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木下惠介 〜日本人であるということ〜

2012.08.01
『二十四の瞳』の涙

 社会生活を送っていく中で、意思と行動を一致させるのは容易なことではない。いいたいと思ってもいえない、怒りをぶつけたいと思ってもぶつけられない、復讐したいと思っても復讐できない、逃げたいと思っても逃げられない、という人が大半である。欧米では合理性を以て筋を通せることも、日本で同じようにできるとは限らない。木下惠介監督は、そういう日本人の環境から生まれる不如意さ、やりきれなさ、過酷さを誠実に描こうとする。

 代表作の『二十四の瞳』、『野菊の如き君なりき』を挙げるまでもなく、木下映画の登場人物は、不幸な人の助けになるような行動をなかなか起こすことができない。そのかわり、泣く。劇中で流される涙の量は尋常でないほど多い。その涙につられ、観客も泣く。それが気に入らない人は、木下映画を「泣きすぎる」と皮肉る。同時期にデビューした黒澤明と比較し、「女々しい」と批判する人もいる。
 しかし、「泣きすぎる」とはいっても、そもそも木下にとって、登場人物を泣かせ、観客を泣かせることは本来の目的ではない。日本人の性質、本質を探求し、えぐりだすのが目的なのである。その結果、ひとつの表現手段として、泣くという行為がクローズアップされているのだ。

 2005年に木下惠介DVD-BOXがリリースされる際、松竹の依頼で関連資料を作成するため、浜松にある木下惠介記念館へ何度か行き、資料をいただいたり、調べものをさせていただいたことがある。その作業の過程で、私は木下惠介監督の映画を全て観ることができた。過去に観ていた作品も、改めて観直した。そうして改めて、木下監督の多彩な才能と、飽くなき実験精神と、一見あたたかいようで実は冷徹で動じない眼差しに、強い興味を覚えた。

 『二十四の瞳』は1954年9月に公開され、周知の通り、木下を一流監督の座へと押し上げた大作である。ただ、「泣ける映画」の代名詞のようにいわれるこの作品を観ても、私はそこまで泣くことができない。また、主人公の大石先生を模範的教師ないし人格者のようにたたえる評にも賛同できない。
 劇中、大石先生は何度も泣く。子供たちのために何度も何度も泣く。彼女にできるのは、自分でもいっているように「一緒に泣いてあげる」ことだけなのである。しかし、その涙は、彼女自身の浄化作用にはなっているかもしれないが、子供たちにとって救いになっているかどうかわからない。木下監督はそこに生じる微妙な距離を常に意識しながら演出している。少なくとも、私にはそのように見える。
 金比羅参りに行く途中、船上で歌の上手なマスノに「浜辺の歌」を歌わせておきながら、自分の夫が乗っている遊覧船が近づいてくると、歌っているマスノをほっぽり出してしまうシーンなども、大石先生を「人格者」にするつもりなら、必要ない場面である。貧しさゆえに学校をやめて食堂で働くことになった松江が、大石先生と元クラスメートたちの楽しそうなやりとりを耳にして延々と流す悔し涙も、大石先生自身には非がないとはいえ、先生の存在があることによって悲しみの度合いを増す。「泣ける映画」というには、何かと複雑な感情を呼び起こさせる作品である。

圧巻の『楢山節考』

 先に「代表作の『二十四の瞳』、『野菊の如き君なりき』」と書いたが、個人的には、ほかにも観ておくべきものがあると思っている。例えば、1953年の『日本の悲劇』。登場人物が打ちのめされ、どん底に落ち込んでも、動じることを知らない木下監督の眼差しから生まれた、リアリズムの結晶である。登場人物が泣くから湿っぽい、そんな理屈は『日本の悲劇』には当てはまらない。ここで流される涙には少しの甘さもない。はっきりいって不味い涙である。そういいたくなるほど泣きのシーンがヒリヒリしている。観客に同情してほしい、という種類の涙とは根本的に性質が異なる。『日本の悲劇』こそ木下監督の最高傑作だと評する人もいるが(木下が『善魔』でデビューさせた三國連太郎もその一人)、おそらく『二十四の瞳』や『野菊の如き君なりき』しか知らない人が観たら、その重さ、厳しさに呆気にとられることだろう。

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 深沢七郎原作の『楢山節考』、『笛吹川』にも、感傷に溺れることのない木下のスタンスが明確にあらわれている。1958年の『楢山節考』は姥捨山を題材にした作品で、歌舞伎の様式をとりいれ、山も森も谷もセットにして人工的な世界を創出、照明も不自然な配色にするなど、凝った演出法をとっている。その気になれば感動的な「母子もの」にできるところ、あえて様式化して、余分な主観や感情移入を排することで、昔話をそのまま映像に置き換えたような趣を持たせているのだ。前歯を折ったり、体重を減らしたり、腕にゴム輪を付けて血管を浮き上がらせたりして撮影に臨んだおりん役の田中絹代も素晴らしい。「名女優の熱演」という際立ち方をせずに、木下映画の世界観にとけこんでいる。
 辰平役の高橋貞二は、おそらく彼の短い生涯の中でも(公開の翌年、交通事故で死去)屈指の重い役を務めているが、これも好演である。山に着いた辰平が、背負っていたおりんをおろし、置き去りにする直前、我慢できずにおりんを抱きしめるまでの一部始終を、木下監督は引きのアングルで撮っているのだが(霧が立ちこめているため、2人の姿がはっきりと見えないのもポイント)、これがまた鳥肌が立つほどリアリティがあり、胸に響くシーンに仕上がっている。人工的な拵え物から生身の感動が漏れ出てくる瞬間である。すべてのシーンはこの瞬間のために存在しているといっても、いいすぎではないだろう。
 秀抜なのは2人だけではない。おりんと違って山に行くことを拒み、昆虫のように細い手足をばたつかせて生に執着する又やん役の宮口精二。辰平の嫁、玉やん役の望月優子。憎々しいほど食い意地の張った松やん役の小笠原慶子。いずれもこの人工的な世界の中に、どかりと腰を据えている。
続く
(阿部十三)



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