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『デッドゾーン』の世界 [続き]

2014.06.08
解釈の余地

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 映画版では、あれこれの解釈の余地なくストーリーが進行する。スティルソンは人間の屑であり、危険人物であり、歴史から消えるべき政治家だという印象が揺らぐことはない。だからジョンが行動をおこすのはやむを得ない、となる。

 原作はもっと複雑である。ここではスティルソンの過去の歩みが丁寧に描かれている(ジョンの過去はというと、スティルソンほど言及されていない)。そうすることで凶暴かつダーティな人物像に厚みが生まれている。ジョンはこの「信仰復興運動の説教師の激越で威嚇的な、速射砲のような弁舌の持ち主」を嫌悪する。彼の中では、母親の心を完膚なきまでに蝕んだ宗教のイメージと、かつてバイブルを売り歩き、雨乞い師もしていたスティルソンのイメージが合致しているのだ。

 スティルソンと握手した時、ジョンが見通した未来は、強烈なインパクトを持ちながらも、抽象的で断片的なものにすぎない。自分がスティルソンの行く手を阻むことまでも、そうとは知らずに予知してしまっているからである。本来ならば、ジョンにとって「彼を殺す。暗殺する」と決断するための材料は、これだけでは足りないはずだ。
「紛れもない殺人が、結局、選びうる唯一の道だということになったらどうするか? そして、僕は引き金を引けるということになったら? 殺人はそれでもやはり悪だ。殺人は悪だ。殺人は悪だ。まだほかに答えがあるかも」
 このようにジョンはぎりぎりまで葛藤する。そこから解釈の余地が生まれる。スティルソンは実際に核戦争を起こす危険人物なのだろうが、ジョン自身が「彼を殺す。暗殺する」と決断した背景には、もっと個人的な感情、母親を狂わせた邪教的なものへの憎悪や復讐心も含まれていたのではないかと。

 映画には「僕に備わったパワーを今は神の恵みだと思っている」という台詞が出てくるが、原作のジョンはそんな風に悟らない。彼は絶望的な状況で神に挑んでいる。そういう姿勢は、「この才能は神が与え給うたものだ、というなら、それならば神は食い止めねばならない危険な狂人だ。神がグレッグ・スティルソンの死を望むなら、なぜ彼が臍の緒を首に絡ませたまま産道を降りるようにさせなかったのか」という文章からも明白である。

 とはいえ、映画の中にも気になる点はある。ジョンが人目を忍び、一人暮らしを始めた家の壁に飾られた絵画である。その多くは風景画のようだが、一枚、黒いロケットが飛んでいるような子供っぽい絵が飾られている。監督が意味もなくこんな絵を配置させるわけがないので、やはり暗示的な意味を持たせていると解するべきだろう。そこで浮かび上がってくるのは、この絵のイメージが病んでいるジョンの脳にすりこまれ、スティルソンの未来をはっきり見通す際に影響を与えたかもしれない、という可能性である。そもそも映画版のジョンが予知能力を発揮した対象は2人にすぎない(看護婦の娘エイミーの場合、現在進行形の火事を透視したものなので、この中には入らない)。1人目はクリス。これは少年が溺死する断片的イメージが見えただけである。2人目はスティルソン。これは明確な光景として予知される。しかし、わずか2回で自分の予知に確信を持てるものだろうか。その予知を促進し補強したものがあるとすれば、それは部屋に飾ってある絵なのではないか。

忘れられないシーン

 ジョン・スミスそのものにしか見えないクリストファー・ウォーケンの魅力については、すでに多くのことが語られている。この作品に限ったことではないが、彼の演技は台詞の言外にあるナイーヴな感情の波で観る者を静かに包み込む。前作『ブレインストーム』で共演者のナタリー・ウッドが水死し、いろいろ噂された後だけに、彼としても『デッドゾーン』にかける気持ちは強かったのではないか。

 好きな場面はたくさんあるが、何度観ても胸にしみるのは、ウィザック博士がジョンの透視能力をいぶかしく思いながらも、戦争で生き別れになった老母の家に電話し、その声を聞いて、何もいえぬまま手で目を覆うシーンである。ウィザック役はプラハ生まれの俳優ハーバート・ロム。1930年代にデビューし、『マダムと泥棒』や『ピンクパンサー2』などにも出演しているベテランだ。その抑制の利いた演技が素晴らしい。短いシーンながら、平静なウィザックが長年心に秘めていた哀しみが伝わってくる。このシーンがあるからこそ、「ヒトラーが台頭する前のドイツに行けたら、一体何をしますか? 彼を殺しますか?」というジョンの問いに答える資格のある人物として、説得力を持ち得るのだ。
 電話つながりでいうと、ジョンが公衆電話でクリスの無事を確かめるシーンも良い。一瞬、クリスは死んだのかと思わせるが、その辺の演出もうまい。無事を知ったジョンが受話器を胸に当てる行為には、自分の声が相手に漏れないようにするためだけでなく、もう会えないクリスをやさしく抱きしめる意味合いも込められている。老母の安否を確かめるウィザックの心情と重なる場面でもある。

 私が『デッドゾーン』を初めて観たのは高校時代のこと。その時はハインリヒ・ハイネの「アトラス」を思い出し、詩集を読み返したものである。当時ドイツの詩が好きだったので、たまたま頭の中で重なったのだ。

俺は不幸なアトラス! ひとつの世界を、
この苦しみの世界をまるごと担わねばならない。
担うべくもないものを担い、
体の中で俺の心臓は破裂しそうだ。
誇り高き心よ、これはお前が自分で望んだことだ!
お前は望んだ、限りなく幸福でありたいと、
それが駄目なら限りなく不幸でありたいと。
誇り高き心よ、かくて今、お前は不幸の方を引き当てた。


 ジョンが置かれた状態はこの「アトラス」に通じている。彼は超能力を己の欲望のために用いなかった。それは自分で選んだことである。望みさえすればいくらでも利己的に濫用出来たはずだ。しかし、彼はそういう神経を持ち合わせていなかった。結局は背負いきれないような苦悩を背負い込み、悲劇の道を歩むのである。

 映画は不幸な結末を迎える。ジョン・スミスの名は、精神異常の暗殺未遂犯として犯罪史に刻まれるだろう。が、ジョン自身は誰も気付いていないところで世界を救い、自分の役目を果たしたと感じている。映画を観ている私たちはそれを知っている。変化した未来で政治生命を終えたスティルソンがとる行動も、安堵感をもたらす。それに、ジョンは愛する人の腕の中で息絶えたのである。状況は最悪だが絶望的ではないエンディングというべきだろう。その深い余韻の中、原作の言葉を借りれば、「ぼくらはみな自分にできることをやり、きっとそれでよいのだろう......もしよくなくても、それはそれで仕方がない」という気持ちに、私たちは無理なく同化することが出来るのだ。
(阿部十三)


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『デッドゾーン』の世界
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