桑野通子 〜代わりがいないということ〜
2015.07.03
桑野通子は1934年から12年間、映画界で活躍した松竹のトップスターである。その美貌と抜群のプロポーションは映画界に入る前から注目の的だったようで、三田高等女学校を卒業した後、森永製菓の初代スウィート・ガールとして活動し、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のダンサーに転身、客が押し寄せるほどの売れっ子になった。後に共演し、ロマンスを噂されることになる上原謙は、まだ学生だった頃、憧れの桑野通子と踊ったことがあるという。そのときの思い出をこのように書き記している。
「ダンサーの席順は売り上げによってかわるが、彼女はたいていは一番の人気ダンサーだった。バンドが始まると、売れっ子の娘たちのところにチケットをもった客が殺到する。私もその大勢の客のなかに混じって、ようやく彼女の手をとることができた。胸をときめかせながら、たった一度だけフロリダ時代の彼女と踊った思い出は忘れることができない」
松竹にスカウトされ、『金環蝕』(1934年)でデビューしたのは19歳のとき。スターになるまでに時間はかからず、『彼と彼女と少年達』(1935年)を皮切りに上原謙と共演を重ね、「アイアイ・コンビ」と呼ばれて両者共に人気を獲得した。その頃、主な成功作を手がけたのは、清水宏である。清水監督に鍛えられたことで、桑野はお飾りのお人形さんにならず、演技力を磨き、女優としての実力をつけることができたのだ。
愛称は「ミッチー」。丸顔に、きりっとしていながらもやさしさをたたえた目、上品な口元、耳にすんなりとなじむ声、洋服も和服も着こなせる完璧なスタイルと垢抜けたセンス、ほかの女優にはないモダンな雰囲気、そしてモダンではあるが決して軽薄ではない情味......当時人気があったというのも頷けるし、現代にも通用する美人だと思う。格好をつけることで格好良く見える人はいくらでもいるが、彼女はそういうわざとらしさを一切感じさせない。
10代後半の頃、私は彼女の名前がクレジットされている作品を片っ端から観た。清水宏監督の『有りがたうさん』(1936年)で、バスを運転する「有りがたうさん」に「黒襟の女」が「煙草を一本御馳走してくれない?」と言うシーンを観て以来、この女優のことが忘れられなくなったのである。日本の女優の中で初めてのめり込むほど夢中になったのは桑野通子だった。
桑野は陰のある女から聡明で行動的な女まで演じ分けることができたが、甘い恋愛にあまり縁がない役である点は共通している。『東京の英雄』(1935年)では母親の仕事のせいで結婚が駄目になって堕落する娘、『有りがたうさん』では自分の恋を諦めているような流れ者の酌婦、『家族会議』(1936年)では恋の鞘当てに負けるお嬢様、という具合だ。さらに、『恋も忘れて』(1937年)での役はワケありのホステス、『螢の光』(1938年)は生徒思いの真面目な教師、『家庭日記』(1938年)は女給上がりの我の強い女。遺作『女性の勝利』(1946年)は気まずい夫婦関係・姉妹関係に苦悩する役である。明快なラブストーリーだと、『向日葵娘』(1939年)くらいしか思いつかない。
私が今でもよく観るのは、小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』(1937年)と島津保次郎監督の『兄とその妹』(1939年)である。いずれも恋愛に悩んでめそめそするような女性ではなく、男性と対等もしくはそれ以上の行動力を備えた女性の役だ。
『淑女は何を忘れたか』ではさばさばした関西女に扮し、女房が主導権を握る家庭に波風を立てる。洋服が似合うそのシルエットは絶品。それ以上に、こういう作品を観ると、桑野にコメディの才能があったことがよく分かる。端役で出た『戸田家の兄妹』(1941年)も小津映画。小津は桑野の気の良さと真面目さを高く買っていたが、残念ながら一緒に組んだ作品は少ない。
『兄とその妹』は桑野のハイカラな魅力をうまく捉えた代表作。島津監督は当時のファンが望んでいたであろう知的なOL役を彼女に与え、スマートでモダンな格好良さとチャーミングな可愛らしさをたっぷり引き出すことに成功している。硬派の佐分利信を兄役に、落ち着いた雰囲気の三宅邦子を義姉役に据えた効果も大きい。サラリーマン社会のハードさを描く一方、こんな妹がいたら楽しかろうと夢を見させる作品である。ハイカラと言えば、『男性対女性』(1936年)も忘れられない。照明係を演じる桑野はとにかく明るくてスタイリッシュ。「アイアイ・コンビ」が放つ華やかさ、爽快さを味わうのにもうってつけだ。
もう一作、佐々木康監督の『新女性問答』(1939年)も代表作として挙げないわけにはいかない。姉妹愛、女の友情、差別、殺人、裁判など詰め込めるだけ詰め込んだ、突っ込みどころの多いメロドラマである。この作品では、芸者をしている姉の援助を受けながら弁護士を目指す学生役(後半は弁護士役)を好演。脚本の出来はともかくキャスティングは適材適所で、桑野だけでなく川崎弘子、坪内美子、三宅邦子の演技も光っている。ちなみに、日本初の女性弁護士が誕生するのは、映画が公開された1年後のことだ。
上原謙によると、桑野には威張ったところがなく、控えめでやさしい人だったという。2人は仲が良く、結婚するかもしれないと思われていた。それでも結ばれなかった理由として、上原は自伝に「これは推測の域を出ないのだが、彼女は森永製菓のスウィートガールで活躍していたころから、森永の企画部の斎藤芳朗氏とつきあいがあったにちがいない」と書いている。戦中の1942年、桑野はその斎藤氏との間に娘をもうけた。後の松竹のスター、桑野みゆきである。しかし4年後、2度目の妊娠中、溝口健二監督の『女性の勝利』に出演し、もう少しで撮影終了というところで倒れ、帰らぬ人となった。31歳の死は早すぎる。
「日本美人」「清純派」「個性派」「小悪魔」などのキーワードでは括ることのできない桑野通子が占めていたポジションは特異なものである。美人女優がひしめいていた当時でも、桑野ほど近代的で颯爽たる印象を残した人はいない。自立していて、凛々しさがあり、媚びることなく、それでいてどこか放っておけない雰囲気を漂わせるこの女優が抜けた穴は、結局誰にも埋めることはできなかった。桑野通子が今日もなおフィルムの中でフレッシュな魅力を保っているのは、言ってみれば、代わりのいない永久欠番のような存在だからなのかもしれない。
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桑野通子
「ダンサーの席順は売り上げによってかわるが、彼女はたいていは一番の人気ダンサーだった。バンドが始まると、売れっ子の娘たちのところにチケットをもった客が殺到する。私もその大勢の客のなかに混じって、ようやく彼女の手をとることができた。胸をときめかせながら、たった一度だけフロリダ時代の彼女と踊った思い出は忘れることができない」
(上原謙 『がんばってます 人生はフルムーン』)
松竹にスカウトされ、『金環蝕』(1934年)でデビューしたのは19歳のとき。スターになるまでに時間はかからず、『彼と彼女と少年達』(1935年)を皮切りに上原謙と共演を重ね、「アイアイ・コンビ」と呼ばれて両者共に人気を獲得した。その頃、主な成功作を手がけたのは、清水宏である。清水監督に鍛えられたことで、桑野はお飾りのお人形さんにならず、演技力を磨き、女優としての実力をつけることができたのだ。
愛称は「ミッチー」。丸顔に、きりっとしていながらもやさしさをたたえた目、上品な口元、耳にすんなりとなじむ声、洋服も和服も着こなせる完璧なスタイルと垢抜けたセンス、ほかの女優にはないモダンな雰囲気、そしてモダンではあるが決して軽薄ではない情味......当時人気があったというのも頷けるし、現代にも通用する美人だと思う。格好をつけることで格好良く見える人はいくらでもいるが、彼女はそういうわざとらしさを一切感じさせない。
10代後半の頃、私は彼女の名前がクレジットされている作品を片っ端から観た。清水宏監督の『有りがたうさん』(1936年)で、バスを運転する「有りがたうさん」に「黒襟の女」が「煙草を一本御馳走してくれない?」と言うシーンを観て以来、この女優のことが忘れられなくなったのである。日本の女優の中で初めてのめり込むほど夢中になったのは桑野通子だった。
桑野は陰のある女から聡明で行動的な女まで演じ分けることができたが、甘い恋愛にあまり縁がない役である点は共通している。『東京の英雄』(1935年)では母親の仕事のせいで結婚が駄目になって堕落する娘、『有りがたうさん』では自分の恋を諦めているような流れ者の酌婦、『家族会議』(1936年)では恋の鞘当てに負けるお嬢様、という具合だ。さらに、『恋も忘れて』(1937年)での役はワケありのホステス、『螢の光』(1938年)は生徒思いの真面目な教師、『家庭日記』(1938年)は女給上がりの我の強い女。遺作『女性の勝利』(1946年)は気まずい夫婦関係・姉妹関係に苦悩する役である。明快なラブストーリーだと、『向日葵娘』(1939年)くらいしか思いつかない。
私が今でもよく観るのは、小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』(1937年)と島津保次郎監督の『兄とその妹』(1939年)である。いずれも恋愛に悩んでめそめそするような女性ではなく、男性と対等もしくはそれ以上の行動力を備えた女性の役だ。
『淑女は何を忘れたか』ではさばさばした関西女に扮し、女房が主導権を握る家庭に波風を立てる。洋服が似合うそのシルエットは絶品。それ以上に、こういう作品を観ると、桑野にコメディの才能があったことがよく分かる。端役で出た『戸田家の兄妹』(1941年)も小津映画。小津は桑野の気の良さと真面目さを高く買っていたが、残念ながら一緒に組んだ作品は少ない。
『兄とその妹』は桑野のハイカラな魅力をうまく捉えた代表作。島津監督は当時のファンが望んでいたであろう知的なOL役を彼女に与え、スマートでモダンな格好良さとチャーミングな可愛らしさをたっぷり引き出すことに成功している。硬派の佐分利信を兄役に、落ち着いた雰囲気の三宅邦子を義姉役に据えた効果も大きい。サラリーマン社会のハードさを描く一方、こんな妹がいたら楽しかろうと夢を見させる作品である。ハイカラと言えば、『男性対女性』(1936年)も忘れられない。照明係を演じる桑野はとにかく明るくてスタイリッシュ。「アイアイ・コンビ」が放つ華やかさ、爽快さを味わうのにもうってつけだ。
もう一作、佐々木康監督の『新女性問答』(1939年)も代表作として挙げないわけにはいかない。姉妹愛、女の友情、差別、殺人、裁判など詰め込めるだけ詰め込んだ、突っ込みどころの多いメロドラマである。この作品では、芸者をしている姉の援助を受けながら弁護士を目指す学生役(後半は弁護士役)を好演。脚本の出来はともかくキャスティングは適材適所で、桑野だけでなく川崎弘子、坪内美子、三宅邦子の演技も光っている。ちなみに、日本初の女性弁護士が誕生するのは、映画が公開された1年後のことだ。
上原謙によると、桑野には威張ったところがなく、控えめでやさしい人だったという。2人は仲が良く、結婚するかもしれないと思われていた。それでも結ばれなかった理由として、上原は自伝に「これは推測の域を出ないのだが、彼女は森永製菓のスウィートガールで活躍していたころから、森永の企画部の斎藤芳朗氏とつきあいがあったにちがいない」と書いている。戦中の1942年、桑野はその斎藤氏との間に娘をもうけた。後の松竹のスター、桑野みゆきである。しかし4年後、2度目の妊娠中、溝口健二監督の『女性の勝利』に出演し、もう少しで撮影終了というところで倒れ、帰らぬ人となった。31歳の死は早すぎる。
「日本美人」「清純派」「個性派」「小悪魔」などのキーワードでは括ることのできない桑野通子が占めていたポジションは特異なものである。美人女優がひしめいていた当時でも、桑野ほど近代的で颯爽たる印象を残した人はいない。自立していて、凛々しさがあり、媚びることなく、それでいてどこか放っておけない雰囲気を漂わせるこの女優が抜けた穴は、結局誰にも埋めることはできなかった。桑野通子が今日もなおフィルムの中でフレッシュな魅力を保っているのは、言ってみれば、代わりのいない永久欠番のような存在だからなのかもしれない。
(阿部十三)
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桑野通子
[桑野通子略歴]
1915年1月4日、東京生まれ。本名は桑野通(みち)。三田高等女学校を卒業後、森永製菓の初代スウィート・ガール、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のダンサーを経て、1934年に清水宏監督の『金環蝕』で女優デビュー。多くの作品で三羽烏(佐分利信、上原謙、佐野周二)と共演した。清水宏をはじめとする多くの名匠に起用され、『彼と彼女と少年達』『有りがたうさん』『淑女は何を忘れたか』『恋も忘れて』『兄とその妹』『新女性問答』『戸田家の兄妹』などに出演。『女性の勝利』の撮影中に倒れ、1946年4月1日、子宮外妊娠による出血多量で亡くなった。『青春残酷物語』『あの橋の畔で』で知られる桑野みゆきは娘である。
1915年1月4日、東京生まれ。本名は桑野通(みち)。三田高等女学校を卒業後、森永製菓の初代スウィート・ガール、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のダンサーを経て、1934年に清水宏監督の『金環蝕』で女優デビュー。多くの作品で三羽烏(佐分利信、上原謙、佐野周二)と共演した。清水宏をはじめとする多くの名匠に起用され、『彼と彼女と少年達』『有りがたうさん』『淑女は何を忘れたか』『恋も忘れて』『兄とその妹』『新女性問答』『戸田家の兄妹』などに出演。『女性の勝利』の撮影中に倒れ、1946年4月1日、子宮外妊娠による出血多量で亡くなった。『青春残酷物語』『あの橋の畔で』で知られる桑野みゆきは娘である。
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