超能力映画 1980年代
2018.01.27
デヴィッド・クローネンバーグ
1980年代になると、いよいよ本格的な超能力映画が登場する。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『スキャナーズ』(1981年)と『デッドゾーン』(1983年)だ。『スキャナーズ』は、他人が考えていることを読み取る能力を持つ中年男の頭を、冷酷な超能力者レボックが逆に乗っ取って爆発させるショッキングな映像が有名である。『フューリー』のラストを思い起こさせるシーンだが、『スキャナーズ』ではこれを序盤に持ってくる。ここから本格的に話が始まる。
この作品は、先に挙げた超能力のタイプのうち(3)と(4)を含む。宇宙人も悪霊も出てこない。そして、先天的に超能力を持ったのはなぜかという理由が明示される。さらに、世界を征服しようとするレボックに、社会不適合者の状態から「覚醒」した別の超能力者ベイルが立ち向かう図式となっている。超能力を持つがゆえの孤独、同じ能力を持つ者同士のピースフルな共鳴も描かれている。ホラー的でもあり、SF的でもあり、サスペンス的でもあり、(電話回線を使ったスキャンや、最後の超能力バトルの派手さはともかく)現実にありそうなリアリティを漂わせてもいる超能力映画と言うことができる。
『スキャナーズ』に比べると、『デッドゾーン』の主人公ジョニーはより孤独である。これは私が最も好きな超能力映画で、以前スティーヴン・キングの原作と共に詳細に論じたことがあるが、ジョニーは念動力を持たず、その能力は過去に起こったこと、未来に起こることを読み取る力のみに限定される。
覚醒のきっかけは偶然である。大事故に遭って昏睡状態に陥り、5年後に目覚めたジョニーは、何故か超能力を持っていた。彼は己の能力に戸惑いつつ、殺人事件を解決したり、子供の命を救ったりするが、絶え間ない頭痛に悩まされ、静かに暮らしたいと願う。しかし、ある日、新進政治家と握手した際、その男が大統領になって核ミサイルのボタンを押す未来を見てしまう......。荒涼とした風景が印象に残る静かな映画で、主人公の孤独が伝わってくるし、心にしみるものがある。
クローネンバーグ以降、1980年代の海外で作られた超能力映画はあまりパッとせず、シリアス系では当時の天才少女ドリュー・バリモアが主演を務めた『炎の少女チャーリー』(1984年)が記憶に残るくらいである。『キャリー』も『デッドゾーン』も『炎の少女チャーリー』も原作はスティーヴン・キング。いかにキングがこの分野の発展に貢献したかが分かろうというものだ。
コメディ
現実世界で超能力を持つことへの悩みがない映画が出てきたのも、1980年代の特徴と言えるかもしれない。その代表的な例が学園コメディ『超能力学園Z』(1982年)で、科学実験の際、偶然超能力を身につけてしまった真面目な学生バーニーが、野球の試合でホームランを打ったり、喧嘩に勝ったり、ルーレットでズルをしたり、女の子の服を脱がせまくったりする。ガールフレンドも親友もそんな彼のことを恐れず差別もせず、一緒になって楽しんでいる。
母親が息子の能力におののき十字架をかざしてドタバタを演じたり、バーニーがプロムで超能力を爆発させて女の子たちを裸にしまくるところは、明らかに『キャリー』のパロディで、「超能力で悩むなんてもうやめようぜ!」と言わんばかりである。これも時代だろう。このおバカ映画を観ると、宇宙人とか悪魔とか言っていたのが別世界の出来事に思える。
「学園」と「超能力」のテーマは相性が良く、日本でもこの組み合わせで様々な作品が撮られているが、超能力を持ったら誰もがやってしまうであろう『超能力学園Z』のような展開を持つ映画は主流にならず、やはり「超能力を隠す」ないし「超能力に悩む」という方向で話を進めるのが主流である。
個人的に「学園」と「超能力」で思い出すのは、1970年代の日本の漫画『エスパー魔美』と1980年代の『きまぐれオレンジ☆ロード』だ。どちらも主人公は中学生。超能力者であることを一部の人は知っているが、それ以外は知らない(主人公が隠している)という設定で、家庭内の描写も盛り込んで日常的な空気感を重んじている。異なるのは、『エスパー魔美』では超能力を使いまくり、『きまぐれ☆オレンジロード』ではなるべく使わないようにする(結局使うのだが)ところで、後者の場合はむしろ三角関係の恋模様がメインテーマとなっている。この2作品は1987年にアニメ化された。超能力が周囲にバレそうになって絶体絶命の危機、というエピソードーーアニメ版『エスパー魔美』第61話、『きまぐれオレンジ☆ロード』第36話ーーもある。
角川映画
日本では多種多様な原作をもとに超能力映画が作られた。玉石混淆ではあるが、「玉」の作品には今でもファンがついている。私見では、その本格的な潮流は『スキャナーズ』以前、具体的に言えば角川春樹事務所製作、森村誠一原作、佐藤純彌監督の『野性の証明』(1978年)で堰を切ったように思える。これは超能力映画というわけではないが、薬師丸ひろ子が口にする台詞、「何か来る。大勢でお父さんを殺しに来る」(予告編では「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」)はそれくらいのインパクトがあった。ちなみに、薬師丸が演じた頼子が予知能力を得るのは異常な恐怖体験によってである。
超能力は角川作品が得意とするテーマ。同じ薬師丸主演で眉村卓原作の『ねらわれた学園』(1981年)、原田知世主演で筒井康隆原作の『時をかける少女』(1983年)が製作されたのは周知の通りだ。この2作(どちらかと言えば後者)は「学園」と「超能力」の路線を日本に深く根付かせたのみならず、超能力を扱う映画の充実化にも一役買った。角川製作の名作で、りん・たろう監督の『幻魔大戦』(1983年)というアニメもある。実相寺昭雄監督の大作『帝都物語』(1988年)も、原作は角川書店刊だ。これらの作品への力の入れ方を見ても、超能力映画はむしろ日本で時間をかけながら成熟したと言えそうだ。
『幻魔大戦』は、全宇宙で破壊のための破壊を続ける凶暴なエネルギー生命「幻魔」と、世界各地から集まったサイオニクス戦士たちの戦いを描く内容で、平井和正・石ノ森章太郎の原作とは結末が異なる。物語の軸となるのは、強力な念動力を持つ日本人高校生・東丈の覚醒、成長だ。覚醒のきっかけは、極限の恐怖を味わったことである。恐怖が引き金になっているところは、『メドゥーサ・タッチ』や『野性の証明』と同じである。
丈は、突然超能力を持ったことに興奮と孤独を感じる。そんな彼を支えるのが、姉の三千子だ。三千子に「あなたを支えるのは結局愛だけなのよ」と言われ、さらに、「あなたの偉大な力は自分のためのものじゃない。あなたのなすべきことは、この美しい地球と決して無縁のはずはない」と説かれた丈は、いわば守るべきものを守るためにサイオニクス戦士として立ち上がる。その後、彼は悲しみと挫折を経験するが、「プラス・エネルギー」の愛によって克服し、自分の力をコントロールする術を会得したことで、最強のサイオニクス戦士になる。超能力と愛を結びつけるのは、『エスパイ』にも見られたアプローチである。
角川以外の映画では、菊池桃子主演のファンタジー『テラ戦士ΨBOY』(1985年)が、個人的には懐かしく思い出される。デ・パルマ系統では、小川範子、原田美枝子が共演した『魔夏少女』(1987年)という血まみれのドラマ(映画ではない)もあった。2作ともタイトルがその内容や雰囲気を物語っている。悪に立ち向かう『テラ戦士ΨBOY』とは異なり、『魔夏少女』の主人公には明確な敵がいるわけではない。自分の能力をコントロールできず、嫌いなもの、不快なものを見境なく出血させる、もしくは殺してしまうのだ。不気味な変態男はともかく、彼女に注射しようとする医者ですら惨殺の対象になるのだから、たまったものではない。小川範子と原田美枝子の演技は完璧の一言に尽きるが、超能力モノでは最もすっきりしない、悲惨な展開を示した例の一つと言えるだろう。
『AKIRA』
『幻魔大戦』のキャラクター・デザインを手がけた大友克洋が監督した劇場版『AKIRA』(1988年)は誰もが知る傑作。1980年代に超能力を描いた作品の総括と言っても言い過ぎではない。ここでは、バイクに乗っていた鉄雄が超能力者のタカシと「接触」したことで超能力を得る。そして、科学実験を経て強大な力に目覚め、その力をコントロールできなくなり、凶暴化する。鉄雄はリーダー的存在だった幼馴染の金田に劣等感を抱いており、超能力を得てからは金田への敵意を前面に出すが、敵意や憎悪では割り切れない柔らかな感情も混じっている。
鉄雄よりもだいぶ前に覚醒し、タカシと同様にラボで暮らしているキヨコは、超能力は誰の中にも存在すると語る。「でもその力が目覚めた時、たとえその準備ができていなくても、その人は使い方を選択しなくてはならないの。そしてあの人(鉄雄)は選択した」ーーこの台詞は啓示的である。キヨコはさらに続ける。「鉄雄君は私たちの一番新しい仲間。あの人のしている事は私たちの責任でもあるの」。話はネガティブな方向にばかり進むわけではなく、彼らは彼らにしか出来ないやり方で連帯する。しかし、『幻魔大戦』の東丈のように愛と理解のある姉を持たない鉄雄を媒介として、超能力が破壊に走るのは、意思による選択というよりは宿命のように思える。同時に、科学実験のなれの果てを見せられた気分にもなる。
飽和状態から
SFやホラーの古典があり、デ・パルマやクローネンバーグの傑作があり、コメディがあり、アニメがあり、1980年代が終わる時点で超能力映画は「やりつくした」感がある。成熟したと同時に、飽和状態になったとも言える。この状況から真の意味で画期的な作品、映画史・映像史に残る作品を作り出すのは容易ではない。下手なものを作っても、また超能力かと言われるのがオチである。1990年代初頭の映画だと、「学園」と「超能力」の『超少女REIKO』(1991年)があるが、これもヒットしなかった。
そこに風穴をあけたのが、飯田譲治原作のドラマ『NIGHT HEAD』(1992年〜1993年)だ。「人間は、脳の容量の70%を使用していないと言われている。人間の持つ不思議な力はこの部分に秘められていると考えられている。使用されることのない脳の70%はこう呼ばれることがあるーーNIGHT HEAD」というエピグラフで始まる日本の深夜ドラマで、私は学生時代、熱心に見ていた。
主演は豊川悦司と武田真治。妙に生々しく、静かで、暗いトーンの中、現代社会で行き場のない霧原兄弟の疎外感がひりひりと伝わってくる。彼らは成り行きで他人と関わってしまい、そして悪意に取り囲まれる。各エピソードのタイトルはほとんどが漢字ばかりで、深刻で観念的なムードがいかにも当時の日本の深夜時間帯に合っていた。
私が観て印象に残っているのは、「悪夢」「触発」「告白」の3話で、いずれも強い力を持つ女性の超能力者(「告白」の場合は、自分の能力を自覚していない)が出てくる悲しい話だ。このドラマがヒットしたことで劇場版(1994年)も製作されたが、こちらはヒロイズムを感じさせ、私の求める世界とは異なっていた。
終わりに
ここまで挙げてきた作品の中には、続編が製作されたり、アニメ化(ないし実写化)されたり、リメイクされたものもあるが、オリジナル(ないし第一作目)は超えていない。テレパシーならともかく、念動力が出てくると、どうしてもSF寄りのド派手な展開になりがちである。
ただし、いわゆるタイムリープを扱った作品は、今日に至るまで手を替え品を替え、数々の話題作、名作が作られている。個人がタイムリープの能力を持つ設定で、SFの枠を超えた映画としては、まずカート・ヴォネガット原作、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スローターハウス5』(1972年)が思い浮かぶ。日本映画に根付いたのは、その約10年後の『時をかける少女』からだろう。この分野(タイムリープ)の作品は、21世紀に入ってからの方が充実しているし、それこそファンタジーやオカルトの枠を超えて多くの人に受け入れられている。
一個人の能力として描かれる超能力は、やはり魅力的なテーマである。アイディア次第で傑作が生まれる分野なので、今後もムードやリアリティを損なわない画期的な作品が作られることを期待したい。
【関連サイト】
超能力映画 1970年代
『デッドゾーン』の世界
愛は瞳の中に 〜アニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」の幻影〜
1980年代になると、いよいよ本格的な超能力映画が登場する。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『スキャナーズ』(1981年)と『デッドゾーン』(1983年)だ。『スキャナーズ』は、他人が考えていることを読み取る能力を持つ中年男の頭を、冷酷な超能力者レボックが逆に乗っ取って爆発させるショッキングな映像が有名である。『フューリー』のラストを思い起こさせるシーンだが、『スキャナーズ』ではこれを序盤に持ってくる。ここから本格的に話が始まる。
この作品は、先に挙げた超能力のタイプのうち(3)と(4)を含む。宇宙人も悪霊も出てこない。そして、先天的に超能力を持ったのはなぜかという理由が明示される。さらに、世界を征服しようとするレボックに、社会不適合者の状態から「覚醒」した別の超能力者ベイルが立ち向かう図式となっている。超能力を持つがゆえの孤独、同じ能力を持つ者同士のピースフルな共鳴も描かれている。ホラー的でもあり、SF的でもあり、サスペンス的でもあり、(電話回線を使ったスキャンや、最後の超能力バトルの派手さはともかく)現実にありそうなリアリティを漂わせてもいる超能力映画と言うことができる。
『スキャナーズ』に比べると、『デッドゾーン』の主人公ジョニーはより孤独である。これは私が最も好きな超能力映画で、以前スティーヴン・キングの原作と共に詳細に論じたことがあるが、ジョニーは念動力を持たず、その能力は過去に起こったこと、未来に起こることを読み取る力のみに限定される。
覚醒のきっかけは偶然である。大事故に遭って昏睡状態に陥り、5年後に目覚めたジョニーは、何故か超能力を持っていた。彼は己の能力に戸惑いつつ、殺人事件を解決したり、子供の命を救ったりするが、絶え間ない頭痛に悩まされ、静かに暮らしたいと願う。しかし、ある日、新進政治家と握手した際、その男が大統領になって核ミサイルのボタンを押す未来を見てしまう......。荒涼とした風景が印象に残る静かな映画で、主人公の孤独が伝わってくるし、心にしみるものがある。
クローネンバーグ以降、1980年代の海外で作られた超能力映画はあまりパッとせず、シリアス系では当時の天才少女ドリュー・バリモアが主演を務めた『炎の少女チャーリー』(1984年)が記憶に残るくらいである。『キャリー』も『デッドゾーン』も『炎の少女チャーリー』も原作はスティーヴン・キング。いかにキングがこの分野の発展に貢献したかが分かろうというものだ。
コメディ
現実世界で超能力を持つことへの悩みがない映画が出てきたのも、1980年代の特徴と言えるかもしれない。その代表的な例が学園コメディ『超能力学園Z』(1982年)で、科学実験の際、偶然超能力を身につけてしまった真面目な学生バーニーが、野球の試合でホームランを打ったり、喧嘩に勝ったり、ルーレットでズルをしたり、女の子の服を脱がせまくったりする。ガールフレンドも親友もそんな彼のことを恐れず差別もせず、一緒になって楽しんでいる。
母親が息子の能力におののき十字架をかざしてドタバタを演じたり、バーニーがプロムで超能力を爆発させて女の子たちを裸にしまくるところは、明らかに『キャリー』のパロディで、「超能力で悩むなんてもうやめようぜ!」と言わんばかりである。これも時代だろう。このおバカ映画を観ると、宇宙人とか悪魔とか言っていたのが別世界の出来事に思える。
「学園」と「超能力」のテーマは相性が良く、日本でもこの組み合わせで様々な作品が撮られているが、超能力を持ったら誰もがやってしまうであろう『超能力学園Z』のような展開を持つ映画は主流にならず、やはり「超能力を隠す」ないし「超能力に悩む」という方向で話を進めるのが主流である。
個人的に「学園」と「超能力」で思い出すのは、1970年代の日本の漫画『エスパー魔美』と1980年代の『きまぐれオレンジ☆ロード』だ。どちらも主人公は中学生。超能力者であることを一部の人は知っているが、それ以外は知らない(主人公が隠している)という設定で、家庭内の描写も盛り込んで日常的な空気感を重んじている。異なるのは、『エスパー魔美』では超能力を使いまくり、『きまぐれ☆オレンジロード』ではなるべく使わないようにする(結局使うのだが)ところで、後者の場合はむしろ三角関係の恋模様がメインテーマとなっている。この2作品は1987年にアニメ化された。超能力が周囲にバレそうになって絶体絶命の危機、というエピソードーーアニメ版『エスパー魔美』第61話、『きまぐれオレンジ☆ロード』第36話ーーもある。
角川映画
日本では多種多様な原作をもとに超能力映画が作られた。玉石混淆ではあるが、「玉」の作品には今でもファンがついている。私見では、その本格的な潮流は『スキャナーズ』以前、具体的に言えば角川春樹事務所製作、森村誠一原作、佐藤純彌監督の『野性の証明』(1978年)で堰を切ったように思える。これは超能力映画というわけではないが、薬師丸ひろ子が口にする台詞、「何か来る。大勢でお父さんを殺しに来る」(予告編では「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」)はそれくらいのインパクトがあった。ちなみに、薬師丸が演じた頼子が予知能力を得るのは異常な恐怖体験によってである。
超能力は角川作品が得意とするテーマ。同じ薬師丸主演で眉村卓原作の『ねらわれた学園』(1981年)、原田知世主演で筒井康隆原作の『時をかける少女』(1983年)が製作されたのは周知の通りだ。この2作(どちらかと言えば後者)は「学園」と「超能力」の路線を日本に深く根付かせたのみならず、超能力を扱う映画の充実化にも一役買った。角川製作の名作で、りん・たろう監督の『幻魔大戦』(1983年)というアニメもある。実相寺昭雄監督の大作『帝都物語』(1988年)も、原作は角川書店刊だ。これらの作品への力の入れ方を見ても、超能力映画はむしろ日本で時間をかけながら成熟したと言えそうだ。
『幻魔大戦』は、全宇宙で破壊のための破壊を続ける凶暴なエネルギー生命「幻魔」と、世界各地から集まったサイオニクス戦士たちの戦いを描く内容で、平井和正・石ノ森章太郎の原作とは結末が異なる。物語の軸となるのは、強力な念動力を持つ日本人高校生・東丈の覚醒、成長だ。覚醒のきっかけは、極限の恐怖を味わったことである。恐怖が引き金になっているところは、『メドゥーサ・タッチ』や『野性の証明』と同じである。
丈は、突然超能力を持ったことに興奮と孤独を感じる。そんな彼を支えるのが、姉の三千子だ。三千子に「あなたを支えるのは結局愛だけなのよ」と言われ、さらに、「あなたの偉大な力は自分のためのものじゃない。あなたのなすべきことは、この美しい地球と決して無縁のはずはない」と説かれた丈は、いわば守るべきものを守るためにサイオニクス戦士として立ち上がる。その後、彼は悲しみと挫折を経験するが、「プラス・エネルギー」の愛によって克服し、自分の力をコントロールする術を会得したことで、最強のサイオニクス戦士になる。超能力と愛を結びつけるのは、『エスパイ』にも見られたアプローチである。
角川以外の映画では、菊池桃子主演のファンタジー『テラ戦士ΨBOY』(1985年)が、個人的には懐かしく思い出される。デ・パルマ系統では、小川範子、原田美枝子が共演した『魔夏少女』(1987年)という血まみれのドラマ(映画ではない)もあった。2作ともタイトルがその内容や雰囲気を物語っている。悪に立ち向かう『テラ戦士ΨBOY』とは異なり、『魔夏少女』の主人公には明確な敵がいるわけではない。自分の能力をコントロールできず、嫌いなもの、不快なものを見境なく出血させる、もしくは殺してしまうのだ。不気味な変態男はともかく、彼女に注射しようとする医者ですら惨殺の対象になるのだから、たまったものではない。小川範子と原田美枝子の演技は完璧の一言に尽きるが、超能力モノでは最もすっきりしない、悲惨な展開を示した例の一つと言えるだろう。
『AKIRA』
『幻魔大戦』のキャラクター・デザインを手がけた大友克洋が監督した劇場版『AKIRA』(1988年)は誰もが知る傑作。1980年代に超能力を描いた作品の総括と言っても言い過ぎではない。ここでは、バイクに乗っていた鉄雄が超能力者のタカシと「接触」したことで超能力を得る。そして、科学実験を経て強大な力に目覚め、その力をコントロールできなくなり、凶暴化する。鉄雄はリーダー的存在だった幼馴染の金田に劣等感を抱いており、超能力を得てからは金田への敵意を前面に出すが、敵意や憎悪では割り切れない柔らかな感情も混じっている。
鉄雄よりもだいぶ前に覚醒し、タカシと同様にラボで暮らしているキヨコは、超能力は誰の中にも存在すると語る。「でもその力が目覚めた時、たとえその準備ができていなくても、その人は使い方を選択しなくてはならないの。そしてあの人(鉄雄)は選択した」ーーこの台詞は啓示的である。キヨコはさらに続ける。「鉄雄君は私たちの一番新しい仲間。あの人のしている事は私たちの責任でもあるの」。話はネガティブな方向にばかり進むわけではなく、彼らは彼らにしか出来ないやり方で連帯する。しかし、『幻魔大戦』の東丈のように愛と理解のある姉を持たない鉄雄を媒介として、超能力が破壊に走るのは、意思による選択というよりは宿命のように思える。同時に、科学実験のなれの果てを見せられた気分にもなる。
飽和状態から
SFやホラーの古典があり、デ・パルマやクローネンバーグの傑作があり、コメディがあり、アニメがあり、1980年代が終わる時点で超能力映画は「やりつくした」感がある。成熟したと同時に、飽和状態になったとも言える。この状況から真の意味で画期的な作品、映画史・映像史に残る作品を作り出すのは容易ではない。下手なものを作っても、また超能力かと言われるのがオチである。1990年代初頭の映画だと、「学園」と「超能力」の『超少女REIKO』(1991年)があるが、これもヒットしなかった。
そこに風穴をあけたのが、飯田譲治原作のドラマ『NIGHT HEAD』(1992年〜1993年)だ。「人間は、脳の容量の70%を使用していないと言われている。人間の持つ不思議な力はこの部分に秘められていると考えられている。使用されることのない脳の70%はこう呼ばれることがあるーーNIGHT HEAD」というエピグラフで始まる日本の深夜ドラマで、私は学生時代、熱心に見ていた。
主演は豊川悦司と武田真治。妙に生々しく、静かで、暗いトーンの中、現代社会で行き場のない霧原兄弟の疎外感がひりひりと伝わってくる。彼らは成り行きで他人と関わってしまい、そして悪意に取り囲まれる。各エピソードのタイトルはほとんどが漢字ばかりで、深刻で観念的なムードがいかにも当時の日本の深夜時間帯に合っていた。
私が観て印象に残っているのは、「悪夢」「触発」「告白」の3話で、いずれも強い力を持つ女性の超能力者(「告白」の場合は、自分の能力を自覚していない)が出てくる悲しい話だ。このドラマがヒットしたことで劇場版(1994年)も製作されたが、こちらはヒロイズムを感じさせ、私の求める世界とは異なっていた。
終わりに
ここまで挙げてきた作品の中には、続編が製作されたり、アニメ化(ないし実写化)されたり、リメイクされたものもあるが、オリジナル(ないし第一作目)は超えていない。テレパシーならともかく、念動力が出てくると、どうしてもSF寄りのド派手な展開になりがちである。
ただし、いわゆるタイムリープを扱った作品は、今日に至るまで手を替え品を替え、数々の話題作、名作が作られている。個人がタイムリープの能力を持つ設定で、SFの枠を超えた映画としては、まずカート・ヴォネガット原作、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スローターハウス5』(1972年)が思い浮かぶ。日本映画に根付いたのは、その約10年後の『時をかける少女』からだろう。この分野(タイムリープ)の作品は、21世紀に入ってからの方が充実しているし、それこそファンタジーやオカルトの枠を超えて多くの人に受け入れられている。
一個人の能力として描かれる超能力は、やはり魅力的なテーマである。アイディア次第で傑作が生まれる分野なので、今後もムードやリアリティを損なわない画期的な作品が作られることを期待したい。
(阿部十三)
【関連サイト】
超能力映画 1970年代
『デッドゾーン』の世界
愛は瞳の中に 〜アニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」の幻影〜
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