成瀬巳喜男 〜『晩菊』私論〜
2017.03.19
序 『晩菊』まで
成瀬巳喜男の『晩菊』は1954年公開の映画で、林芙美子原作ものとしては四作目にあたる。脚本は田中澄江と井出俊郎。三つの短編「晩菊」「水仙」「白鷺」を組み合わせ、大幅にアレンジした内容で、おきん(杉村春子)、たまえ(細川ちか子)、おとみ(望月優子)、おのぶ(沢村貞子)という四人の中年女性の人生を交錯させている。名女優たちを競演させた映画といえば『流れる』(1956年)が有名だが、その前に『晩菊』があることを忘れてはならない。
周知の通り、成瀬映画ではさまざまな夫婦の危機が描かれる。このテーマが内在した作品を撮る時、彼の演出は冴える。それは戦前の代表作『妻よ薔薇のやうに』(1935年)にもはっきりと見られる傾向だ。戦後、監督としての評価を再び押し上げた『めし』(1951年)で描かれるのも、やはり夫婦の危機である。
夫婦関係のこじれは、必ずしも男の側からもたらされるわけではない。『妻よ薔薇のやうに』で伊藤智子が演じた悦子や、『妻』(1953年)で高峰三枝子が演じた美種子のように、女に同情しにくいケースもある。ただし、どう撮るにしても、成瀬映画では男と女それぞれの心情を汲む機微を欠くことはない。
川端康成原作の『山の音』(1954年)は、夫婦の危機が第一の主題ではないが、子供のいない二人のこじれた関係が再生することなく終わる点は注目される。『めし』以降の定石を破り、女の方が別れる決意を固めるのだ。この後に、成瀬は夫不在の『晩菊』に着手し、一人で生きる女を徹底的に描くのである。
『晩菊』は夫婦関係、男女関係に悩まされる話でない代わりに、相手の不在が大きな影を落としており、その影の中を生きる女たちの人生を対照的に見せることで、観る者に究極の選択を迫る。端的に言えば、自分のみを信じて一人で生きる人生と、そうでない人生の選択だ。映画はどちらかを否定することもないし、声高に肯定することもない。
対照的な人生
おきんは元芸者である。今は金貸しになっていて、聾唖者の女中・静子(鏑木ハルナ)と小綺麗な家で暮らしている。過去に男といろいろあり、信じられるのは自分とお金だけという心境に達した彼女は、愛だの恋だの人情だのを容易に寄せつけない。
元芸者のたまえ、おとみは同じ屋根の下で身を窶している。二人はおきんの昔馴染みである。子供はいるが、夫はいない。たまえの息子・清(小泉博)は他人のお妾(坪内美子)と交際している。おとみの娘・幸子(有馬稲子)は典型的なアプレで、親の知らない相手との結婚を決める。親子関係は良好とは言えない。たまえとおとみが登場する場面では、バックに流れる音楽のメロディーもどこかわびしい。
この二人の生活を見て、おきんは「子供があっても、良いやら悪いやら。わたしなんか一番気楽だわ」と言う。それは偽りのない実感であると同時に、「子供もない、男もない、あんな女の子(聾唖者の静子)と二人暮らし」(おきんの台詞)していることを小馬鹿にされている、と感じている女の自己肯定でもある。
もう一人の女性、夫と飲み屋を営んでいるおのぶは、三人に比べると傍観者的立場である。なので、自身について語る台詞よりも他人について語る台詞が多い。が、それだけに、子供を産むことを諦めていないと明かすところは印象に残る。そんなおのぶに、おきんは「よしなさいよ、今さら、あんた」と言う。
緊張から弛緩へ
おきんは芸者をしていた頃、関(見明凡太郎)という男に刃物を突きつけられて無理心中させられそうになったことがある。その関が久しぶりに会いに来る。しかし、おきんは相手にしない。すっかり落魄した関は、「しばらくだったな」と男の威厳を示す口ぶりで言うが、おきんは「何しに来たんです」と切り口上だ。関は「どこもかしこも昔とまるっきり変わっちまうと、せめて昔の人にだけは会いたい。そういう気持ちになるんだがね」と情に訴えてみる。おきんの心は全く動かない。そして、関が「俺に一万円貸してくれ」と言い出すと、「あんたにあげるお金なんかビタ一文だってありゃしませんよ」と追い返すのである。
成瀬映画では、常に、役者の目線や影の動きに細心の注意が払われている。編集も非常に巧みで、無駄がない。それらの妙技が合わさり、時折サスペンス的な緊張を生むことがある。関が訪ねてくるこの場面も然り。朝になり、関が「おはよう、ごめんなさい」と声を上げ、おきんの家の戸を叩くところから、おきんが恐る恐る障子を開けて玄関の戸の方へ目を遣り、そこに関の影が濃く映っているところまで、サスペンス映画のような雰囲気がある。
その効果が最も発揮されているのは、おきんが昔本気で惚れた男、田部(上原謙)が訪ねてくる場面だ。まず、この直前の場面では、炭鉱の事務所に就職するために北海道へ行く決心をした清が、おのぶの店で、恋人と別れの酒を飲んでいる。そこへ刑事がやって来て、関という男が来なかったかと、おのぶに尋ねる。どうやらお金に困った関が何かしでかしたらしい。と、次の場面で、おきんの家が映され、何者かが玄関の戸を叩き、「ごめんください」と言う。おきんはお風呂に行っていて不在、家には静子しかおらず、人が来たことに気付かない。しかし、訪ねてきたのは関でも刑事でもなく、田部である。ここで緊張の糸はいったん弛む。
弛緩から緊張へ
お風呂から戻ってきたおきんは、田部が来たことを知って舞い上がる。軽やかな音楽が流れ、映画のリズムが大きく変わり、にわかに生気を帯びる瞬間だ。おきんは芸者の血がよみがえったかのようにしなしなして、湯で火照った肌を、氷を包んだ布でマッサージし、それを田部に見られると、少女のように恥ずかしがる。
そんな愉しい時間は長くは続かない。いざ向かい合って、お酌をする時いきなり田部に手を掴まれると、おきんは瞬時に表情を変える。照れたのではなく、女の勘で、何かおかしいと警戒したのだ。ここからおきんの独白が始まる。「この人は何しに来たのかしら?」ーー音楽はどこか不安定になり、緊張感が漂う。カメラが捉える二人の目線は、ぶつかっては離れ、腹の探り合いのような様相を帯びる。といっても、おきんには田部の本心がおおかた読めていたのだろう。田部から「誰か四十万ほど都合してくれないかな?」とか「二十万ぐらいでもどうにかならない?」と言われると素っ気なく断り、「ふん、やっぱり金が目当てで来たんじゃないの」と心の中で一蹴し、先ほどまでの自分のはしゃぎぶりを取り返すかのように冷徹な態度を貫く。
このような殺伐としたやりとりとクロスカッティングさせる形で、たまえ、おとみが家で飲んでいる様子が映される。
二人の女と一人の女
酔った二人は好き勝手なことを言い合い、話はほとんど噛み合っていないが、あることに関しては意見が一致する。
「でも、おとみさん、どんなに苦しい思いをしてきても、子供は産んどいてよかったね」
「そりゃそうよ。あたしなんかね、死んじまいたいと思ったこと、何遍あるか知れないけどさ、やっぱり子供がかわいくて生きてきたんだ」
「子供のために乾杯」
清は親に相談もなく北海道で働くことを決めてしまった。幸子は親を招ぶこともなく結婚してしまった。その点では、二人とも淋しい母親である。彼女たちは、子供がいなければもっと違う人生を歩めたかもしれないという複雑な思いを抱えてもいる。しかし、子供がいてよかった、と乾杯するのだ。
翌日、おきんが不動産絡みの儲け話を持ってきた板谷(加東大介/沢村貞子の弟)とお金の勘定をしていると、おのぶがやって来て、関が逮捕されたと告げる。おきんは驚きもしない。田部に対する幻滅から、その写真を焼いて思い出を捨て去り、生き馬の目を抜くビジネスの世界へと一層傾斜した彼女にとって、過去の男が刑務所に入ろうと首をくくろうと知ったことではないのだ。一人で戦う決意を固めている彼女は、おのぶに向かって、男はみんな女の生き血を吸っている、食うか食われるかってのは男だけの台詞じゃないわ、と言い放つ。
ラストシーン
場面が切り替わり、たまえ、おとみ、清が喫茶店で時間を潰している。今から清が北海道へ発つのだ。しんみりした話を終え、清と別れたたまえは、電車が走り去ってゆくのを橋の上から見送ると、「私たちもしっかりしなくちゃね」と言う。そして、若い女性がモンローウォークをしながら通り過ぎた後、おとみがその歩き方を真似てみせると、笑うのである。登場シーンでのたまえは死期が近そうな雰囲気を漂わせていたが、ここでは生きていく女として映されている。このシークエンスでの細川ちか子の演技は本当に素晴らしい。
時系列的に繋がるようにして、今度は電車から降りたおきん、板谷が映される。これから購入する土地を下見に行くのだ。たまえ、おとみの組み合わせとは異なり、二人はお金だけで繋がった関係である。おきんは切符をどこに入れたか忘れて戸惑うが、じきに見つけて、とくに会話もなく、板谷と並んで階段を下りる。俯瞰のショットなので、男の影を踏みつけて歩いているのがよく分かる。
このラストシーンは、映画冒頭とリンクしている。冒頭では商店街の大売出しを告げる宣伝カーが下町の路上を走り、幼い子供たちが石段を駆け上がってくる。そういった活気は、階段を下りるおきんの周囲にはない。そもそも幼い子供たちは、おきんが通る道にはほとんど存在せず、存在しても、彼女とは逆方向へ進むものとして映されるのだ。
【関連サイト】
成瀬巳喜男
成瀬巳喜男 〜『晩菊』私論〜 [続き]
成瀬巳喜男の『晩菊』は1954年公開の映画で、林芙美子原作ものとしては四作目にあたる。脚本は田中澄江と井出俊郎。三つの短編「晩菊」「水仙」「白鷺」を組み合わせ、大幅にアレンジした内容で、おきん(杉村春子)、たまえ(細川ちか子)、おとみ(望月優子)、おのぶ(沢村貞子)という四人の中年女性の人生を交錯させている。名女優たちを競演させた映画といえば『流れる』(1956年)が有名だが、その前に『晩菊』があることを忘れてはならない。
周知の通り、成瀬映画ではさまざまな夫婦の危機が描かれる。このテーマが内在した作品を撮る時、彼の演出は冴える。それは戦前の代表作『妻よ薔薇のやうに』(1935年)にもはっきりと見られる傾向だ。戦後、監督としての評価を再び押し上げた『めし』(1951年)で描かれるのも、やはり夫婦の危機である。
夫婦関係のこじれは、必ずしも男の側からもたらされるわけではない。『妻よ薔薇のやうに』で伊藤智子が演じた悦子や、『妻』(1953年)で高峰三枝子が演じた美種子のように、女に同情しにくいケースもある。ただし、どう撮るにしても、成瀬映画では男と女それぞれの心情を汲む機微を欠くことはない。
川端康成原作の『山の音』(1954年)は、夫婦の危機が第一の主題ではないが、子供のいない二人のこじれた関係が再生することなく終わる点は注目される。『めし』以降の定石を破り、女の方が別れる決意を固めるのだ。この後に、成瀬は夫不在の『晩菊』に着手し、一人で生きる女を徹底的に描くのである。
『晩菊』は夫婦関係、男女関係に悩まされる話でない代わりに、相手の不在が大きな影を落としており、その影の中を生きる女たちの人生を対照的に見せることで、観る者に究極の選択を迫る。端的に言えば、自分のみを信じて一人で生きる人生と、そうでない人生の選択だ。映画はどちらかを否定することもないし、声高に肯定することもない。
対照的な人生
おきんは元芸者である。今は金貸しになっていて、聾唖者の女中・静子(鏑木ハルナ)と小綺麗な家で暮らしている。過去に男といろいろあり、信じられるのは自分とお金だけという心境に達した彼女は、愛だの恋だの人情だのを容易に寄せつけない。
元芸者のたまえ、おとみは同じ屋根の下で身を窶している。二人はおきんの昔馴染みである。子供はいるが、夫はいない。たまえの息子・清(小泉博)は他人のお妾(坪内美子)と交際している。おとみの娘・幸子(有馬稲子)は典型的なアプレで、親の知らない相手との結婚を決める。親子関係は良好とは言えない。たまえとおとみが登場する場面では、バックに流れる音楽のメロディーもどこかわびしい。
この二人の生活を見て、おきんは「子供があっても、良いやら悪いやら。わたしなんか一番気楽だわ」と言う。それは偽りのない実感であると同時に、「子供もない、男もない、あんな女の子(聾唖者の静子)と二人暮らし」(おきんの台詞)していることを小馬鹿にされている、と感じている女の自己肯定でもある。
もう一人の女性、夫と飲み屋を営んでいるおのぶは、三人に比べると傍観者的立場である。なので、自身について語る台詞よりも他人について語る台詞が多い。が、それだけに、子供を産むことを諦めていないと明かすところは印象に残る。そんなおのぶに、おきんは「よしなさいよ、今さら、あんた」と言う。
緊張から弛緩へ
おきんは芸者をしていた頃、関(見明凡太郎)という男に刃物を突きつけられて無理心中させられそうになったことがある。その関が久しぶりに会いに来る。しかし、おきんは相手にしない。すっかり落魄した関は、「しばらくだったな」と男の威厳を示す口ぶりで言うが、おきんは「何しに来たんです」と切り口上だ。関は「どこもかしこも昔とまるっきり変わっちまうと、せめて昔の人にだけは会いたい。そういう気持ちになるんだがね」と情に訴えてみる。おきんの心は全く動かない。そして、関が「俺に一万円貸してくれ」と言い出すと、「あんたにあげるお金なんかビタ一文だってありゃしませんよ」と追い返すのである。
成瀬映画では、常に、役者の目線や影の動きに細心の注意が払われている。編集も非常に巧みで、無駄がない。それらの妙技が合わさり、時折サスペンス的な緊張を生むことがある。関が訪ねてくるこの場面も然り。朝になり、関が「おはよう、ごめんなさい」と声を上げ、おきんの家の戸を叩くところから、おきんが恐る恐る障子を開けて玄関の戸の方へ目を遣り、そこに関の影が濃く映っているところまで、サスペンス映画のような雰囲気がある。
その効果が最も発揮されているのは、おきんが昔本気で惚れた男、田部(上原謙)が訪ねてくる場面だ。まず、この直前の場面では、炭鉱の事務所に就職するために北海道へ行く決心をした清が、おのぶの店で、恋人と別れの酒を飲んでいる。そこへ刑事がやって来て、関という男が来なかったかと、おのぶに尋ねる。どうやらお金に困った関が何かしでかしたらしい。と、次の場面で、おきんの家が映され、何者かが玄関の戸を叩き、「ごめんください」と言う。おきんはお風呂に行っていて不在、家には静子しかおらず、人が来たことに気付かない。しかし、訪ねてきたのは関でも刑事でもなく、田部である。ここで緊張の糸はいったん弛む。
弛緩から緊張へ
お風呂から戻ってきたおきんは、田部が来たことを知って舞い上がる。軽やかな音楽が流れ、映画のリズムが大きく変わり、にわかに生気を帯びる瞬間だ。おきんは芸者の血がよみがえったかのようにしなしなして、湯で火照った肌を、氷を包んだ布でマッサージし、それを田部に見られると、少女のように恥ずかしがる。
そんな愉しい時間は長くは続かない。いざ向かい合って、お酌をする時いきなり田部に手を掴まれると、おきんは瞬時に表情を変える。照れたのではなく、女の勘で、何かおかしいと警戒したのだ。ここからおきんの独白が始まる。「この人は何しに来たのかしら?」ーー音楽はどこか不安定になり、緊張感が漂う。カメラが捉える二人の目線は、ぶつかっては離れ、腹の探り合いのような様相を帯びる。といっても、おきんには田部の本心がおおかた読めていたのだろう。田部から「誰か四十万ほど都合してくれないかな?」とか「二十万ぐらいでもどうにかならない?」と言われると素っ気なく断り、「ふん、やっぱり金が目当てで来たんじゃないの」と心の中で一蹴し、先ほどまでの自分のはしゃぎぶりを取り返すかのように冷徹な態度を貫く。
このような殺伐としたやりとりとクロスカッティングさせる形で、たまえ、おとみが家で飲んでいる様子が映される。
二人の女と一人の女
酔った二人は好き勝手なことを言い合い、話はほとんど噛み合っていないが、あることに関しては意見が一致する。
「でも、おとみさん、どんなに苦しい思いをしてきても、子供は産んどいてよかったね」
「そりゃそうよ。あたしなんかね、死んじまいたいと思ったこと、何遍あるか知れないけどさ、やっぱり子供がかわいくて生きてきたんだ」
「子供のために乾杯」
清は親に相談もなく北海道で働くことを決めてしまった。幸子は親を招ぶこともなく結婚してしまった。その点では、二人とも淋しい母親である。彼女たちは、子供がいなければもっと違う人生を歩めたかもしれないという複雑な思いを抱えてもいる。しかし、子供がいてよかった、と乾杯するのだ。
翌日、おきんが不動産絡みの儲け話を持ってきた板谷(加東大介/沢村貞子の弟)とお金の勘定をしていると、おのぶがやって来て、関が逮捕されたと告げる。おきんは驚きもしない。田部に対する幻滅から、その写真を焼いて思い出を捨て去り、生き馬の目を抜くビジネスの世界へと一層傾斜した彼女にとって、過去の男が刑務所に入ろうと首をくくろうと知ったことではないのだ。一人で戦う決意を固めている彼女は、おのぶに向かって、男はみんな女の生き血を吸っている、食うか食われるかってのは男だけの台詞じゃないわ、と言い放つ。
ラストシーン
場面が切り替わり、たまえ、おとみ、清が喫茶店で時間を潰している。今から清が北海道へ発つのだ。しんみりした話を終え、清と別れたたまえは、電車が走り去ってゆくのを橋の上から見送ると、「私たちもしっかりしなくちゃね」と言う。そして、若い女性がモンローウォークをしながら通り過ぎた後、おとみがその歩き方を真似てみせると、笑うのである。登場シーンでのたまえは死期が近そうな雰囲気を漂わせていたが、ここでは生きていく女として映されている。このシークエンスでの細川ちか子の演技は本当に素晴らしい。
時系列的に繋がるようにして、今度は電車から降りたおきん、板谷が映される。これから購入する土地を下見に行くのだ。たまえ、おとみの組み合わせとは異なり、二人はお金だけで繋がった関係である。おきんは切符をどこに入れたか忘れて戸惑うが、じきに見つけて、とくに会話もなく、板谷と並んで階段を下りる。俯瞰のショットなので、男の影を踏みつけて歩いているのがよく分かる。
このラストシーンは、映画冒頭とリンクしている。冒頭では商店街の大売出しを告げる宣伝カーが下町の路上を走り、幼い子供たちが石段を駆け上がってくる。そういった活気は、階段を下りるおきんの周囲にはない。そもそも幼い子供たちは、おきんが通る道にはほとんど存在せず、存在しても、彼女とは逆方向へ進むものとして映されるのだ。
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