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山村 聰 〜繊細さと重厚さの均衡〜

2016.10.01
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 山村聰は俳優として多くの映画に出演しただけでなく、一時は監督としても注目を浴びていた。その点で、歳の近い佐分利信と比較されることもあったが、2人を並べて語るのは難しい。佐分利は戦前から硬派の大スターだった人であり、キャリアの面でも、持ち味の面でも、山村とは異なる。

 山村は1910年生まれ。東京帝国大学独文科を卒業後、大阪で演劇の道に進み、「二年足らずで、井上正夫先生の一座に加えていただき、主として、東京の大劇場に出ていた」(『釣りひとり』)。映画に出演したのは戦後、つまり30代後半からで、映画俳優としては遅めのデビューと言える。しかし出演作品は多数かつ多様で、東宝、新東宝、松竹、大映、日活、東映と映画会社を股にかけ、現代劇も時代劇もこなしていた。自ら設立した「現代ぷろだくしょん」で『蟹工船』(1953年)を監督し、翌年日活で『黒い潮』(1954年)を手がけ、いずれも好評を博したところをみると、演技や監督の才能だけでなく、勘の鋭さや器用さも多分に持ち合わせていたのだろうと思われる。

 硬派な男優の枠内で語られることが多いが、山村の場合、少しくだけた情味があり、生活感があり、己の弱みを見せているような人間臭いところがある。重厚な存在感を漂わせながらも、苦悩や淋しさを隠さない男性像だ。系統としては、佐分利よりもむしろ森雅之の方に近い、と私はみている。にじみ出るそのやさしさ、色気、繊細さも、昔風の無骨さや超然さを経由したものではなく、誰の目にも分かりやすいロマンス・グレー風のものである。なので、『山の音』(1954年)のような作品だと、自分の息子の嫁に寄せる愛情が、品の良さは保ちながらも、わりと露骨に、ウェットな生々しさを以て、観る者に伝わってくる。

 『平手造酒』(1951年)は傑作でも何でもないが、山村聰らしさはよく出ている作品だ。ここに登場する平手は、はっきり言って、全くカッコよく見えない。とにかくデリケートで、哀感に満ち、どこか頼りなく、そして病弱である。台詞が最小限なのはまだ良いとして、殺陣をほとんど見せず、ようやく大利根河原の決闘の場面になったと思ったら、病気のため過剰なほどヨロヨロしているので、痛快さのかけらもない。「こんなのは平手造酒じゃない」と言いたいところだが、名にし負う凄腕剣士の哀れさや弱さを見せる映画としては成功している。

 その後、年齢を重ねるごとに威厳や風格が備わり、『背徳のメス』(1961年)では腐敗した病院の科長、『傷だらけの山河』(1964年)では欲に満ちた事業家を演じて貫禄を示し、『日本のいちばん長い日』(1967年)では米内光政、『トラ・トラ・トラ!』(1970年)では山本五十六、『世界大戦争』(1961年)や『ノストラダムスの大予言』(1974年)では総理大臣役まで務めている。要人役ならお任せあれ、という感じである。しかし、どんな役を演じても、鉄の仮面をつけている風ではなく、内なる感情の動きが見え、生々しい興奮の息づかいが聞こえるのがこの人の魅力で、何を考えているか読み取れないという意味での分かりにくさはない。

 そんな山村の魅力が遺憾なく発揮されているのが、監督兼主演作品の『黒い潮』だ。有名な『蟹工船』も力作だけど、知的で、葛藤的で、繊細で、渋みのある山村の持ち味と、映画の題材、役柄が合っているのは『黒い潮』の方だろう。原作は井上靖。1949年に起こった下山事件をベースにした社会派映画である。「ジャーナリズム」というと、今や鼻で笑われそうな代物になっているが、少なくともこの映画には誠実さ、真摯さがある。

 山村が演じているのは、ベテランの速水記者(元毎日新聞の平正一がモデルらしい)。国鉄総裁が礫死体となって発見された事件を取り上げる際、速水は他殺説をとる方が新聞が売れるという風潮に抗い、あくまでも慎重かつ厳正に事件を扱おうとする。

 速水には暗い過去がある。自分の妻が流行歌手と心中したとき、興味本位の無責任な報道に苦しめられたことがあるのだ。だからこそ、自分は真実から目を背けず、あくまでも真実を記事にしたいと考えている。しかし、世間では他殺説が優勢で、真実を追求する姿勢は一切評価されず、さらに、事件に対する世間の関心も新たな大事件が起こることで押し流され......という現実を前にして、速水は大きな失望を味わう。山村にこういう役を演じさせると、天下一品である。演出には多少おセンチなところもあるが、今は昔のジャーナリスト像を示した傑作として忘れられない。

 5年後、山村は増村保造監督の『闇を横切れ』(1959年)で汚職に手を染める編集局長を演じている。海千山千だが、根っからの悪者ではなく、若い熱血記者の正義感にふれて最後に改心する。その変節ぶりの激しさで観る者を当惑させかねない役であるにもかかわらず、説得力を感じさせるのは、知的で繊細な雰囲気を武器にできる山村の強みだ。これも彼にふさわしい役どころと言える。
(阿部十三)


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山村 聰

[山村 聰略歴]
1910年2月24日、奈良県生まれ。本名、古賀寛定。東大独文科卒業後、舞台俳優の道に進み、井上正夫一座、文化座を経て、1946年に『命ある限り』で映画デビュー。溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、大庭秀雄など多くの名匠の作品に起用され、注目を浴びた。インテリ肌と重厚な雰囲気を併せ持つ名優としてオファーが絶えず、六社協定・五社協定の時代も各社の作品に出演。独立プロ「現代ぷろだくしょん」まで設立し、監督業に乗り出し、成功を収めた。1960年代からは俳優業に注力、主に要人役を演じ、TVドラマ(『必殺仕掛人』『華麗なる一族』など)でも活躍していた。2000年5月26日死去。著書『釣りひとり』がある。名前の表記は「山村 聰」のほか、「山村 聡」とも書く。