ルキーノ・ヴィスコンティ 〜美は崩壊にあり〜
2011.06.15
ルキーノ・ヴィスコンティの映画はしばしば「絢爛たる」とか「格調高い」と形容される。しかし、クラシカルな雰囲気を漂わせた外観の内側には、秩序のないエネルギーが散乱している。多くの古典がそうであるように、彼の映画もまた現代的な「おさまりの良さ」を知らない。そこが魅力である。
その作品は、全体のまとまり具合や演出の巧みさで語られるより、美学の観点から語られる方がしっくりくる。ヴィスコンティにはハリウッドの職人監督のようなソツのなさ、器用さはない。趣味嗜好の主張が激しく、狂おしいほど若々しい。『熊座の淡き星影』や『地獄に堕ちた勇者ども』を観て、誰が60歳前後の人間の作品だと思うだろう。若手監督も太刀打ちできないような、表現に対するそのラディカルで放埒なエネルギーには、半ば圧倒され、半ば呆れてしまう。
ヴィスコンティのパーソナルな趣味が特に露呈されているのは、美男子を執拗なまでに美しく、時に残酷なほど不格好に映すカメラと、劇中に流れる音楽である。アラン・ドロン、ジャン・ソレル、ヘルムート・バーガー、ビョルン・アンドレセンといった人たちの顔を延々と撮り続けるカメラにはおよそ何の必然性も感じられない。しかし「これが私の映画なのだ」「美を撮ることが私の必然なのだ」と言わんばかりに、ヴィスコンティは己の趣味をさらして一歩も退かない。
クラシック音楽の選曲は、大胆かつ絶妙。オペラ演出家としても一流だったヴィスコンティのセンスが光っている。その最高の成功例は『ベニスに死す』だろう。ここでマーラーの交響曲第5番第4楽章が使われたのがきっかけで「マーラー・ブーム」が起こったとされている。個人的には、ブルックナーの交響曲第7番(『夏の嵐』)、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」(『熊座の淡き星影』)の使われ方が印象深い。
よく知られているように、ヴィスコンティ家はルネッサンス期イタリアで隆盛を極めた名門貴族。ルキーノはその末裔である。幼い頃より芸術にふれ、1930年代前半から何度もパリを訪れるようになり、芸術家たちと親交を重ねるうちに、映画の仕事に興味を持つようになった。
1930年代半ば、ココ・シャネルの紹介でジャン・ルノワールの助手になる。その際、芸術のみならず思想上でも多大な影響を受けたという。ルノワールの左翼思想に共鳴したヴィスコンティには「赤い公爵」という渾名がつけられた。1943年5月に〈ネオレアリズモの先駆的作品〉とされるデビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が公開。各地で上映禁止となった。
デビュー当時、ヴィスコンティが書いた論文の中に「私が興味を持つのは、人間の顔をした映画だ」という一文がある。貴族ではなく庶民のリアルな生活、感情を描くことに燃えていたのだ。しかし、戦後流行化した「ネオレアリズモ」に疑問を感じたのか、単純に作風に限界を感じたのか、やがてヴィスコンティは自分にしか表現できない個性を映画に持ち込むようになる。「ネオレアリズモ」の対極にあるような、きらびやかで、耽美的、退廃的な嗜好である。そのスタート地点と言ってよい作品が1954年公開の一大不倫絵巻『夏の嵐』だ。彼の貴族趣味(正真正銘の貴族なのでこの言い方にも抵抗はあるが)は1963年の『山猫』と1973年の『ルートヴィヒ』で極点に達し、1976年の遺作『イノセント』まで貫かれる。
とはいえ、単に耽美的、退廃的なわけではない。クラシカルな趣味でコーティングされた世界に、人間の持つ醜さ、愚かさ、えげつなさが容赦なくさらされる瞬間が、彼の映画には必ずと言っていいほどある。「乱調」と言っても差し支えないそれらのシーンは、たとえ一瞬であっても忘れられないインパクトを残す。「美はただ乱調にある」とは大杉栄の言葉だが(瀬戸内寂聴風に言えば「美は乱調にあり」)、ひょっとしたらヴィスコンティにも同じような考えがあったのかもしれない。
既述したように、耽美と退廃のムードが濃くなったのは『夏の嵐』からだが、この作品と『山猫』の間に位置する2作、『白夜』と『若者のすべて』にはまだネオレアリズモ臭が強く残っている。『若者のすべて』はヴィスコンティ自身も気に入っていた力作。兄弟であるロッコ(アラン・ドロン)とシモーネ(レナート・サルヴァトーリ)の人物造型がひりひりするほど対照的で、この2人が兄弟であることに暗い宿命のようなものを感じずにいられない。そしてナディア(アニー・ジラルド)とロッコが迎える崩壊の悲劇ーー詳述は控えるが、あの場面はトラウマになる。
晩年、ヴィスコンティはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の映画化を企画していた。ナポリ女王役にはグレタ・ガルボを起用するつもりだったという。これが実現していたらどんな作品になっていたのだろう。今となってはシナリオ本を読みながら想像するよりほかない。
【関連サイト】
Luchino Visconti.net
ルキーノ・ヴィスコンティ(DVD)
その作品は、全体のまとまり具合や演出の巧みさで語られるより、美学の観点から語られる方がしっくりくる。ヴィスコンティにはハリウッドの職人監督のようなソツのなさ、器用さはない。趣味嗜好の主張が激しく、狂おしいほど若々しい。『熊座の淡き星影』や『地獄に堕ちた勇者ども』を観て、誰が60歳前後の人間の作品だと思うだろう。若手監督も太刀打ちできないような、表現に対するそのラディカルで放埒なエネルギーには、半ば圧倒され、半ば呆れてしまう。
ヴィスコンティのパーソナルな趣味が特に露呈されているのは、美男子を執拗なまでに美しく、時に残酷なほど不格好に映すカメラと、劇中に流れる音楽である。アラン・ドロン、ジャン・ソレル、ヘルムート・バーガー、ビョルン・アンドレセンといった人たちの顔を延々と撮り続けるカメラにはおよそ何の必然性も感じられない。しかし「これが私の映画なのだ」「美を撮ることが私の必然なのだ」と言わんばかりに、ヴィスコンティは己の趣味をさらして一歩も退かない。
クラシック音楽の選曲は、大胆かつ絶妙。オペラ演出家としても一流だったヴィスコンティのセンスが光っている。その最高の成功例は『ベニスに死す』だろう。ここでマーラーの交響曲第5番第4楽章が使われたのがきっかけで「マーラー・ブーム」が起こったとされている。個人的には、ブルックナーの交響曲第7番(『夏の嵐』)、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」(『熊座の淡き星影』)の使われ方が印象深い。
よく知られているように、ヴィスコンティ家はルネッサンス期イタリアで隆盛を極めた名門貴族。ルキーノはその末裔である。幼い頃より芸術にふれ、1930年代前半から何度もパリを訪れるようになり、芸術家たちと親交を重ねるうちに、映画の仕事に興味を持つようになった。
1930年代半ば、ココ・シャネルの紹介でジャン・ルノワールの助手になる。その際、芸術のみならず思想上でも多大な影響を受けたという。ルノワールの左翼思想に共鳴したヴィスコンティには「赤い公爵」という渾名がつけられた。1943年5月に〈ネオレアリズモの先駆的作品〉とされるデビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が公開。各地で上映禁止となった。
デビュー当時、ヴィスコンティが書いた論文の中に「私が興味を持つのは、人間の顔をした映画だ」という一文がある。貴族ではなく庶民のリアルな生活、感情を描くことに燃えていたのだ。しかし、戦後流行化した「ネオレアリズモ」に疑問を感じたのか、単純に作風に限界を感じたのか、やがてヴィスコンティは自分にしか表現できない個性を映画に持ち込むようになる。「ネオレアリズモ」の対極にあるような、きらびやかで、耽美的、退廃的な嗜好である。そのスタート地点と言ってよい作品が1954年公開の一大不倫絵巻『夏の嵐』だ。彼の貴族趣味(正真正銘の貴族なのでこの言い方にも抵抗はあるが)は1963年の『山猫』と1973年の『ルートヴィヒ』で極点に達し、1976年の遺作『イノセント』まで貫かれる。
とはいえ、単に耽美的、退廃的なわけではない。クラシカルな趣味でコーティングされた世界に、人間の持つ醜さ、愚かさ、えげつなさが容赦なくさらされる瞬間が、彼の映画には必ずと言っていいほどある。「乱調」と言っても差し支えないそれらのシーンは、たとえ一瞬であっても忘れられないインパクトを残す。「美はただ乱調にある」とは大杉栄の言葉だが(瀬戸内寂聴風に言えば「美は乱調にあり」)、ひょっとしたらヴィスコンティにも同じような考えがあったのかもしれない。
既述したように、耽美と退廃のムードが濃くなったのは『夏の嵐』からだが、この作品と『山猫』の間に位置する2作、『白夜』と『若者のすべて』にはまだネオレアリズモ臭が強く残っている。『若者のすべて』はヴィスコンティ自身も気に入っていた力作。兄弟であるロッコ(アラン・ドロン)とシモーネ(レナート・サルヴァトーリ)の人物造型がひりひりするほど対照的で、この2人が兄弟であることに暗い宿命のようなものを感じずにいられない。そしてナディア(アニー・ジラルド)とロッコが迎える崩壊の悲劇ーー詳述は控えるが、あの場面はトラウマになる。
晩年、ヴィスコンティはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の映画化を企画していた。ナポリ女王役にはグレタ・ガルボを起用するつもりだったという。これが実現していたらどんな作品になっていたのだろう。今となってはシナリオ本を読みながら想像するよりほかない。
(阿部十三)
【関連サイト】
Luchino Visconti.net
ルキーノ・ヴィスコンティ(DVD)
[ルキーノ・ヴィスコンティ プロフィール]
1906年11月2日ミラノ生まれ。公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネと、有名な製薬会社を経営する大ブルジョア出身のカルラ・エルバとの間に出来た第四子である。20代後半で映画界に入り、ジャン・ルノワールのアシスタントを務めた後、1943年に『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で監督デビュー。1954年の『夏の嵐』で「ネオ・レアリズモ」から方向転換。耽美主義・貴族趣味的な映画を多数撮り、名声を博す。1957年『白夜』がヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞。1960年『若者のすべて』でヴェネチア映画祭審査員特別賞・国際批評家連盟賞受賞。1963年『山猫』がカンヌ映画祭でグランプリを受賞。1976年3月17日死去。同性愛者として有名だが、女流作家エルサ・モランテをはじめ多くの女性とも浮き名を流した。
1906年11月2日ミラノ生まれ。公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネと、有名な製薬会社を経営する大ブルジョア出身のカルラ・エルバとの間に出来た第四子である。20代後半で映画界に入り、ジャン・ルノワールのアシスタントを務めた後、1943年に『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で監督デビュー。1954年の『夏の嵐』で「ネオ・レアリズモ」から方向転換。耽美主義・貴族趣味的な映画を多数撮り、名声を博す。1957年『白夜』がヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞。1960年『若者のすべて』でヴェネチア映画祭審査員特別賞・国際批評家連盟賞受賞。1963年『山猫』がカンヌ映画祭でグランプリを受賞。1976年3月17日死去。同性愛者として有名だが、女流作家エルサ・モランテをはじめ多くの女性とも浮き名を流した。
[主な監督作品]
1943年『郵便配達は二度ベルを鳴らす』/1947年『揺れる大地』/1951年『ベリッシマ』/1954年『夏の嵐』/1957年『白夜』/1960年『若者のすべて』/1963年『山猫』/1965年『熊座の淡き星影』/1967年『異邦人』/1969年『地獄に堕ちた勇者ども』/1971年『ベニスに死す』/1973年『ルートヴィヒ』/1974年『家族の肖像』/1976年『イノセント』
1943年『郵便配達は二度ベルを鳴らす』/1947年『揺れる大地』/1951年『ベリッシマ』/1954年『夏の嵐』/1957年『白夜』/1960年『若者のすべて』/1963年『山猫』/1965年『熊座の淡き星影』/1967年『異邦人』/1969年『地獄に堕ちた勇者ども』/1971年『ベニスに死す』/1973年『ルートヴィヒ』/1974年『家族の肖像』/1976年『イノセント』
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