『吸血鬼ノスフェラトゥ』 〜恐怖の映像詩〜
2018.12.11
禁を犯して生まれた傑作
ヴァンパイア映画史上最初の傑作は、著作権の禁を犯した天才監督の手によって生まれた。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)の原作は、ブラム・ストーカーのベストセラー小説『ドラキュラ』である。ドイツの監督フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウは、その映画権を得ようとして断られると、ドラキュラ伯爵をオルロック伯爵、タイトルを「ノスフェラトゥ」に替えて映画を撮った。公開後、著作権侵害で訴えられたことは言うまでもない。裁判所はフィルムの破棄を命じたが、その時点ですでに世界各地に配給されていた。
そういったゴタゴタはあったものの、作品自体は掛け値なしにすばらしい。これほどまがまがしく、美しく、心胆寒からしめるヴァンパイア映画はこの世にほとんど存在しないと言っていい。
なお、この映画のフィルムは、数奇な運命を辿ったために、長さの異なるいくつかのバージョンが存在する。長年鑑賞されてきたのは64分と79分のバージョンであり、その後、ムルナウ財団所有のネガに修復を施した93分のバージョンを観ることが可能になった。短縮版の劣化したフィルムでは全く見えなかったものが鮮明に見えるようになり、また、カットされた場面が加わったことで、短縮版では唐突に感じられた話の流れがだいぶスムーズになっている。これから観るのであれば、93分版を選択すべきだろう。
若い夫婦を襲った悲劇
トマス・フッターはドイツのヴィスボルク(架空の町)に居を構え、美しい妻エレンと幸せな結婚生活を送っていた。不動産会社に勤めるフッターは、ある日、雇い主のクノックに命じられ、売買契約を結ぶためにカルパチアの山奥の城に住むオルロック伯爵を訪ねることになる。
長旅の途中、村の宿に立ち寄ったフッターは、夜に城へ行かない方がいいと宿の主人に言われて一泊する。皆オルロック伯爵のことを恐れているようだ。宿には『吸血鬼の恐るべき魂、魔力、七つの大罪』という書物が置かれていたが、フッターはそれを読んで一笑に付す。しかし、これから城で会おうとしている伯爵こそ、その吸血鬼なのであった。
翌晩、フッターは城に到着する。帽子をかぶったオルロック伯爵は、妖気を帯びており、目はギョロついていた。異常なのは外見だけでなく、食事中、フッターがナイフで指を切ると、血を見て興奮しだす。そんな伯爵にフッターは寒気を覚える。その晩、フッターは寝ている間に血を吸われるが、朝起きてもそのことに気付かず、蚊にでも吸われたのだろうと思い込む。
不動産の契約書では、オルロック伯爵はフッターの家の向かいに住む手筈になっていた。実は、不動産屋クノックは伯爵の手先であり、伯爵にエレンの血を吸わせるため、フッターを引き離し、山奥の城に派遣したのだった。契約を終えた後、フッターは荷物の中に紛れていた『吸血鬼の恐るべき魂〜』を読み、伯爵こそがその怪物だと気付く。しかし時すでに遅し、フッターは伯爵に襲われる。帽子を脱いだ伯爵ことノスフェラトゥは、スキンヘッドで、耳が長く、爪も長い。それが静かにゆっくりとフッターに歩み寄る......。同じ頃、エレンはノスフェラトゥの魔力におかされ、夢遊病を患うようになっていた。
ノスフェラトゥは城を出てヴィスボルクへ。その手段として、木箱を装った棺に身を隠し、船の荷物に紛れて乗り込み、夜ごと船員たちの血を吸う。おまけに木箱から鼠が大量に出てきて、ペストが船内に蔓延する。やがて災いをもたらす船がヴィスボルクに到着、町はペストの脅威にさらされる。
這々の体でノスフェラトゥの城から脱出したフッターは、近道を使って何とか帰宅し、エレンを抱きしめる。しかし、向かいの建物に住みついたノスフェラトゥは、魔力でエレンを撹乱する。彼女はノスフェラトゥを強く拒み、同時に(心ならずも)求めるようになっていた。そんな時、夫が持っていた『吸血鬼の恐るべき魂〜』を読んでしまう。彼女が開いたページには、「心に汚れなき女性が自らの血をノスフェラトゥに惜しみなく与え、雄鶏が朝を告げるまで、ヴァンパイアを自らのそばに引き止めておくほかに、救済の道はない」と記されていた......。
不気味さとまがまがしさ
ストーリーをここまで読めば分かるように、『ドラキュラ』をベースにしてはいるが、内容は異なる。ヴァン・ヘルシングに相当するブルワー教授の活躍の場は無きに等しく、博士よりもクノックの方が目立っているくらいである。そして、圧倒的な存在感を示すノスフェラトゥはひたすらおぞましく、男性的な魅力はかけらもない。原作をそのまま使えないことで、あれこれアレンジしているうちに、多くのまがまがしい要素が注ぎ込まれることになり、原作とは別種のムードが生まれたのだろう。
その映像は不安や凶兆に満ちていて美しい。ドイツ表現主義らしくノスフェラトゥの不気味なシルエットを活かした演出も効果的だ。が、ムルナウは書き割りを多用する表現主義のみに偏らず、ロケ撮影を頻繁に行うことで、リアリズムも持ち込んでいる。自然の樹木、土、川、海、動物、建物にしか出せないリアルさが恐怖の舞台を根底で支えているのだ。
技法としては、ノスフェラトゥが魔力を使うところでコマ送りを使い、超自然感を演出している。カットバックの多用もこの映画の特徴であり、船でヴィスボルクへと向かうノスフェラトゥ、馬に乗って家路を急ぐフッター、夢遊病を患うエレン、主人の到着を待つクノックを同時進行的に見せ、切迫感を出している。
無音の恐怖も意識されている。例えばノスフェラトゥが魔力でドアを開け、フッターに近寄るカットは、音が無いゆえに怖さが増している。サイレント映画の時代だから無音なのは当然だという話ではなく、これは物音や悲鳴なしに、映像の力だけで観る者を恐怖へと引き込むために計算され、磨かれた技である。
おぞましい怪物
ただ、なんだかんだ言っても、この映画を覆う不気味さや不穏さの大部分は、ノスフェラトゥを演じたマックス・シュレックに負っている。メイクだけでここまで凄まじい異形のオーラが出るものだろうか。ゆっくりとフッターに近寄る姿、目を開けて棺に横たわる姿、船倉から頭を出す姿など、どう見ても「本物」である。
シュレックが実は吸血鬼だったという仮説を立て、『吸血鬼ノスフェラトゥ』の撮影舞台裏を描いた映画が撮られたこともある。ジョン・マルコヴィッチ、ウィレム・デフォーが出演した『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(2000年)だ。これは、若き天才監督ムルナウが主演女優グレタ・シュレーダーの血を吸わせることを報酬に、吸血鬼シュレックに映画出演を依頼するという話。結局、最も怖いのは、傑作を撮ろうとする執念で頭がおかしくなったムルナウであったというオチなので、そこは拍子抜けだが、設定としては面白く、笑えるシーンも多い。
リメイク版もある。ヴェルナー・ヘルツォーク監督作『ノスフェラトゥ』(1979年)だ。キャストはクラウス・キンスキー、イザベル・アジャーニ、ブルーノ・ガンツ。確かにキンスキーはこの手の役にぴったりの怪優である。しかし、そのビザールなメイクにもかかわらず、おぞましさはない。ムルナウへの敬意に満ちた映画ではあるが、より耽美的であり、ロマンティックですらあり、オリジナルと比べて恐怖感は後退している。
ところで、実際のシュレックは1879年生まれのドイツの性格俳優であり、1936年に世を去るまで多くの映画に出演していた。妻のファニー・シュレックも女優で、『吸血鬼ノスフェラトゥ』に看護師役で出演している。本物の吸血鬼でなくて残念と言いたいところだが、彼が演じたことでこのフィルムに不死の生命が与えられた事実に変わりはない。
啓示的な映像詩
『吸血鬼ノスフェラトゥ』は怪奇映画であるだけでなく、啓示的な映像詩でもある。フッターが早足で不動産屋へ向かう途中、ブルワー教授に呼び止められ、「そんなに急いでも運命からは逃れられないよ」と軽い挨拶風に忠告されるところなど、私は初めてこの映画を観た時からずっと忘れられず、ほとんど座右の銘のようなものになっている。この映画を象徴する言葉だが、人生の真理をつく言葉でもある。
集団心理を描いている点も見逃せない。「パニックに陥った町は、犠牲となる者を探していた。クノックである」ーーペストが蔓延した後、ヴィスボルクの人々の間で噂が広がり、クノックこそが災厄の元凶だとみなされるのだ。無論、クノックは邪悪な存在なのだが、この段階では市民たちはまだ確証を得ているわけではなく、ノスフェラトゥの存在にすら気付いていない。にもかかわらず、クノックを私刑の対象とし、暴徒と化して襲うのである。こういった描写は、フリッツ・ラングの『M』の先駆けと言ってもいいだろう。
恐怖のみならず、人生や社会の真理を伝えるこの傑作が後世の作品に及ぼした影響は計り知れない。
(阿部十三)
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