映画 MOVIE

『質屋』の鉄槌 〜ロッド・スタイガーの独壇場〜

2011.04.30
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 シドニー・ルメットの代表作というと、大半の人は『十二人の怒れる男』を挙げるだろう。アル・パチーノが好きな人なら『狼たちの午後』や『セルピコ』を選ぶかもしれない。いずれも硬派な社会派作品として知られ、評価も高い。
 ただ、身も蓋もないことを書くようだが、私自身はこの監督に何の思い入れもない。社会派と言われているわりにはシャープさが足りないし、そこまで社会の深層に踏み込んでいるとも思えない。安っぽい良心を押し売りしているような節もある。
 それなのにここで話題にしているのはなぜか。それはルメットが亡くなったから、というだけではない。たまたま彼が亡くなった4月9日にある映画を観て鉄槌を喰らったような衝撃を受けたからである。

 『質屋』。若者の目にとまることを放棄したような地味で素っ気ないタイトルである。キャストはロッド・スタイガー、ジェラルディン・フィッツジェラルド。これまた地味としか言いようがない。今や映画通しか知らない名前だ。
 しかし、この映画は傑作である。高い評価を得ていることは知っていたし、気になってはいたのだが、「でもルメットだし・・・」と二の足を踏み、観ていなかった。そのビデオを衝動買いし、ルメットが世を去った時に観ていたのも何かの縁だろう、と私は勝手に思っている。

 もっとも、この映画を傑作たらしめているのはルメットの演出ではなく、ロッド・スタイガーの演技である。ロッド・スタイガーはアクターズ・スタジオで学んだ人。当たり役は『波止場』のマーロン・ブランドの兄貴役、『夜の大捜査線』の偏見に満ちた署長役、『ドクトル・ジバゴ』のコマロフスキー役、『夕陽のギャングたち』のフアン・ミランダ役。そして私生活ではクレア・ブルームの元旦那。少なくとも私の中ではその程度の認識だった。とんでもなく凄い役者というイメージはなかった。それをここで改めなければならない。
 『質屋』は1964年の映画なのでロッド・スタイガーはまだ30代後半。『夜の大捜査線』でオスカーを獲得する前のことである。あの署長役も貫禄たっぷりで良かったが、それでも『質屋』の比ではない。

 物語は回想シーンから始まる。のどかな田園風景の中、ピクニックをしている家族がいる。2人の子供がはしゃぎ回り、父親に駆け寄る。それを美しい母親がやさしそうな笑みを浮かべて見守っている。幸福を絵に描いたようなシーンだ。しかし、その幸せはすぐさまナチスによって完膚なきまでにズタズタにされる。

 ユダヤ人、ソル・ナザーマン。ニューヨークのスラム街で質屋を営んでいる彼は、かつてナチスによって愛する家族と大学教授の地位を奪われ、強制収容所に入れられた過去を持つ。今は抜け殻のようになり、過去に蓋をして静かに暮らしているが、収容所時代の壮絶な記憶は、腕に刻まれた番号「64304」と同様、消えることなく、しばしば彼を苦しめる。
 そんな彼のもとで働いているヒスパニック系のヘズス(ジーザス)は、常に空回りしている快活な青年。昔は相当ワルだったらしく、今もその仲間たちと完全には切れていない。

 ナザーマンは孤独な男だが、人間関係が断絶しているわけではない。強制収容所で殺された男の奥さんと肉体関係を結んでいるし、福祉の仕事をしている中年女性マリリンからも興味を持たれている。ヘズスには人生の師と慕われている。ただし、ナザーマンの方から彼らに話しかけることはない。心を許すこともない。頑に心を閉ざし、無関心を貫き、感情の交わりを拒絶している。
 そんな彼が心ならずも周囲の人々の激しい感情や叫びにふれることで、しっかり蓋をしていたはずの記憶が噴出しはじめる。

 悪夢のような記憶は人の一生を支配する。そこから逃れようとしても逃れられない。思い出したくもない。そう言いながら思い出している。そして、いつの間にかその忌まわしいはずの記憶が自分という存在のアイデンティティーになっていることに気付かされる。その記憶を共有できない以上、他者とは理解し合えない。挙げ句の果てに、俺には凄まじい過去がある、それと比べればお前の過去なんか空っぽだ、と考えはじめる。そういったソル・ナザーマンの内面をロッド・スタイガーは役になりきって表現している。というか、役が憑依していて、そこにはもうロッド・スタイガーの「ロ」の字も見当たらない。

 これから観る人のためにストーリーの詳述は控えるが、状差しで自分の左手を刺すシーンについては少し書いておきたい。なぜああいう行為に及んだのか。おそらくあれは他者の死に直面して精神的混乱に陥ったナザーマンが確かな肉体的痛みによって平衡感覚を取り戻そうとする、彼なりの覚醒手段なのだ。その痛みはナザーマンにとって苦しみでもなんでもない。むしろうんざりするほどハードな外的現実を忘れさせ、自分のことだけに集中させてくれる回路のスイッチのようなものだ。発狂して自傷行為に走ったとか、他者を救えなかったことへの罪滅ぼしという解釈は安直である。
 その後のロングショットで、ナザーマンが右手をじっと見つめているのは単なるミステイクなのか、別の意味があるのかよく分からない。

 やや強引な展開、人物造型の平板さ(ナザーマン以外)など難点を挙げ始めたらキリがない。しかし、観終えた後はそんなことがどうでもよく思えてしまう。それくらいロッド・スタイガーの演技には重みがある。まさに一世一代の名演。少ししか出てこないが、マリリン役のジェラルディン・フィッツジェラルドも良い。ナザーマンとは隔絶した世界に生きる平凡な女をやわらかな雰囲気で体現している。

 音楽を担当しているのはクインシー・ジョーンズ。その天才ぶりを遺憾なく発揮した硬軟自在のスコアには誰もが耳を奪われることだろう。要所で使われるストリングスも印象的で、この映画に深い陰影を与えている。陰影といえば、ボリス・カウフマンのカメラも秀逸。陽の当たらない世界に生きる人々を硬質なタッチで浮き彫りにしている。質屋の無機的な空間もカウフマンの手にかかると肌で感じとれそうなほどひんやりとしている。付け足しのようになってしまうが、才能溢れるキャストやスタッフの指揮を執り、ベストを尽くさせたルメットの功績も忘れてはならない。

 余談だが、この映画は日本ではまだDVD化されていない。私が持っているのはVHS(00ZF-84)である。困ったことに、このパッケージの表紙には映画のオチのスチル写真が堂々と使われている。おそらくメーカーは何も考えずに載せたのだろう。お粗末としか言いようがない。というわけで、ここではその表紙は載せないでおく。
(阿部十三)