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田坂具隆の戦争映画 [続き]

2017.10.12
『海軍』と『必勝歌』

 太平洋戦争以降の『海軍』(1944年)になると、事情が変わってくる。これは悪名高い映画法の統制下にある、まさに戦意高揚のために作られた作品だ。原作は、獅子文六(岩田豊雄)の新聞連載小説。鹿児島の平凡な少年が海軍を志して見事合格し、真珠湾攻撃で華々しく散るまでの成長物語で、配属将校の菊地少佐(原作では「菊池少佐」)が生徒に伝えた「断じて行へば鬼神も之を避く」という格言が刷り込まれる。

 いわゆる「軍神」になるまでのストーリー性を重視している点で、『五人の斥候兵』や『土と兵隊』とは系統が異なる。リアルで苦しい戦闘シーンは出てこない。主人公・谷真人は東郷平八郎について、「俺は元帥が生きられた道は学びたいが、しかし元帥になる歳まで生き延びるつもりはない」と言う。これが意味するところは明確である。軍としては、『土と兵隊』のように痛みが伝わる実録的な作品ではなく、戦争や戦死を形而上的に扱う作品を望んだのだろう。

 『必勝歌』(1945年)は一種のオムニバス映画で、監督陣には、田坂のほかに、溝口健二、マキノ正博、清水宏が名を連ねているが、田坂監督は原作と総指揮も受け持っている。佐野周二、上原謙、高田浩吉といった二枚目スターを揃えているところは、いかにも力の入った国策映画らしい。同胞や家族の描き方は類型的、美談的で、不自然なほど明るい。当時はこういった作品が求められたのである。

 このプロパガンダ映画の指揮を執ることになった田坂監督に対し、お歴々が期待を寄せていたことは想像出来る。それもこれも元はといえば、『五人の斥候兵』や『土と兵隊』のような傑作を撮り、戦争映画の第一人者として認識されたことに端を発しているのだろう。そう考えると複雑な気持ちになる。しかも、『必勝歌』は必ずしも高く評価されたわけではない。現在の目で観れば十分なほど特攻の死を美化しているのだが、公開時の批評は微妙で、「ここに集められた美談はいづれも線が細く、力強さが足りないやうに思はれる。戦局に睨み合はせてもう少し士気を鼓舞するやうな美談が集まらなかったものであらうか」(上野一郎)とも書かれた。

敵の実体

 大島渚は「映画にとって戦争とは何か 田坂具隆」と題された論考で、『五人の斥候兵』を取り上げ、敵の姿をほとんど描いていないことに注目しているが、それはほかの作品にも当てはまる。ここで私が思い出すのは、かつて保田與重郎が戦時中を振り返り、「本当に我々は、人がよくて敵の存在を知らなかったのだろうか。敵とは何かの実感がなかったのであろうか。多少思い当たることは、敵の実体がなかったということだ」と書いたのに対して、橋川文三が「事実と論理において甚だしく奇怪な表現」だとし、「それほどに無邪気なものとして、保田らがなおあの戦争を考えているとすれば、それは恐るべき倒錯である」と断じたことである。

 『五人の斥候兵』にも、どんな顔をした敵と戦っているのかという明確な意識は感じられない。この点について、大島監督は「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉を引き合いに出して、学者を使って敵のことを研究するアメリカと、精神論に走りがちな日本との違いを論じている。

「日本人は、兵隊が戦地で一生懸命苦しんで戦っているのをみさえすれば、だんだん戦意が湧いてくる民族であったし、それは今でも我々のどこかに残っていると思うんです」
(大島渚「映画にとって戦争とは何か 田坂具隆」)

 あえて付言するならば、これは敵を徹底的に忌まわしいものとみなして、その忌まわしい実体を潔癖症的に目にしないようにする日本人の傾向と言えるかもしれない。なので、保田の言葉が特別奇怪とも思われないのである。

 皮肉な話だが、ほとんどの人は戦時中に撮られた日本の戦争映画を積極的に観たいとは思わないだろう。反戦的なスタンスの人ほど、当時のリアルタイムの戦争映画を忌まわしいものとして、黴菌のように避ける傾向があるのではないか。そうした行為は正義でも高潔でも何でもない。潔癖症が、戦時中とは違う形であらわれただけにすぎない。

 無論、中には観るにたえない作品もある。しかし少なくとも『五人の斥候兵』と『土と兵隊』には、冷静に観て、あるいは批判的に観て、鑑賞にたえるだけの内容がある。映像は古いし、特に音声には難があるけれど(出来れば字幕付きで上映してほしい)、戦争を知らない人こそ観ておくべきものだと私は考える。
(阿部十三)


【関連サイト】
田坂具隆の戦争映画
田坂具隆

[田坂具隆略歴]
1902年4月14日、広島生まれ。三高を中退後日活に入社。1926年に『かぼちゃ騒動記』で監督デビューし、順調にキャリアを積んで、1938年には『五人の斥候兵』『路傍の石』を発表。名声はピークに達するが、広島で被爆し、原爆症を発症。闘病生活を送りつつ、1949年から監督業を再開。日活で復活を遂げた後、東映に移籍。佐久間良子主演の『五番町夕霧楼』(1963年)などで話題をさらった。1974年10月17日死去。妻は瀧花久子。影響を与えた監督に熊井啓がいる。
[主な監督作品]
1926年『かぼちゃ騒動記』『情熱の浮沈』『死の宝庫』/1927年『正義の強者』『阿里山の侠児』『しゃぼん娘』/1928年『結婚二重奏』/1929年『私と彼女』『愛の風景』/1930年『この母を見よ』/1931年『かんかん虫は唄ふ』『心の日月』/1932年『鳩笛を吹く女』『春と娘』/1934年『月よりの使者』/1935年『明治一代女』/1936年『追憶の薔薇』/1937年『真実一路』/1938年『五人の斥候兵』『路傍の石』/1939年『爆音』『空襲』『土と兵隊』/1942年『母子草』/1943年『海軍』/1945年『必勝歌』/1951年『雪割草』/1952年『長崎の歌は忘れじ』/1955年『女中ッ子』/1956年『乳母車』/1958年『陽のあたる坂道』/1960年『親鸞』/1962年『ちいさこべ』/1963年『五番町夕霧楼』/1964年『鮫』/1965年『冷飯とおさんとちゃん』/1966年『湖の琴』/1968年『スクラップ集団』