映画 MOVIE

モンゴメリー・クリフト 〜孤独な青年の象徴〜

2019.10.07
 『地上より永遠に』(1953年)に印象的な場面がある。ホノルルの兵営に配属されたプルーイット二等兵が、かつてボクシングで親友に大きな怪我を負わせたことをクラブのホステスに話すシーンだ。その語り方は、内に抱える苦しみをにじませていて、いわゆるお芝居らしいテンポがない。このように内向的で生々しい演技は当時のハリウッドではまだ珍しく、多くの名優が出演しているこの名作の中でも、プルーイット役のモンゴメリー・クリフトは異質とでも言うべき存在感を示していた。

montgomery clift j1
 1950年代前半、モンゴメリー・クリフト(通称モンティ)は悩める孤独な青年のシンボルだった。その翳りのある美貌と繊細な演技は、母性本能をくすぐられた女性のみならず、ジョン・ウェインのようになれない男性たちをも熱狂させた。戦前のハリウッド映画では、たくましい男、決断力のある男、さっぱりした男が良しとされる傾向があり、傷つきやすく、うじうじしている男に肩入れする作品は主流ではなかった。それがモンティの登場を境に変わってきたのである。ジョン・ウェインとモンティが共演した『赤い河』(1948年)は、世代交代とは言わないまでも、対照的な両者が共存する時代が来たことを告げるエポックメイキング的な作品であった。

 ジョージ・スティーヴンス監督の『陽のあたる場所』(1951年)は、映画史上の傑作であるばかりでなく、モンティの「翳り」を印象づけた代表作でもある。モンティ扮するジョージ・イーストマンは、憧れの令嬢アンジェラ(エリザベス・テイラー)と仲良くなった後、交際中の恋人アリス(シェリー・ウィンタース)のことが邪魔になり、殺意を抱く。その瞬間に浮かぶ表情は、コントラストの強い照明の効果もあり、凄みを帯びている。しかし殺意は持続しない。最後までどうすべきか迷い、悩むのである。お金持ちへのコンプレックスも一筋縄ではいかない。お金はほしい、アンジェラとも結婚したい、でもセレブの世界に馴染めない。そういう割り切れなさのようなものを、モンティは繊細な演技で表現していた。なので、単に野心に溺れた愚かな若者という風には見えないのである。

 もうひとつの代表作『地上より永遠に』でも、軍隊に馴染めない雰囲気がよく出ていた。フレッド・ジンネマン監督によると、その役作りの熱心さは、「ほかの俳優を彼(モンティ)の演技水準にまで引き上げた」という。ちなみにジンネマンがモンティと仕事をするのはこれが2作目で、1作目は『山河遥かなり』(1948年)である。監督は初めて会った時のモンティについて、こう語っている。
「一人の人間として、モンティはとても繊細で、だからとても傷つきやすかった。彼には自分を守る皮膚がないみたいだった」

 ウィリアム・ワイラー監督作『女相続人』(1949年)のハンサムだが中身のない求婚者、アルフレッド・ヒッチコック監督作『私は告白する』(1953年)の苦悩する神父、ヴィットリオ・デ・シーカ監督作『終着駅』(1953年)の不倫に溺れる未練がましい青年と、タイプの異なる監督の下、巧みな演技を披露していたモンティだが、『地上より永遠に』に出演した後、納得のいく仕事を求め、ハリウッドからの大役のオファーをことごとく蹴り、安いギャラで舞台に立って注目を集めた。チェーホフの『かもめ』である。辞退した作品の中には、『シェーン』、『サンセット大通り』、『波止場』、『エデンの東』、『見知らぬ人でなく』、『白鯨』などがあったという。

 キャリアに影がさしたのは、久々の映画出演となる『愛情の花咲く樹』(1957年)の撮影期間中、車の事故に遭ってからである。顔に大怪我を負ったモンティは、整形手術を受け、どうにか撮影に復帰した。しかし術後の表情は硬くなり、若々しさは消えていた。

 ドラッグとアルコールへの依存癖があったモンティは、この事故以降、さらに生活が乱れて健康を害するようになった。クリストファー・シルヴェスター編『インタヴューズ II』に収録された1959年の記事を読んでも、インタビュアーの前で突然泣いたり、威嚇したり、床に寝そべったりと、驚くほど情緒不安定な状態にあったことが分かる。

 モンティは独身を貫いた。美しい顔とガラスのハートを持っていた彼は、マーナ・ロイをはじめとする年上の女性たちから愛されたが、同性からも愛された。つまりバイセクシュアルであった。その噂が映画関係者の間に広まっていたため、モンティは偏見と対峙しなければならなかった。

 彼の伝記などを読むと、「孤独で破滅型だった」というフレーズを目にする。しかし、強い絆で結ばれていた相手もいた。エリザベス・テイラーである。2人は結婚せず、兄妹のような友情を保ち続けた。リズは『陽のあたる場所』でモンティの影響を受けて演技開眼したと言われているが、それを裏付けるように、『愛情の花咲く樹』でも『去年の夏 突然に』(1959年)でも素晴らしい演技を披露した。『去年の夏 突然に』を観ると、弟子が師を超える瞬間を見ているような気持ちになり、少々切なくなる。

 40歳を過ぎてからは、出演作は少ないながらも、『荒馬と女』(1961年)や『フロイド』(1962年)などで二枚目の枠を超えた性格俳優として忘れがたい演技を見せたが、男臭いことを好むジョン・ヒューストン監督の下でノイローゼになったり、白内障を患ったり、受難は尽きなかった。最後の映画出演作はラウール・レヴィ監督の『ザ・スパイ』(1966年)。撮影後、モンティは1966年7月に心臓発作で亡くなり、映画は死後公開された。45歳だった。

 モンティのことを反抗的な青年の代表とする見方もある。世代的には、彼の後にマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンがその座を継ぐことになる。しかし厳密に言えば、モンティが演じた役柄も、モンティ自身も、そこまで反抗的だったのかどうかは疑問である。実際のところ、彼が演じた役は反抗的というより道徳的であり、己の志やポリシーを貫き、旧弊と対峙しようとするタイプが多かった。

 『地上より永遠に』でまわりの役者を発奮させたり、『陽のあたる場所』でリズに影響を与えたりしたエピソードからもうかがえるように、モンティは極めてストイックな役者だった。映画デビューして間もない1949年に、「サタデイ・イブニング・ポスト」誌のインタビューで彼は「真に偉大な俳優についての話といえば、オリヴィエだね」と語っている。これはお世辞でも何でもないだろう。

 ローレンス・オリヴィエは舞台俳優として大成功を収め、シェイクスピア作品の映画化で国際的な名声を得た。モンティが大作映画を蹴って、舞台出演を選んだのも、オリヴィエをはじめとするイギリスの名優たちのように、独自の地歩を固め、ハリウッドのシステムの中に取り込まれず、役者として自らを向上させたいと思ったからではないか。それが反骨精神、天邪鬼として好奇の目で見られたところに、そもそも誤解があったように感じられる。
(阿部十三)


【関連サイト】
[モンゴメリー・クリフト略歴]
1920年10月17日、アメリカのネブラスカ州オハマ生まれ。14歳の時に舞台に立ち、天才少年として注目された。ハリウッドから映画出演のオファーをされてもなかなか応じなかったが、1948年に映画デビュー。『山河遥かなり』で早くもアカデミー主演男優賞にノミネートされた。その後、出演作を厳選してキャリアを積み、大スターへの道を駆け上ったが、現状に満足せず、話題作のオファーを辞退して舞台で活動をするなど、独自の美学を貫いた。1956年5月、交通事故で顔に大怪我を負い、以後は情緒不安定・体調不良に悩まされながらも、性格俳優として演技の幅を広げた。1966年7月23日、心臓発作で死去。『禁じられた情事の森』でエリザベス・テイラーと共演予定だった果たせず、マーロン・ブランドが代役を務めた。