中川信夫 〜異界の視点〜
2017.09.25
中川信夫は怪談映画で名を馳せた監督だ。その代表作『東海道四谷怪談』(1959年)は日本映画史上屈指の大傑作と言われている。緊張感あふれる脱獄・逃亡シーン(ちょっとしたレズシーンもある)で息もつかせぬサスペンス映画『女死刑囚の脱獄』(1960年)を撮ったのも中川監督である。私はこの二作を同時期にビデオで観て、「こんなにすごい監督がいたのか」と興奮したものだ。
無論、そこは大蔵貢社長の意向で低予算の時代劇、怪談映画、お色気映画を量産していた頃の新東宝の監督だけあって、突拍子もない内容の作品も沢山撮っている。それでも大半が手堅くまとめられ、エンターテイメントとして成立しているのは、中川監督の手腕によるところが大きい(片腕とも言える美術の黒沢治安の功績も無視できない)。
中川監督は若い頃苦労した人で、マキノ映画、市川右太衛門プロダクション、マキノ・トーキー、嵐寛寿郎プロダクションなど、身を寄せた所がことごとく閉鎖された上、東宝からも追い出され、松竹でも芽が出なかった。その間、ジャンルを問わず臨機応変に何でも撮った。師匠である山上伊太郎(脚本家)の言葉、「人間一生に一度は気を吐く時があるものです」を胸に、中川監督は失意の時を乗り切った。
戦後、42歳で新東宝に入り、怪談映画で世の脚光を浴びたのは50歳を過ぎてからのこと。1960年代以降はテレビの仕事も多く手がけ、1984年に79歳で亡くなった。その後、酒と豆腐を愛した監督を偲ぶ「酒豆忌」が定着。熱心なファンだった若者たちが大人になってからも変わらず支持し続け、再評価を力強く促したこともあり、中川信夫の名が忘れられたことは今日に至るまで一瞬たりともない。
そういえば、澁澤龍彦もいくつかの論文やエッセイで中川作品を取り上げていた。そのうちの一つ、「空前絶後のこわい映画」という小文では、『東海道四谷怪談』での小道具の扱い方を絶賛し、その上で、「この映画のこわいことは無類で、私は生まれてから、こんなこわい映画を一度も見たことがないのである。まさに空前絶後というべきだろう」と書いている。内外の怪奇映画をしらみつぶしに観た上で、このように評価しているのである。
中川監督の映画をある程度注意して観ている人は、川、海、湖、沼など水が映っているカットの多用性に驚かされるだろう。監督が撮る水は、時に怖くなるほど美しい。水場に幽霊がいるという話は今も耳にするが、監督の中にも、水と死を結びつける意識があったのだろう。水への執着ぶりは尋常ではなかった。遺作となった『怪異談 生きてゐる小平次』(1982年)のラストに賽の河原が出てきて、川と美人(宮下順子)の画で締め括られるのは、いかにもこの監督らしい。
俯瞰のショットが効果的に用いられているのも、中川作品の特徴だ。天知茂が極悪の憲兵を好演した『憲兵と幽霊』(1958年)では、それが不自然なほど活用されている。例えば、波島中尉(天知茂)が部下の田沢(中山昭二)に無実の罪を着せてその母親と妻の明子(久保菜穂子)を拷問にかけるところや、田沢を謀殺した後、明子を犯す前に酒で酔わせるところ(遺影のカットが挿まれる)など、ほとんど異界の視点のように感じられる。「お前のやっていることは全部見ているぞ」という意味を持つ、誰もそこから身を隠すことの出来ない目である。この死角なきアングルが『東海道四谷怪談』ではより充実した演出力を以て駆使され、川を背景に、直助(江見俊太郎)が民谷伊右衛門(天知茂)にお岩(若杉嘉津子)を殺すようそそのかす猛烈に素晴らしいシーンに結実する。
その関連で言うと、ラストシーンのカメラも異界的である。『憲兵と幽霊』と『東海道四谷怪談』については、これを死者の視点と呼びたい。『憲兵と幽霊』では地の底のように思えるほど下の方から明子と田沢の弟(いずれ結ばれるであろう二人)を見上げるロングショット、『東海道四谷怪談』ではお岩が赤子を抱えて成仏するところを見上げるカットで幕をおろす。前者の視点は「きっとお義母さんも地下で喜んでくださるわ」という未亡人の台詞を踏まえたものであり、後者はお岩に許しを乞いながら死んだ伊右衛門のものだろう。
こんな風に中川作品を観ている私にとって、中川信夫は単なる職人監督ではない。むしろ思想を持った映像作家と呼びたいくらいである。『地獄』(1960年)は映画が始まって一時間ほどで登場人物が全員死亡する豪快な展開で、後半は実験的な映像を駆使した地獄の描写が延々と続く。中川監督は「文字を、画面に移行させる。この当然のことが、非現実の世界の具象化という段階で如何に困難を極めるかを如実に痛感しました」と書いているが、現世で続発する不幸な出来事がすでに圧倒的質量を持っているため、現世と地獄の不条理ぶりには差がほとんど感じられない。その点で、これは地獄のような現世を生きた人間が、死んだ後も地獄で生き続ける永遠の地獄を描いた作品と言い得る。ここで私が思い出すのは、監督が自叙伝で皆に伝えたいこととして選んだ言葉ーー「希望は全て消え失せた。しかも生きねばならぬ」である。「しかも」の一語は重い。
勧善懲悪型の怪談は時代錯誤だ、と言う人もいるかもしれない。たしかに大学紛争盛んなりし頃、『怪談 蛇女』(1968年)のような作品を撮り、忌むべき悪党たち(河津清三郎、根岸明美、山城新伍)を制裁していた中川監督は、前時代的なオカルト崇拝者のように見えただろう。しかし、その見方は誤っている。監督は怪談映画を「人間悲劇の一つの表現形態」とみなし、普遍的な心理映画としての性格を具備させようと腐心していた。「お化けを想像し、お化けを見たという錯覚におちいる当人の心理状態が、ストーリーの流れの上に正確に掴めていれば、お化け映画は或る程度その目的を果たしたというべきでしょう」という言葉は、きちんと実行に移されている。その結果、怪談としても単純に怖いし、心理映画としても重みのある作品となっているのだ(全部が全部というわけではないが)。
中川監督は女優を撮るのもうまい。若き日の三原葉子、高倉みゆき、北沢典子、三ツ矢歌子、万里昌代といった女優を実に魅力的に撮っている。この中では北沢典子がお気に入りだったようで、後年のインタビュー記事でも褒めていた。大映から新東宝に移籍した若杉嘉津子も中川作品に欠かせない女優。『怪談累が渕』(1957年)や『東海道四谷怪談』のお化け役ばかりでなく、『毒婦高橋お伝』(1958年)ではタイトルロールを妖艶に演じている。傑作『女死刑囚の脱獄』でヒロインの高倉みゆきを励ます女囚役も忘れがたい。大蔵貢時代の新東宝はエログロ路線のイメージがあり、それ自体は事実でもあるのだが、そんな中で各人の演技力を引き出しているところが中川監督らしいと言える。
監督が「僕の作品のベスト・スリーに入ります」と語っていた『「粘土のお面」より かあちゃん』(1961年)は、大蔵退陣後に撮られた文芸映画で、極貧ながらも踏ん張って生きようとするブリキ屋の家族を描いている。原作者は『綴方教室』の豊田正子。もともと小津安二郎を贔屓にしていた中川監督としては、こういったホームドラマを撮ることは念願だったにちがいない。役者の演技は自然であり、貧困を描くリアリズムは徹底している。ブリキ屋の隣に住む修繕屋の病妻のやつれ具合など目も当てられない。それでも健気な子供たちの存在が光明となり、暗い映画にはなっていない。
暗さを感じさせないのは、映像の力のなせるわざでもある。ブリキ屋は淀んだ川に面しているが、家賃を払えず電気を止められていよいよ行き詰った後、生命の淀みから脱するようにその川を離れ、リアカーをひいて夜逃げをする。そして、父親は子供のために何をしてでも生きていく決意を固め、最後に大きな川を渡る。橋には外灯が並び、一家の行く先が明るく見渡せる。このラストは異界の視点ではなく、「しかも生きねばならぬ」を前向きにとらえた表現だ。少々穿ちすぎかもしれないが、当時倒産寸前だった新東宝に身を置いていた中川監督が、自らを投影させたラストシーンと言えるかもしれない。
[引用文献]
滝沢一・山根貞男編『映画監督 中川信夫』(リブロポート 1987年1月)※
澁澤龍彦『澁澤龍彦 映画論集成』(河出書房新社 2009年5月)
※中川監督による自叙伝、インタビュー、評論のほか、詳細年譜、評伝、フィルモグラフィーなどを網羅した資料集
【関連サイト】
中川信夫
無論、そこは大蔵貢社長の意向で低予算の時代劇、怪談映画、お色気映画を量産していた頃の新東宝の監督だけあって、突拍子もない内容の作品も沢山撮っている。それでも大半が手堅くまとめられ、エンターテイメントとして成立しているのは、中川監督の手腕によるところが大きい(片腕とも言える美術の黒沢治安の功績も無視できない)。
中川監督は若い頃苦労した人で、マキノ映画、市川右太衛門プロダクション、マキノ・トーキー、嵐寛寿郎プロダクションなど、身を寄せた所がことごとく閉鎖された上、東宝からも追い出され、松竹でも芽が出なかった。その間、ジャンルを問わず臨機応変に何でも撮った。師匠である山上伊太郎(脚本家)の言葉、「人間一生に一度は気を吐く時があるものです」を胸に、中川監督は失意の時を乗り切った。
戦後、42歳で新東宝に入り、怪談映画で世の脚光を浴びたのは50歳を過ぎてからのこと。1960年代以降はテレビの仕事も多く手がけ、1984年に79歳で亡くなった。その後、酒と豆腐を愛した監督を偲ぶ「酒豆忌」が定着。熱心なファンだった若者たちが大人になってからも変わらず支持し続け、再評価を力強く促したこともあり、中川信夫の名が忘れられたことは今日に至るまで一瞬たりともない。
そういえば、澁澤龍彦もいくつかの論文やエッセイで中川作品を取り上げていた。そのうちの一つ、「空前絶後のこわい映画」という小文では、『東海道四谷怪談』での小道具の扱い方を絶賛し、その上で、「この映画のこわいことは無類で、私は生まれてから、こんなこわい映画を一度も見たことがないのである。まさに空前絶後というべきだろう」と書いている。内外の怪奇映画をしらみつぶしに観た上で、このように評価しているのである。
中川監督の映画をある程度注意して観ている人は、川、海、湖、沼など水が映っているカットの多用性に驚かされるだろう。監督が撮る水は、時に怖くなるほど美しい。水場に幽霊がいるという話は今も耳にするが、監督の中にも、水と死を結びつける意識があったのだろう。水への執着ぶりは尋常ではなかった。遺作となった『怪異談 生きてゐる小平次』(1982年)のラストに賽の河原が出てきて、川と美人(宮下順子)の画で締め括られるのは、いかにもこの監督らしい。
俯瞰のショットが効果的に用いられているのも、中川作品の特徴だ。天知茂が極悪の憲兵を好演した『憲兵と幽霊』(1958年)では、それが不自然なほど活用されている。例えば、波島中尉(天知茂)が部下の田沢(中山昭二)に無実の罪を着せてその母親と妻の明子(久保菜穂子)を拷問にかけるところや、田沢を謀殺した後、明子を犯す前に酒で酔わせるところ(遺影のカットが挿まれる)など、ほとんど異界の視点のように感じられる。「お前のやっていることは全部見ているぞ」という意味を持つ、誰もそこから身を隠すことの出来ない目である。この死角なきアングルが『東海道四谷怪談』ではより充実した演出力を以て駆使され、川を背景に、直助(江見俊太郎)が民谷伊右衛門(天知茂)にお岩(若杉嘉津子)を殺すようそそのかす猛烈に素晴らしいシーンに結実する。
その関連で言うと、ラストシーンのカメラも異界的である。『憲兵と幽霊』と『東海道四谷怪談』については、これを死者の視点と呼びたい。『憲兵と幽霊』では地の底のように思えるほど下の方から明子と田沢の弟(いずれ結ばれるであろう二人)を見上げるロングショット、『東海道四谷怪談』ではお岩が赤子を抱えて成仏するところを見上げるカットで幕をおろす。前者の視点は「きっとお義母さんも地下で喜んでくださるわ」という未亡人の台詞を踏まえたものであり、後者はお岩に許しを乞いながら死んだ伊右衛門のものだろう。
こんな風に中川作品を観ている私にとって、中川信夫は単なる職人監督ではない。むしろ思想を持った映像作家と呼びたいくらいである。『地獄』(1960年)は映画が始まって一時間ほどで登場人物が全員死亡する豪快な展開で、後半は実験的な映像を駆使した地獄の描写が延々と続く。中川監督は「文字を、画面に移行させる。この当然のことが、非現実の世界の具象化という段階で如何に困難を極めるかを如実に痛感しました」と書いているが、現世で続発する不幸な出来事がすでに圧倒的質量を持っているため、現世と地獄の不条理ぶりには差がほとんど感じられない。その点で、これは地獄のような現世を生きた人間が、死んだ後も地獄で生き続ける永遠の地獄を描いた作品と言い得る。ここで私が思い出すのは、監督が自叙伝で皆に伝えたいこととして選んだ言葉ーー「希望は全て消え失せた。しかも生きねばならぬ」である。「しかも」の一語は重い。
勧善懲悪型の怪談は時代錯誤だ、と言う人もいるかもしれない。たしかに大学紛争盛んなりし頃、『怪談 蛇女』(1968年)のような作品を撮り、忌むべき悪党たち(河津清三郎、根岸明美、山城新伍)を制裁していた中川監督は、前時代的なオカルト崇拝者のように見えただろう。しかし、その見方は誤っている。監督は怪談映画を「人間悲劇の一つの表現形態」とみなし、普遍的な心理映画としての性格を具備させようと腐心していた。「お化けを想像し、お化けを見たという錯覚におちいる当人の心理状態が、ストーリーの流れの上に正確に掴めていれば、お化け映画は或る程度その目的を果たしたというべきでしょう」という言葉は、きちんと実行に移されている。その結果、怪談としても単純に怖いし、心理映画としても重みのある作品となっているのだ(全部が全部というわけではないが)。
中川監督は女優を撮るのもうまい。若き日の三原葉子、高倉みゆき、北沢典子、三ツ矢歌子、万里昌代といった女優を実に魅力的に撮っている。この中では北沢典子がお気に入りだったようで、後年のインタビュー記事でも褒めていた。大映から新東宝に移籍した若杉嘉津子も中川作品に欠かせない女優。『怪談累が渕』(1957年)や『東海道四谷怪談』のお化け役ばかりでなく、『毒婦高橋お伝』(1958年)ではタイトルロールを妖艶に演じている。傑作『女死刑囚の脱獄』でヒロインの高倉みゆきを励ます女囚役も忘れがたい。大蔵貢時代の新東宝はエログロ路線のイメージがあり、それ自体は事実でもあるのだが、そんな中で各人の演技力を引き出しているところが中川監督らしいと言える。
監督が「僕の作品のベスト・スリーに入ります」と語っていた『「粘土のお面」より かあちゃん』(1961年)は、大蔵退陣後に撮られた文芸映画で、極貧ながらも踏ん張って生きようとするブリキ屋の家族を描いている。原作者は『綴方教室』の豊田正子。もともと小津安二郎を贔屓にしていた中川監督としては、こういったホームドラマを撮ることは念願だったにちがいない。役者の演技は自然であり、貧困を描くリアリズムは徹底している。ブリキ屋の隣に住む修繕屋の病妻のやつれ具合など目も当てられない。それでも健気な子供たちの存在が光明となり、暗い映画にはなっていない。
暗さを感じさせないのは、映像の力のなせるわざでもある。ブリキ屋は淀んだ川に面しているが、家賃を払えず電気を止められていよいよ行き詰った後、生命の淀みから脱するようにその川を離れ、リアカーをひいて夜逃げをする。そして、父親は子供のために何をしてでも生きていく決意を固め、最後に大きな川を渡る。橋には外灯が並び、一家の行く先が明るく見渡せる。このラストは異界の視点ではなく、「しかも生きねばならぬ」を前向きにとらえた表現だ。少々穿ちすぎかもしれないが、当時倒産寸前だった新東宝に身を置いていた中川監督が、自らを投影させたラストシーンと言えるかもしれない。
(阿部十三)
[引用文献]
滝沢一・山根貞男編『映画監督 中川信夫』(リブロポート 1987年1月)※
澁澤龍彦『澁澤龍彦 映画論集成』(河出書房新社 2009年5月)
※中川監督による自叙伝、インタビュー、評論のほか、詳細年譜、評伝、フィルモグラフィーなどを網羅した資料集
【関連サイト】
中川信夫
[中川信夫略歴]
1905年4月18日、京都生まれ。実家は料理屋。文学青年で小説を書いていたが、映画界へ。24歳でマキノ映画の助監督になり、その傍ら脚本も執筆。市川右太衛門プロダクションへ移り、1934年に『弓矢八幡剣』で監督デビュー。その後撮影所を転々とし、戦中は中国で記録映画を撮っていた。1947年に新東宝に誘われ、翌年『馬車物語』で映画界に復帰。『私刑』(1949年)、『思春の泉』(1953年)などで注目され、大蔵貢が社長に就任した1950年代後半からは怪談映画や怪奇映画を撮りまくり、監督としての地位を確立した。1961年に新東宝が倒産すると、活躍の場をテレビに広げ、『柔道一代』『父子鷹』『アッちゃん』『鳴門秘帖』『プレイガール』で腕をふるう。1982年、久々の映画『怪異談 生きてゐる小平次』を撮り、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。1984年6月17日、心不全のため死去。酒と豆腐を愛したことから忌名を「酒豆忌」という。
1905年4月18日、京都生まれ。実家は料理屋。文学青年で小説を書いていたが、映画界へ。24歳でマキノ映画の助監督になり、その傍ら脚本も執筆。市川右太衛門プロダクションへ移り、1934年に『弓矢八幡剣』で監督デビュー。その後撮影所を転々とし、戦中は中国で記録映画を撮っていた。1947年に新東宝に誘われ、翌年『馬車物語』で映画界に復帰。『私刑』(1949年)、『思春の泉』(1953年)などで注目され、大蔵貢が社長に就任した1950年代後半からは怪談映画や怪奇映画を撮りまくり、監督としての地位を確立した。1961年に新東宝が倒産すると、活躍の場をテレビに広げ、『柔道一代』『父子鷹』『アッちゃん』『鳴門秘帖』『プレイガール』で腕をふるう。1982年、久々の映画『怪異談 生きてゐる小平次』を撮り、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。1984年6月17日、心不全のため死去。酒と豆腐を愛したことから忌名を「酒豆忌」という。
[主な監督作品]
1934年『弓矢八幡剣』/1935年『恥を知る者』『悪太郎獅子』/1936年『修羅八荒』『槍持街道』/1937年『旗本八万騎』『女左膳』/1938年『日本一の岡っ引』/1939年『エノケンの森の石松』『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』/1940年『エノケンのワンワン大将』/1941年『虞美人草』/1948年『馬車物語』/1949年『私刑』/1950年『月の出の決闘』/1951年『若様侍捕物帖 謎の能面屋敷』/1953年『思春の泉』/1954年『若き日の啄木 雲は天才である』/1955年『番場の忠太郎』/1956年『吸血蛾』/1957年『怪談累が渕』/1958年『毒婦高橋お伝』『亡霊怪猫屋敷』『憲兵と幽霊』/1959年『女吸血鬼』『東海道四谷怪談』/1960年『女死刑囚の脱獄』『地獄』/1961年『「粘土のお面」より かあちゃん』『八百万石に挑む男』/1968年『怪談 蛇女』/1982年『怪異談 生きてゐる小平次』
1934年『弓矢八幡剣』/1935年『恥を知る者』『悪太郎獅子』/1936年『修羅八荒』『槍持街道』/1937年『旗本八万騎』『女左膳』/1938年『日本一の岡っ引』/1939年『エノケンの森の石松』『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』/1940年『エノケンのワンワン大将』/1941年『虞美人草』/1948年『馬車物語』/1949年『私刑』/1950年『月の出の決闘』/1951年『若様侍捕物帖 謎の能面屋敷』/1953年『思春の泉』/1954年『若き日の啄木 雲は天才である』/1955年『番場の忠太郎』/1956年『吸血蛾』/1957年『怪談累が渕』/1958年『毒婦高橋お伝』『亡霊怪猫屋敷』『憲兵と幽霊』/1959年『女吸血鬼』『東海道四谷怪談』/1960年『女死刑囚の脱獄』『地獄』/1961年『「粘土のお面」より かあちゃん』『八百万石に挑む男』/1968年『怪談 蛇女』/1982年『怪異談 生きてゐる小平次』
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