伝えている。まさに迫真の映像であり、無駄な言葉を必要としない雄弁さ、奥行きの素晴らしさに、同時代の映画人がショックを受けたであろうことは容易に想像がつく。ワンシーンワンカット主義に付き合わされる役者たちの苦労もかなりのものだったようで、主演の花柳章太郎は「全く真剣勝負に出ているような気持ちだった」と振り返っている。話の内容は、五代目菊五郎の養子と若き乳母の悲恋もの。淋しく死んでいく女と華々しい晴れ姿を披露する男の対比が有名なラストは、非情すぎて涙も出てこない。女が因習の犠牲になる話として、ここまで遣る瀬ない思いにさせる作品もないだろう。
新しい型のヒロイン像
女の犠牲や献身は溝口が好んだテーマの一つである。が、哀れなヒロイン像を使い回していたわけではない。むしろ、松竹作品に出てくる女性は、明確な意志と判断力を持ち、自己主張したり独立心を示したりすることが多い。
溝口が新しい型のヒロイン像を明示したのは、山田五十鈴を主人公に据えた『浪華悲歌』『祇園の姉妹』からである。前者は人生の中でも家庭の中でも居場所を失う不良少女であり、後者は男という男を敵視して利用しようとする芸者であり、いずれも暗い運命を背負っているが、彼女たちの中には誰にどう思われても構わないという脱・世間体の精神がある。
戦後の溝口は「スランプ期」の一言で片付けられがちだが、こうした脱・世間体のアイコンをさまざまにアレンジし、作品に登場させている点で興味深い。『女性の勝利』(1946年)の細川ひろ子、『歌麿をめぐる五人の女』(1946年)のおきた、お蘭、多賀袖太夫、『女優須磨子の恋』(1947年)の松井須磨子、『夜の女たち』(1948年)の大和田房子、『我が恋は燃えぬ』(1949年)の平山英子は、困難にぶつかりながらも、行動する女であり、主張する女であり、運命と戦う女である。この中で、『歌麿をめぐる五人の女』は最も過激なヒロイン像を提示した作品と言える。彼女たちは後悔しない。より正確に言えば、後悔しようとしない。世間的に見て誤った選択をしても、誤っていることを認めようとしないのである。恋人のある男と駆け落ちした腰元のお蘭(川崎弘子)が、「私、別に悪いことをしたと思っていません。間違ったことをしたと思っていません」と言うところと、命がけで惚れたつっころばしとその浮気相手の花魁を刺し殺したおきた(田中絹代)が、「おきたは間違っちゃいない。自分を騙してほどよい恋や損得づくの恋なんかできるもんか」と自分に言い聞かせるように口走るところは、彼女たちの精神の典型的なあらわれとみていいだろう。
『歌麿をめぐる五人の女』は傑作になり損ねた作品である。殺人を犯したおきたが歌麿の家に現れて、皆に別れを告げ、去って行く場面はワンカットで撮れたと思うし、溝口自身、それを狙っていたはずだが、うまくいかなかった。『自作を語る』で「これはもっとゆっくり時間をかけて作りたかった写真です」と述べているところをみると、思い入れがありながらも、腰を据えて撮る余裕がなかったのだろう。占領下時代の映画としては、女性の肌をべたべた触ったりしてなかなか挑発的で、題材も面白いのだが、惜しいことである。
『夜の女たち』のことなど
「戦後はじめての異様な大入り」(依田義賢)を呼んだヒット作『夜の女たち』には、戦後の混乱期に娼婦になる女が登場するが、その立ち居振る舞いは、哀れさより逞しさを感じさせる。自殺したり、病気で散っていくような儚さはない。
展開が強引に見えるのは、テンポの速さのせいもあるが、ヒロインの順応力が極端すぎるせいでもある。過酷な運命に流され身を持ち崩したと言えないほど、貞淑だった未亡人が娼婦の世界に染まり、啖呵を切っている。これはドラマとして観ると、やはり違和感がある。ただ、このヒロインの激しい流転ぶりは、4年後の『西鶴一代女』を予見しているようにも思えるし、当時のパンパン物のブームを知る上でも、観ておくべき作品である。また、この映画は、ラストシーンのカメラワークも素晴らしい(当時、カメラマンの杉山公平と溝口の関係は険悪だったが)。スランプ期の作品と一蹴されるのはもったいない。
『女優須磨子の恋』『我が恋は燃えぬ』は、それぞれ松井須磨子、景山英子(劇中では平山英子)の伝記ものである。彼女たちは強い意志も判断力も備えた女性だが、基本的に恋愛体質である。その性格描写の処理がうまくいっておらず、人物の魅力があまり伝わってこない。もとより監督自身、彼女たちを美化して描く気は毛頭なかったのだろう。
カメラの長回しや美術で魅せる部分があるのは救いだが、いかんせん、こういった表舞台に出てくる女性を描くのは、気質的に溝口には向いていなかったようだ。当時評されたように、彼は「不健康な女の生態を描くときの方がキビキビとして画面も一段と光る」(飯田心美)のである。『我が恋は燃えぬ』以降、「不健康な女」に執着し、女性解放の時流に乗った作品を撮っていないのは、松竹時代にこの方向性に見切りをつけたからだろう。
戦時中の溝口作品
溝口は戦時中に『宮本武蔵』(1944年)や『名刀美女丸』(1945年)などを撮っているが、撮影期間も予算も題材も納得いかない状態での仕事だった。そんな監督の自棄なテンションを反映するかのように、登場人物がほとんど戯画化している。これを国策映画として観て、鼓舞される人がどれくらいいたのか想像もつかない。
私自身は、『元禄忠臣蔵』(1941年〜1942年)を1940年代の溝口のピークを示す傑作とみなしている。原作は真山青果。当時は「時代劇」ではなく「歴史劇」と呼ばれていたようだが、その呼び名にふさわしく、時代考証に凝り、フィクション的要素を極力排し、本来なら最大の見せ場となるはずのチャンバラのシーンをばっさりカットした。ほかでは観ることのできないドラスティックな切り口の忠臣蔵である。
厖大な製作費を費やして原寸大の松の廊下を再現し、緻密に計算されたカメラワークで撮った冒頭の刃傷事件のシーンは、見所の一つであり、リアリズムが功を奏したものと言える。ただ、それ以上に引き込まれるのはラスト、「片岡源五右衛門殿、お仕舞いなされた。小野寺十内殿、御出でなされ」という声が響く中、粛々と行われる切腹のシーンだ。クレーン撮影で空間の広さを見せながら、切腹の場を囲う白布の存在を視認させる、そのワンカットが示す格調の冷厳さは、現時点で観ることのできる溝口作品の中では群を抜いている。
原作を尊重し、台詞を古めかしい言葉でまとめたことも、全体のトーンを重厚にする上で、一役買っている。依田義賢によると、「この言葉を映画的なテンポに取捨することは、非常な難事業」であったようだ。キャストには前進座の面々を起用、河原崎長十郎の大石内蔵助、中村翫右衛門の富森助右衛門が期待に応える名演技を披露している。その富森が山路ふみ子扮するお喜世を引きずりながら吉良を斬ろうとするシーンも出色である。
ここまでの大作を撮りきるのに相当のエネルギーを要したのは間違いないが、思うに、戦時中の溝口はここでそれを使い果たしたのではないか。
溝口健二は、最高傑作を1作どころか10作にも絞り難い監督である。ただ、松竹時代に絞って言うなら、『残菊物語』と『元禄忠臣蔵』が双璧だ。また、大映時代の溝口が好んで扱う「運命に翻弄される女性」や「官能的な女性」とコントラストをなす点で、松竹時代の「主張する女性」にも関心が払われて然るべきと考える。『浪花女』のフィルムが発見されれば、もっと松竹時代の溝口にスポットライトが当たるのかもしれないが、現状観ることのできる作品からも、この監督の凄さ、面白さは伝わってくる。
【関連サイト】
溝口健二
溝口健二監督の作品は半分以上現存していないと言われている。初期の『813』(1923年)や『血と霊』(1923年)はもちろん、サイレント時代に高く評価された『紙人形春の囁き』(1926年)も『狂恋の女師匠』(1927年)も観ることはできない。同時代人による論評とスチル写真から、どんな映画だったのか想像をふくらませるほかないのだ。サイレント時代の溝口作品のクオリティは、『東京行進曲』(1929年)の不完全な修復版や『滝の白糸』(1933年)などを観る限り、驚くほど高いレベルにあったと推察されるが、そう考えれば考えるほど、むなしい気分に襲われる。1920年代の日活時代を知らない限り、溝口の演出術を完全に知ったことにはならない。必然的に、現代の溝口健二論は中途半端なものにならざるを得ない運命にある。こういった事情は、溝口ばかりでなく、伊藤大輔などにも当てはまるだろう。
周知の通り、溝口健二はその活動歴の後期にヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞や国際賞を受賞し、国際的名声を得た。受賞作品は、『西鶴一代女』(1952年)と『雨月物語』(1953年)と『山椒大夫』(1954年)である。フランスでの評価はとくに高く、フランソワ・トリュフォーもジャック・リヴェットも溝口に夢中になった。ジャン=リュック・ゴダールが好きな監督を3人挙げろという問いに対して、「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と3回繰り返したエピソードも有名である。
そんなこともあって、溝口のキャリアの頂点をその後期に置きたがる傾向は根強くある。しかし、実際には、溝口の黄金期はサイレント時代を含めて何度もあった。国際映画祭での快挙は海外におけるミゾグチ発見の鏑矢にはなったかもしれないが、日本ではとうの昔から知られた存在であり、『浪華悲歌』(1936年)も『祇園の姉妹』(1936年)も『残菊物語』(1939年)も撮っていた巨匠であったことを、私たちはまず認識しておく必要がある。
松竹時代の傑作
溝口は1939年から1950年まで松竹に在籍していた。作品としては『残菊物語』から『我が恋は燃えぬ』(1949年)までがその期間に該当する。『浪華悲歌』『祇園の姉妹』を製作した第一映画の配給元、日本映画配給株式会社も松竹資本なので、松竹作品としたいところだが、そうなると、1937年から1938年まで籍を置いていた新興キネマ時代(大映の前身で、松竹とも関係が深い)が浮いてしまうので、ここでは純粋な意味での松竹時代に絞り、その作風にふれたい。もっとも、松竹時代の作品も全て現存しているわけではなく、松竹特作プロの『浪花女』(1940年)や『芸道一代男』(1941年)は観ることができないため、除外せざるを得ない。
松竹作品の中では、『残菊物語』を第一に推す声が多い。たしかに、これは掛け値無しの傑作である。溝口といえば「引きの長回し」だが、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』でも強い印象を残したこの技法は、『残菊物語』で確立されたと言っても過言ではない。カメラは離れた位置から人物を捉え、緊張の糸をゆるめることなく、その心の動きを如実に伝えている。まさに迫真の映像であり、無駄な言葉を必要としない雄弁さ、奥行きの素晴らしさに、同時代の映画人がショックを受けたであろうことは容易に想像がつく。ワンシーンワンカット主義に付き合わされる役者たちの苦労もかなりのものだったようで、主演の花柳章太郎は「全く真剣勝負に出ているような気持ちだった」と振り返っている。話の内容は、五代目菊五郎の養子と若き乳母の悲恋もの。淋しく死んでいく女と華々しい晴れ姿を披露する男の対比が有名なラストは、非情すぎて涙も出てこない。女が因習の犠牲になる話として、ここまで遣る瀬ない思いにさせる作品もないだろう。
新しい型のヒロイン像
女の犠牲や献身は溝口が好んだテーマの一つである。が、哀れなヒロイン像を使い回していたわけではない。むしろ、松竹作品に出てくる女性は、明確な意志と判断力を持ち、自己主張したり独立心を示したりすることが多い。
溝口が新しい型のヒロイン像を明示したのは、山田五十鈴を主人公に据えた『浪華悲歌』『祇園の姉妹』からである。前者は人生の中でも家庭の中でも居場所を失う不良少女であり、後者は男という男を敵視して利用しようとする芸者であり、いずれも暗い運命を背負っているが、彼女たちの中には誰にどう思われても構わないという脱・世間体の精神がある。
戦後の溝口は「スランプ期」の一言で片付けられがちだが、こうした脱・世間体のアイコンをさまざまにアレンジし、作品に登場させている点で興味深い。『女性の勝利』(1946年)の細川ひろ子、『歌麿をめぐる五人の女』(1946年)のおきた、お蘭、多賀袖太夫、『女優須磨子の恋』(1947年)の松井須磨子、『夜の女たち』(1948年)の大和田房子、『我が恋は燃えぬ』(1949年)の平山英子は、困難にぶつかりながらも、行動する女であり、主張する女であり、運命と戦う女である。この中で、『歌麿をめぐる五人の女』は最も過激なヒロイン像を提示した作品と言える。彼女たちは後悔しない。より正確に言えば、後悔しようとしない。世間的に見て誤った選択をしても、誤っていることを認めようとしないのである。恋人のある男と駆け落ちした腰元のお蘭(川崎弘子)が、「私、別に悪いことをしたと思っていません。間違ったことをしたと思っていません」と言うところと、命がけで惚れたつっころばしとその浮気相手の花魁を刺し殺したおきた(田中絹代)が、「おきたは間違っちゃいない。自分を騙してほどよい恋や損得づくの恋なんかできるもんか」と自分に言い聞かせるように口走るところは、彼女たちの精神の典型的なあらわれとみていいだろう。
『歌麿をめぐる五人の女』は傑作になり損ねた作品である。殺人を犯したおきたが歌麿の家に現れて、皆に別れを告げ、去って行く場面はワンカットで撮れたと思うし、溝口自身、それを狙っていたはずだが、うまくいかなかった。『自作を語る』で「これはもっとゆっくり時間をかけて作りたかった写真です」と述べているところをみると、思い入れがありながらも、腰を据えて撮る余裕がなかったのだろう。占領下時代の映画としては、女性の肌をべたべた触ったりしてなかなか挑発的で、題材も面白いのだが、惜しいことである。
『夜の女たち』のことなど
「戦後はじめての異様な大入り」(依田義賢)を呼んだヒット作『夜の女たち』には、戦後の混乱期に娼婦になる女が登場するが、その立ち居振る舞いは、哀れさより逞しさを感じさせる。自殺したり、病気で散っていくような儚さはない。
展開が強引に見えるのは、テンポの速さのせいもあるが、ヒロインの順応力が極端すぎるせいでもある。過酷な運命に流され身を持ち崩したと言えないほど、貞淑だった未亡人が娼婦の世界に染まり、啖呵を切っている。これはドラマとして観ると、やはり違和感がある。ただ、このヒロインの激しい流転ぶりは、4年後の『西鶴一代女』を予見しているようにも思えるし、当時のパンパン物のブームを知る上でも、観ておくべき作品である。また、この映画は、ラストシーンのカメラワークも素晴らしい(当時、カメラマンの杉山公平と溝口の関係は険悪だったが)。スランプ期の作品と一蹴されるのはもったいない。
『女優須磨子の恋』『我が恋は燃えぬ』は、それぞれ松井須磨子、景山英子(劇中では平山英子)の伝記ものである。彼女たちは強い意志も判断力も備えた女性だが、基本的に恋愛体質である。その性格描写の処理がうまくいっておらず、人物の魅力があまり伝わってこない。もとより監督自身、彼女たちを美化して描く気は毛頭なかったのだろう。
カメラの長回しや美術で魅せる部分があるのは救いだが、いかんせん、こういった表舞台に出てくる女性を描くのは、気質的に溝口には向いていなかったようだ。当時評されたように、彼は「不健康な女の生態を描くときの方がキビキビとして画面も一段と光る」(飯田心美)のである。『我が恋は燃えぬ』以降、「不健康な女」に執着し、女性解放の時流に乗った作品を撮っていないのは、松竹時代にこの方向性に見切りをつけたからだろう。
戦時中の溝口作品
溝口は戦時中に『宮本武蔵』(1944年)や『名刀美女丸』(1945年)などを撮っているが、撮影期間も予算も題材も納得いかない状態での仕事だった。そんな監督の自棄なテンションを反映するかのように、登場人物がほとんど戯画化している。これを国策映画として観て、鼓舞される人がどれくらいいたのか想像もつかない。
私自身は、『元禄忠臣蔵』(1941年〜1942年)を1940年代の溝口のピークを示す傑作とみなしている。原作は真山青果。当時は「時代劇」ではなく「歴史劇」と呼ばれていたようだが、その呼び名にふさわしく、時代考証に凝り、フィクション的要素を極力排し、本来なら最大の見せ場となるはずのチャンバラのシーンをばっさりカットした。ほかでは観ることのできないドラスティックな切り口の忠臣蔵である。
厖大な製作費を費やして原寸大の松の廊下を再現し、緻密に計算されたカメラワークで撮った冒頭の刃傷事件のシーンは、見所の一つであり、リアリズムが功を奏したものと言える。ただ、それ以上に引き込まれるのはラスト、「片岡源五右衛門殿、お仕舞いなされた。小野寺十内殿、御出でなされ」という声が響く中、粛々と行われる切腹のシーンだ。クレーン撮影で空間の広さを見せながら、切腹の場を囲う白布の存在を視認させる、そのワンカットが示す格調の冷厳さは、現時点で観ることのできる溝口作品の中では群を抜いている。
原作を尊重し、台詞を古めかしい言葉でまとめたことも、全体のトーンを重厚にする上で、一役買っている。依田義賢によると、「この言葉を映画的なテンポに取捨することは、非常な難事業」であったようだ。キャストには前進座の面々を起用、河原崎長十郎の大石内蔵助、中村翫右衛門の富森助右衛門が期待に応える名演技を披露している。その富森が山路ふみ子扮するお喜世を引きずりながら吉良を斬ろうとするシーンも出色である。
ここまでの大作を撮りきるのに相当のエネルギーを要したのは間違いないが、思うに、戦時中の溝口はここでそれを使い果たしたのではないか。
溝口健二は、最高傑作を1作どころか10作にも絞り難い監督である。ただ、松竹時代に絞って言うなら、『残菊物語』と『元禄忠臣蔵』が双璧だ。また、大映時代の溝口が好んで扱う「運命に翻弄される女性」や「官能的な女性」とコントラストをなす点で、松竹時代の「主張する女性」にも関心が払われて然るべきと考える。『浪花女』のフィルムが発見されれば、もっと松竹時代の溝口にスポットライトが当たるのかもしれないが、現状観ることのできる作品からも、この監督の凄さ、面白さは伝わってくる。
(阿部十三)
【関連サイト】
溝口健二
[溝口健二略歴]
1898年5月16日、東京生まれ。1920年に日活向島撮影所に入社。田中栄三監督の助監督を経て、1923年に『愛に甦る日』で監督デビュー。1930年代に『滝の白糸』『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『残菊物語』で地位を確立。1939年から1950年までは松竹に籍を置き、その後フリーになり、1952年に大映に入社。同年『西鶴一代女』でヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞。1953年、1954年には同映画祭銀獅子賞受賞。1956年8月24日、白血病で死去。私生活では、1925年に同棲相手の一条百合子に背中をカミソリで切られたり、1927年に結婚した智恵子夫人が精神障害を患ったり、波乱に富んでいたようである。
1898年5月16日、東京生まれ。1920年に日活向島撮影所に入社。田中栄三監督の助監督を経て、1923年に『愛に甦る日』で監督デビュー。1930年代に『滝の白糸』『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『残菊物語』で地位を確立。1939年から1950年までは松竹に籍を置き、その後フリーになり、1952年に大映に入社。同年『西鶴一代女』でヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞。1953年、1954年には同映画祭銀獅子賞受賞。1956年8月24日、白血病で死去。私生活では、1925年に同棲相手の一条百合子に背中をカミソリで切られたり、1927年に結婚した智恵子夫人が精神障害を患ったり、波乱に富んでいたようである。
[松竹時代の監督作品]
1939年『残菊物語』/1940年『浪花女』/1941年『芸道一代男』『元禄忠臣蔵 前篇』/1942年『元禄忠臣蔵 後篇』/1944年『団十郎三代』『宮本武蔵』/1945年『名刀美女丸』『必勝歌』/1946年『女性の勝利』『歌麿をめぐる五人の女』/1947年『女優須磨子の恋』/1948年『夜の女たち』/1949年『我が恋は燃えぬ』
1939年『残菊物語』/1940年『浪花女』/1941年『芸道一代男』『元禄忠臣蔵 前篇』/1942年『元禄忠臣蔵 後篇』/1944年『団十郎三代』『宮本武蔵』/1945年『名刀美女丸』『必勝歌』/1946年『女性の勝利』『歌麿をめぐる五人の女』/1947年『女優須磨子の恋』/1948年『夜の女たち』/1949年『我が恋は燃えぬ』
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